第4話「迷路」

 二年生になってクラスが変わっても代わり映えのしない日々だった。機械のように毎日を繰り返し、思い出なんて何も残らない。記憶喪失になんてならなくても何1つ覚えていない。友達もいない。意味のない日々をタイムカードでも押すように繰り返していた。


 この頃から楽しかった中学時代を懐かしむようになった。友達とバカな話を繰り返し、先生からも笑顔で話しかけられる日々。女子バスケット部の部室を覗いて水をかけられたり、廊下を自転車で走って怒られたり、プロレスごっこして首を寝違えたり、修学旅行でベランダ越しに女の子の部屋に忍び込んだり、女の子にターザン後藤に似てるって言って嫌われたり、小泉香織ちゃんと楽しく話したり。そんな毎日は躍動的で輝いていた。毎日が思い出の1ページだった。


 そしていつしか中学時代と高校生活のギャップに心をやられた僕は、近いうちに中学時代に戻るという妄想に取り憑かれることになる。それはタイムスリップなのか、異空間に入り込む現象なのか。その時の僕にはその仕組みはどうでも良く、ただ僕の人生の先であるはずの「未来」にあるのは「過去」であるはずの中学時代なんだという、奇妙で理解不能な妄想を本気で信じていた。何が起きても「どうせそのうち中学に戻るんだからなんでもいいや」という考えに帰結し、闇雲な心の逃避を繰り返した。テストの点が悪かろうと、体育祭でビリだろうと、クラスメイトとうまくいかなくても、全ては中学時代に戻るのだから何も意味はなかった。簡単に言えば、僕の頭の中は精神科に行くべき状況だった。混沌とした渦が頭の真ん中に渦巻いていた。僕の家系は精神的な弱さを内包した家系。親戚のどの家にも精神的に破綻する子供が1人はいた。それが我が家では僕だったのかもしれない。


 勿論学校の成績は急降下した。一応入学時は選抜クラスにいたはずだが、二年になる頃には学年でも下から数えた方が圧倒的に早く、そして微塵にも成績が上がる気配はなかった。学校の成績の急低下に親も心配を始めていたが、中学時代に戻る妄想に取り憑かれた少年には何を言っても無駄だった。僕は毎日虚ろな目で未来という名の過去を見つめていた。

 成績の急降下も問題だったが、もっと根源的な生きる意欲のようなものさえ失っているのが本当の問題だった。家に帰っても何も喋らず、ご飯さえ食べない時が増えていった。それでいて何か反抗的な態度を取るわけでもなく、親の言うことは良く聞いていた。勿論学校でも問題を起こすわけではない。表面的には真面目で問題の無い十七歳の少年。しかしながらその内面は、ただ呼吸だけを繰り返し、虚ろな目で過去だけを見つめ、未来の存在を消去した十七歳。それが本当の僕の姿だった。怒鳴ろうが慰めようがどうにもならない僕に、両親は困惑していた。イカサマな宗教に勧誘されていたらのめり込んでしまうような、人を殺す理由があったら人を殺してしまうような、そんな何色にも染まる恐ろしい空白が僕の中に確実に存在していた。そしてその空白はとても大きく、すべてを飲み込むように拡大していった。この空白から抜けだせなければ、とんでもない人生が待っている。そんな事実をどこかで理解していながらも、どうにも出来ない僕がいた。押し寄せるような大きな波から逃れる術を、17歳の脆弱な少年は持っていなかった。僕はただただこの波に飲み込まれ、水中でもがいているだけだった。


 しかし、そんな状態でも僕の中には1つだけ小さな希望が宿っていた。それはおぼろげで、ゆらゆらと揺れるばかりの頼りない希望だったが、微かな光は真っ暗な世界の足元を仄かに照らしていた。それは地獄を彷徨う人間の前に降りてきた、細くて見えにくい蜘蛛の糸。垂らしているのが神様なのかお釈迦様なのかは知らないが、下を向いて歩く僕が気付かないうちに、その糸は目の前に垂らされていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る