第2話「腐る」
悪夢の入学式から数日後、朝礼があった。壇上にはまた角刈りがいた。今、反吐が出るものを全て集めたらあいつになるんじゃないか? ってくらい醜悪な笑顔で「おはよう」と挨拶をする。「今日もお前達をいびって楽しむかな」と顔に書いてあるような、気色の悪いニヤニヤした顔をしたおっさん。それが教頭だなんて悪夢を通り越して罰ゲームだ。
角刈りが得意気に話を始めた。直立不動で聞く生徒達。その時間はまるで永遠のようで、暗い穴をただただ覗き続けているような、そんな暗澹たる気持ちで僕は立っていた。
「昨日ワシは野球部の部室に向かった。練習を終えた部員を叱咤激励しようと思ってな。野球は心をキレイにする。素晴らしい。練習を終えた部員達はちょうどシャワーを浴びておるところだった。ちょっと遅かったか、と思って顔を出して職員室に帰ろうとしたが、そこでワシはとんでもないものを見つけてしまった! ワシは信じられなかった! なんと! あいつらはリンスを使っておった! けしからん! 」
リンス……? 会場中に広がるハテナマーク。誰も最初はその内容を理解することが出来なかった。わけがわからなかった。しかし、少しずつ頭の整理をした生徒達に理解が広がっていく。え? リンスなの? けしからんのはリンス? それぞれが小声で確認し合う。生徒達は凍りつきながらも少しざわついていた。しかし角刈りが大きな音を立ててテーブルを叩き、すぐさま静寂が戻ってきた。そして角刈りがまた吠える。
「リンスを使うなんて不良の始まりではないか! なんてことだ! ワシはすぐにそれを取り上げた! リンスなんてけしからん! 」
凍りついた生徒の1人である僕は、角刈りの言葉に口を開けたまま、戸惑いというものを口から押し込められている気分だった。リンスが悪。リンスは不良。その発想、その方程式は僕の常識の斜め上を行っていた。不意を突かれた僕は完全に心の柔らかい場所に一撃を食らっていた。そしてその場所からゆっくり腐り始めていることを実感していた。坊主頭にリンスを笑う話ではない。リンスが悪なのだ。リンスが。その日の朝礼の間中、笑い声をあげる奴は1人もいなかった。
翌日、またうんざりする声が朝から響く。
「お前! そこのお前! 」
あぁ、またか…。僕は廊下の窓から校門の方を眺めていた。登校する生徒たちが続々と学校に入ってくる。そこに無駄な存在感と共に現れた角刈り。うんざりするその声、顔、体臭。捻じ曲がった教育という悪夢の塊である角刈りが、飛ぶように全速力で生徒に向かっていた。あいつこのまま転んで死なねぇかな……と窓から眺める全校生徒が思った瞬間、首根っこを掴まれて引きずられたのは、なんと同じ中学出身の幼馴染の友達、この学校で唯一の友達だった。
「お前、髪に何をつけとる! 」
そんな怒声と共に有無を言わさず水道まで引きずられた友達は、頭を蛇口に押し付けられて、冷たい水をこれでもかと流され続けた。後で聞くと原因はムース。友達は「朝、指差されて笑われるレベルの寝癖がついていたからムースで直しただけだぜ。じゃあひどい寝癖で来る方がいいのかよ……」とため息をつきながら嘆いていた。僕は髪をビショビショにされている友達を見て、助けることもできない自分が嫌になっていた。冷たい水を自分も浴びせられているように感じて、もしかして角刈りは冷たい水で俺達の色まで洗い流そうとしてるのか……? そんな妄想すら頭に浮かんでいた。僕の両腕には春の陽気には不似合の、寒気の塊のような鳥肌が広がっていた。そしてその友達はこの学校を去って行った。それは学校に1人も友達がいないことを意味した。
そして学校をやめる勇気も、行動力もない僕は1人取り残されたように立ち尽くし、心を完全に停止させたまま、この場所で死んだように過ごすことになった。頭も体も腐らせて、ただ機械のように毎日を繰り返すデクノボウ。息をしているのかどうかも不確かだった。僕に出来ることは「そしてナイフを持って立ってた……」とブルーハーツの歌を弱々しく口ずさむくらいだった。でもナイフはどこにも見当たらず、僕の拳は空を切った。弱虫の声は虫の息で、蟻地獄に落ちた蟻はこんな気分なんだろうなと想像していた。
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