第5話「ミュージシャン」
小さな頃から音楽が好きだった。ベストテン、トップテン、夜のヒットスタジオを食い入るように見ていた。その頃は歌謡曲全盛の時代で、音楽を聴くのが当たり前だったから、我が家でも音楽がよく流れていた。五歳上の兄貴のステレオからはクイーン、ビリージョエル、メンアットワーク、ポリスなどの洋楽も流れ、いつしか僕も音楽にのめり込んでいく。
兄からの影響だけに留まらず、中学に上がると耳鼻科の通院費をごまかしては、せっせと貸しレコード屋でレコードを借りまくる生活が始まった。おかげでその音楽知識から音楽博士のような存在に見られるようになり、あいつに聴けばなんでも知ってるよ、なんて言われるようになっていた。同級生の中では圧倒的なリスナー体験を誇っており、その中でティアーズ・フォー・フィアーズ、ハワード・ジョーンズ、ブライアン・アダムスにコリー・ハート、シンディ・ローパー、ワムが大好きになった。そしていつしか、ミュージシャンへの憧れを持つようになっていった。
それは中学時代、ある日の夜のヒットスタジオだった。あの頃は恒例だった海外からの生中継の時間。その日は大好きなハワード・ジョーンズが出ることになっていた。僕はウキウキしてテレビの前で膝を抱え、今か今かと登場を待つ。そして名前を呼ばれて颯爽と登場したハワード・ジョーンズ。ツアー中だというイギリスのどこかの街はどんよりした曇り空で、そんな街の大きな港で彼はその当時ヒットしていた「ONLY GET BETTER」を歌った。まるで活けられた草花のような髪型、色の白いアーティスト然とした出で立ち、それでいて優しそうな雰囲気のハワード・ジョーンズ。そんな憧れの存在が、僕の1番好きな曲をとてもクールに演奏した。僕は興奮しまくって、それこそかぶりつくように画面を見ていた。そしてどんどん画面に近づいていった。いつしか近づき過ぎた僕は画面に焦点が合わなくなり、トロンとした目で画面の奥、映像としては映らない何かを見つめ始めていた。それはもっともっと奥にある何か。おぼろげながらも強烈な何か。もはやハワード・ジョーンズを見ているわけではなかった。胸がザワザワして、自分が何か特別な瞬間を迎えていることを感じていた。その時、頭の奥の方、まだ開けたことのない大きな扉が開き、急に1つのアイデアが閃いた。それは昔からそこにいたように自然な姿で頭の中に現れ、ムクッと起き上がった。そして僕の口が思ってもいない言葉を発する。
「音楽作りたい。ミュージシャンになりたい」
その時、僕の口からこぼれた言葉はそんな言葉だった。一瞬の間があり、家族は爆笑に包まれた。母親と姉はそれを聞いてただただ笑っていた。兄はお前なんかになれるわけないだろ? とバカにした。でもそんなことは全く気にならなかった。余りに自然に口をついたので拍子抜けするような感じだったが、だんだん熱を帯びるように興奮したことを覚えている。唇が紫に染まり、舌がカラカラになった。それは自分の意思で、初めて自分の未来のことを口にした瞬間だった。初めて何かを選択した瞬間だった。しかもそれは逃避ではなく、なんとなく周りに流されて憧れたものでもなく、現実的に今自分が欲しているもの、必要なものを選び抜いたと思える瞬間だった。それをある人は夢と呼ぶのかもしれない。だけど僕にとってはそんな「夢」と名付けるほど遠いものではなく、今すぐに音楽を作り、音楽を自分の真ん中に置く。そんな「決断」だった。そして僕は卒業文集に「ミュージシャンになる! 」と一見すれば無邪気な夢を書くような子供になった。それは確かに無邪気かもしれないが、痺れるほど本気で、しかも絶対的だった。
その後、僕はとても自然な流れで楽器を手にして、音楽の道を歩み始めることになる。シンセサイザーとギターで迷いながら、中学卒業と共に手にしたのはギター。このギターは、暗黒時代に唯一の光を放ち、僕を社会に踏みとどまらせる数少ない武器となる。
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