第9話「エルドラド」

 バンドを始めて、迷路に迷い込んだような毎日は少しずつ息を吹き返していた。でも高校での毎日は相変わらずで、友達もいないし何もやる気がなく、とにかく学校が終わって早く帰ってギターを弾きたい、とにかくバンドで音を出したい、それだけを考える毎日が続いていた。将来がどうとか、未来がどうとか、そんなことは微塵にも頭になかった。


 音楽以外に頭にあるのは小泉香織ちゃんのことくらいだった。もう一年も会っていなかったが、外の社会と遮断されたことで純粋培養された恋心に衰えなどあり得ない。むしろもっともっとと高まっていた。もはや信仰に近いくらいの恋心は、暗闇の中で場違いなくらいに眩しい光を放っていた。


 そんな時に中学時代の友達から連絡が入る。母親から「お前に中学校のクラスメイトから電話だよー。しかも女の子! 」とニヤニヤしながら告げられる。電話!? しかも女の子!? もしかして……小泉香織ちゃん!? 名前も何も聞いてないのに頭の中で妄想がスパークする。心のタコメーターが急に振り切れたように上がり、空吹かしのエンジンは大きな音を立てて不完全燃焼の黒い煙を出し始めた。またも僕の胸のドラムがヘビメタを熱演し始め、スピードキングのリフが頭の中を駆け巡る。手に汗を握りながら受話器を受け取る。少し震えた手は期待と不安の両極を行ったり来たり。何を喋るのか急遽シュミレーションするも一年も会っていない人との共通項があるわけもなく、何も浮かばずオーバーヒート。頭から煙が出ているのをはっきり感じて焦っていた。でももう受話器の向こうに彼女はいる。唾を飲み込みながら受話器に耳を当てる。胸の音が受話器を辿って伝わらないか気になり始め、止まれ! 止まれ! 俺の心臓! などともはや自殺願望の男のように祈り始める。そして観念してバンジージャンプを跳ぶように、僕は声を振り絞った。

「もしもし……」

 沈黙の後、受話器から聞こえて来た声。

「もしもしー久しぶりー! 上家だよー! 私のこと忘れてないでしょうね? 」

 それは学級委員長だった同級生、上家の声だった。いつもお節介焼きで女子の代表として男子に文句を言いに来る、面倒臭い近所のおばさんのようなクラスメイトが電話の相手だった。

「なんだ、上家かよ……」

「なんだとは何よー! 電話してあげたのにー! 元気にしてるのー? 」

 久しぶりにあの無駄に元気な声を聞く。正直三ヶ月ぶりの親族以外の女の子の声なので一瞬たじろいだが、相手が小泉香織ちゃんではないと知って緊張がフッと解けた。その緊張から弛緩の流れが良かったのか、その後は暗い高校生活を送る自分でもびっくりするくらいにフランクに話を始めていた。

「んーまあまあかなあ。そっちはどうよ?楽しくやってんの? 」

 僕らは他愛のない世間話をした。一瞬で中学時代の空気に戻る。ああ、そうそうこんな感じだったなあーと懐かしさがこみ上げて来る。なんとも思ってなかった上家でさえ愛おしく思えてくる。僕らはお互いの近況報告をしつつ、笑いながら会話を楽しんでいた。


「あのさあー今度の日曜日なんだけど、江川は空いてる? 」

 自然な流れの中でそんな会話が始まる。話が進むにつれ、電話が来た理由が明らかになる。この電話は僕がずっとずっと待ち望んだものだった。それはあの誰もが憧れる甘酸っぱい宴への招待。男子高生にとっては天竺、竜宮城、黄金の国ジパングと同様の場所。遠くに見えるエルドラドのような理想郷にして最後の楽園。女子との接触不足で息も絶え絶えの男子高生が見つけることが出来る唯一のオアシス。そう、上家からの電話は、男子高生の最後の突破口、同窓会への誘いだった! あの輝かしき中学時代の友達に会える! あの美しき小泉香織ちゃんに会える! もう鬱陶しいくらいの優等生で、ちょっと面倒な女くらいに感じてた上家が天使に思えて興奮していた。飛び上がって手を握ってありがとう! と伝えたかった。

 勿論二つ返事で出席を伝えた。フライング気味に「行く! 」と叫んでいた。その後、どんな会話をしていたのか、電話の内容は全く覚えていない。頭の中は小泉香織ちゃんが溢れ出していた。体中の穴という穴から、恋心がこぼれ落ちていた。この瞬間の為に十七年間ずっと生きてきた! そのくらいの待望感が僕を包んでいた。ドーパミンが脳内から尋常じゃなく溢れ出し、エンドルフィンがドルフィンソングを歌いながら踊り出していた。その瞬間から、その来たるべき日、約束の日を指折り数えて暮らしていくことになる。最悪な高校生活もこの時期だけは悪くないものになっていた。だって小泉香織ちゃんに会えるんだ。クソみたいな毎日は金色に塗りたくられていた。


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