第3話「女の子」

 男子校というのは、女の子がいないということだ。思春期の多感な時期に当たり前にいるはずの女の子がいない。この不自然な状況、動かしようのない事実が与える影響はとても大きい。

 数少ない男前で、お洒落で、社交的なグループは他校の女子校とよろしくやっていた。しかし、大抵の平均以下なスペックしか持たない奴らにとって、女性とは妄想の世界のものだった。そしてひん曲がった尊厳と欲望に翻弄され、ねじれ曲がった感情が熟成されていく。やがて周回遅れの不器用なコミュニケーションを繰り返し、魅力も自信もいつまで経っても手にできない悲しき男が大量に誕生する。この男子校というシステムの有用性を誰か教えて欲しい。


 そんな状況では大抵のクラスメイトが肉親以外の女性とは喋っていない状態になる。するとバカな高校生に顕著な、無駄な意地の張り合いが始まる。それは「俺もう一週間女と話してないぜー! 」「俺なんて二ヶ月! 」などという不毛で悲しい競争。しかもそんな競争での勝利にさえ優越感を感じるのが高校男子のバカエネルギー。

 また逆に「今日女と喋ったー! 」なんて奇跡的な奴が現れると、教室内は阿鼻叫喚の大騒ぎとなる。しかしその内容は「おはよう」の一言だけで、それはもはや会話でもなく……。それでもそんなちっぽけな出来事が腐りきった男子高生の欲望に火をつけ、興奮の坩堝と化す。その奇跡の男は尋問にかけられ、その女の子とどこまで行っているのか、最後まで出来そうなのか、「おはよう」の一言からどこまで飛べるのかを競い合うように妄想のQ&Aが続く。女性のことを何も知らない男達による奇妙奇天烈なアドバイス。そしてそれを聴いて納得顔で頷く男たち。この暗く恐ろしい男子校の沼の深さよ。僕もその沼の中に頭までどっぷり浸かりながら、真夏のある日、一ヶ月ぶりに女の子と話をすることになる。


 それはとても暑い夏の日だった。学校からの帰り道、自転車で片道1時間という闇雲に遠い通学の途中でそれは起こった。うんざりすることには事欠かないが、友達はどこにも見当たらない学校に疲れ、1人ノロノロと自転車を走らせていた。暑くてだるいのか、それとも高校生活がだるいのか。もう全てがだるく感じる昼下がり。それは家にほど近い、田んぼの横での出来事だった。


 ふと前を見ると誰かが自転車で走って来る。太陽に照らされたアスファルトは物事の境界線を曖昧にしていく。陽炎の中から少しずつ輪郭を帯びていくその姿。視覚で確認するより早く、僕の胸は少しずつ鼓動を強くしていった。気づいた時には僕の胸のドラムがヘビメタを熱演していた。真っ暗な世界に急にスポットライトが当たったようなその眩しさ。薄目を開けながら、その存在をどうにか視認しようとするがなかなか焦点が合わない。そしてそんな僕の奮闘を嘲笑うように、目で確認するより先に元気な声が耳に届いた。


「久しぶり! 元気? 」


 耳に届いた福音のような声。瑞々しい音声。その声の主はあの、僕の頭の中を占拠している恋する人、永遠の片思いの相手、小泉香織ちゃんだった! 凛としたその姿は何も変わっていなかった。いやむしろ眩しいばかりに輝いて、中学時代より何倍も可愛くなっていた。

 小泉香織ちゃんは小学校も中学校も同じながら、中学校三年生で初めてクラスメイトになったショートヘアーの似合う可愛い女の子。ちょっとだけヤンキーで、でもどこかで優しさを感じさせる女の子だった。あの当時のキョンキョンに近いイメージの学校のアイドル的な存在で、彼女のことを好きな男は数限りなくいた。僕はクラスメイトになると、他の男と同様に徐々に彼女に惹かれていった。僕達は仲も悪くなかったし、よく喋ってもいた。でも、彼女にとって僕が特別な存在だったことは一度もなかった。向こうが意識していると感じることもなかった。だがしかし、卒業パーティーの時の寄せ書きにはこう書いてあった。


「とても楽しい中学時代だったね!高校生になったら……」


 ん……? なんだその「……」は!? どういう意味!? どういうこと!? 僕はその「……」に激しく妄想した。いろんな言葉を入れて考えた。悪い妄想は全てどこかに追いやり、自分にとって都合の良い妄想ばかりを集めまくった。そしてその後に起きること、いや今夜起きること、この卒業パーティーで起こることを妄想した。小泉香織ちゃんの一挙一動を見つめていた。いつ告白される? キスってどうやってするんだ? それくらいに妄想は進んでいた。しかし、当たり前だがパーティーの間もその後も何も起こることはなく……。あっさりとサヨナラの言葉が繋がれ、仲の良かった中学校3年生のクラスは解散となった。小泉香織ちゃんとはただの「元クラスメイト」となり、僕たちはそれぞれの道を歩み出した。希望的観測の「……」への答えは、卒業パーティー後のモヤモヤの中に消えて行った。手がかりなしの迷宮入り。凄腕の名探偵は現れなかった。


 その後、出口のない「……」への問いは僕の頭の中に頑丈に入り込み、まるでバリケードを築いた左翼運動家のようにその一角を占拠した。本当のことは何もわからないまま高校生活に突入した僕にとって、彼女が僕に好意を持っているんじゃないか? という見当はずれな妄想は心の拠り所となった。それは他の女性と出会わない男子校の日々で、みるみるうちに膨張していく。そしてその妄想だけが僕の毎日を前に進めていた。頭の中で何度も繰り返した再会のシチュエーション。それが今現実になろうとしていた。誰よりも会いたくて、誰よりも話がしたかった小泉香織ちゃんが今は目の前にいる。僕の心は舞い上がっていた。雲よりも高く、いや大気圏も飛び出して土星の輪に触れるくらい舞い上がっていた。ただ出会えただけで。お互いの存在を確認できる距離に彼女がいるだけで。


「おお……ひ、久しぶり……」


 しかし、残念なことに、残念極まりないことに、その一言をなんとか絞り出したところで僕はフリーズした。情け無い話だがもう一カ月も女の子と話してなかったし、その前に話をしたのはマクドナルドで「ポテトはいかがですか? 」と言われただけだった。その会話と呼べないものまでカウントするくらい女性との会話は皆無だった。

 僕は緊張で震えながら彼女の前に立っていた。この真夏の空の下、僕の目には彼女だけが映っていた。他は何もなく、青い空でさえ存在感を無くした。僕は彼女のことをとてもではないがまっすぐ見つめることはできず、彼女が履いていたローファーとその周辺をただ凝視していた。焼けたアスファルトの匂いが、まとわりつくように足元に漂っていた。もはや夏の日差しで熱いのか、自分の体が激しく熱を発しているのか、曖昧なまま頭がクラクラしていた。二人はもじもじしたまま無言になった。話したいことは限りなくあるのに、何一つ言葉は外に出て来なかった。頭の中に言葉が浮かんでは、蝉の声と意気地無しの心にかき消された。その時間は何分だったのか、いや何秒だったのか。そんなこともわからないくらいにテンパった僕は、頭の中が真っ白になっていた。

 やがてその空間に耐えられなくなった彼女が「じゃ、じゃあね」と苦しそうな笑顔で自転車に乗った。ペダルを漕ぐ彼女のローファーの上のふくらはぎは、バスケット部のエースだった彼女を思い出させた。そして物凄い勢いで自転車は走りだし、彼女は風のように行ってしまった。僕は少し遅れ気味に彼女の背中へ「じゃあ……」という言葉だけを絞り出し、彼女を見送った。彼女が角を曲がるその瞬間まで背中を凝視した。僕は自分の中で何か言葉にならないものが高ぶるのを感じていた。心臓の音、そしてそれ以外の何から何までが大きな音を立てて騒いでいた。蝉が頭の中に何匹も何匹もいるように、ものすごい音が頭の中に響いていた。


 僕は全速力で自転車を走らせた。信号なんて守ってる暇はなかった。全ての風を追い越して、全てのモヤモヤを蹴散らしながら走った。そして大声をあげていた。彼女に会えた嬉しさと、何も言えない自分への苛立ちと、そして自分の周りにまとわりついたベトベトして気持ちの悪いもの全てに対して吠えていた。訳のわからない言葉で、誰にも向かわない衝動を叩きつけていた。

 自転車を家の前に乱暴に止めると、そのまま自分の部屋に駆け込んだ。ベッドに突っ伏して、枕に拳を叩き込んだ。何度も何度も繰り返し、枕の籾殻は僕の気持ちと同じ不恰好な形になった。そして息が切れるほどその行為を繰り返した後、僕は仰向けになって天井を見た。


 小泉香織ちゃんに会った……。


 その事実だけで体の全てがパンパンに膨れ上がっていた。今にも破裂してしまいそうだった。その日は夕飯も食べずに眠った。いや眠っているのかもわからないまま、天井を眺め続けた。隣の部屋では兄貴がブルーススプリングスティーンの「BORN TO RUN」を大音量で聴いていた。走り始めた心にブレーキはなく、アクセルだけを踏み続けて、どこまでも転がり続けていた。しかしながらこの後、一度も彼女と会うことなく一年生が終わった。その特別な一日はとても暑い夏の日だった。

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