ラバーソウル

@egawahiroshi

第1話「悪夢」

 黒い。なんだこの黒さは。しまった。しくじった。体の奥底から湧いてくる悪寒に震えながら、呆然と立ち尽くし、自分が大きな判断ミスを犯したことを思い知らされていた。そして、気付いた時にはすでに遅かった。

 思春期を迎えて目覚めたばかりの男性ホルモンを肉汁のように溢れさせ、異臭を放ちまくる十五歳の男達。整然と並ぶ男達の姿に僕は圧倒されていた。そんな男達のどこまでも、どこまでも続くような長い列を、僕は唇を噛み締めながら見つめていた。それは真っ暗な学生服と真っ黒な頭が一つの生き物のように集まった、アンバランスでグロテスクな一つの生命体。自分がそのグロテスクなものの一部だという事実にゾッとして、気を失わないようにするのにとにかく必死だった。悪い夢だと思いたかった。でもそれはあまりに現実的だった。


 1986年の春、僕は男子校という名の強制収容所に入所した。入所式ならぬ入学式で、ただただ口を開けて茫然自失の15歳の少年は、言葉を失うという体験を心に刻み付けていた。まさかの1学年13クラスというマンモス校。それが全部男。右を見ても左を見ても男、男、男……。その全てに2つのタマと、1つの肉棒が欲望のままにぶら下がっている。1クラス45人として1070個のタマと535本の肉棒。そんなものがあちらこちらでぶらんぶらんと揺れている。そのうちの何本かの肉棒はハーレム的な感覚に打ち震え、硬くなっていたに違いない。

 後先考えずに生徒をかき集め、校舎が足りなくなって急遽プレハブを建てるような拝金主義の高校の一員に、僕はその日から所属することになった。何も考えず、全て人任せだった三人兄弟の末っ子に、現実が金属バットで襲いかかってきた。現実がこんなに痛くて臭くて苦しいなんて、僕は知らなかった。


 半年前のあの日。ノンビリと中学校ライフを過ごしていた僕は、フンワリと三者面談に臨んでいた。中学校三年生の僕には最大の議題、進路についての面談。隣には肝っ玉かあさんを絵に描いたような母親が、いつもと違う不安そうな表情で座っていた。

「じゃあ、始めますね」

 担任教師は落ち着いた顔で話を始める。

「よ、よろしくお願いします」

 母は恐ろしく低頭平身で先生にあいさつした。僕は妙に緊張した母に戸惑いを覚えていた。僕の知ってる母親はもっともっと図太い人だった。

 小学五年生の頃、クラスの問題児となり職員会議の議題にまでなっていた僕を、先生との面談から帰るなり言葉を発するより早く殴り倒したのが母だった。ゴキブリは素手で潰し、近所の野良猫が台所に盗み入るとビール瓶で殴りかかって追い払った。僕に届いた不幸の手紙は見た瞬間に破り捨て、霊の話をすると「死んだら土になるだけ! 」と一喝した。それでいて心霊番組が大好きで、お化け屋敷では井戸から出てくるお岩さんにアンコールを求めた。そんな昭和の時代を生き抜いた、高度成長期を支えた典型的な日本の母、それがうちの母親のはずだった。それなのに今日の母親は先生の前で小さくなり、息子の進路については先生の意見を丸呑みにしている。三者面談は先生の主導で進んでいた。

 公立の高校は好きなところをと言われ、友達が行く学校を選んだ。滑り止めの私立は先生が勧めるままに決めた。東京にも埼玉にも通える浦和という立地で、無数にある私立高校の中から先生がその学校を勧める理由は、良い学校という評価やその生徒に合うという理由ではない、決め手は営業力。そんな教育界にあるまじき経済原理のカラクリを中学生の僕が知ったのは、学校を決めた後だった。大学生の兄は僕と母親のナイーブを笑い、社会の仕組みを軽やかに説明した。そして、それでもその学校選びは生徒を思ってのことだと信じて疑わない母親は、息子が奈落の底に落ちていくことも知らず、目一杯背中を押していた。

 そこは埼玉の川越にある割と新しい男子校だった。もう一度言う。男子校だった。女子がいなければ何も頑張らない体質の少年が、男だらけの学校を受験することになったのだ。立ち込める暗雲。でも、共学の公立高校に受かるつもりだった僕は、男子校であることを全く気にも止めていなかった。僕は七つ上の姉と五つ上の兄を持つ三人姉弟の三番目。基本楽観的な末っ子である。悪い方に転んだ時のことは何も考えていなかった。誰だ? ポジティブは素晴らしいとか言ったのは? 甘やかされて淀み切った僕のポジティブは、悪い方に急ハンドルを切っていた。


 結局公立高校には受からなかった。友達と見に行った合格発表。帰り道では合格した友達にとても気を使われ、何とも微妙な空気が流れて居心地が悪かった。でも、僕はそれほど不合格なことにショックを受けていなかった。そりゃああんなに勉強しないでテレビ見たり、マンガ見たり、鼻くそほじったり、いやらしいことばかり考えていたら受かるはずがない。まあ当然だな、と他人事のように不合格を受け止めていた。

 しかし公立高校に受からなかった僕は、滑り止めの私立高校に行くことになる。不合格の先にあるその現実を、僕は真っ直ぐ見ていなかった。何も考えていないイカレポンチな僕は、卒業式の後に行われるお別れパーティーのこと、ずっと好きだった小泉香織ちゃんとの最後の時のことばかりを考えていた。パーティーが終わった後のこと、新生活、高校生活のことは何一つ考えてなかった。そう、何一つ。入学式の列で、あの黒い大きなバケモノに出会うまでは。


 動悸息切れめまいと戦いながらなんとか入学式を終えた僕は、フラフラ教室に帰る長い列の一部となって歩いていた。その長い列を、意地の悪そうな角刈りの初老の男が見ていた。睨むような、舌舐めずりするような視線で生徒を見つめる角刈り。

「おいお前! 」

 急に大きな声が響いた。朦朧としていた僕には、その罵声が自分に寄せられているなんて想像もできなかった。だいたい僕は中学では穏やかな生徒で通っており、真面目で先生にも好かれるタイプだった。先生に怒鳴られるなんて無関係であり、罵声に反応する回路は持っていなかった。

「お前だって言ってるだろ! 」

 僕は急に肩を掴まれ、体を揺さぶられ、驚きで目を丸くしていた。僕の肩をぐいっと乱暴に掴んできた角刈り。とても人相が悪く、堅気とは全く思えない強面の角刈りの正体は、なんとこの学校の教師、しかも教頭だった。生徒を恫喝することに喜びを感じているような、人生の師には勿論、どんな形でも関わり合いを持ちたくないタイプの初老の角刈り。しかもそいつは教頭なだけではなく、この学校を牛耳っている誰も文句の言えない絶対的な支配者だった。ノンビリした校長はすべてを教頭に任せ、教育方針に異を唱える先生は次々に排除されていく。そんな恐怖政治がこの学校の運営状況だった。急に怒鳴られて戸惑う僕は、ただただ振り回されて何も状況を把握できず「ふあ? ふえ? 」と言葉にならない声で困惑をまき散らした。そこで角刈り教頭が叫ぶ。

「お前はなんという靴下を履いてるんだ! ふざけてるのか? おい! 」

 ん……? 靴下……? そう言われて自分の靴下に目を落とした。その日履いていた靴下は、モノクロのグレンチェックの靴下だった。学生服にも合うし、何も攻撃的でも不良的でもなく、特に目立つものではなかった。中学でもその靴下を履いて通学していたし、誰からも咎められることなんてなかった。しかし、どこから見ても問題のないように見えるその靴下が、角刈り教頭には大問題なのだった。怒鳴り散らして恫喝するくらいに。無抵抗な生徒の体を突き飛ばすくらいに。

「早く脱げ! 馬鹿者! 靴下は無地に決まっとるだろう! 模様はワンポイントまでじゃ! 」

 他の先生は困惑しながら、ただ黙っていた。助けてくれる先生なんて誰もいなかった。


 その声を聞きながら、僕は自分の暗黒時代が始まったことを理解した。その後のことはほとんど覚えてない。ただ帰り道、裸足で履いた革靴の感触が、僕の足にまとわりついて離れなかった。あの違和感、嫌悪感、言葉にできない気持ち悪さ。僕は心の扉を静かに閉じ始めていた。青春時代。そんな言葉は僕の手から滑り落ち、粉々に砕け散っていった。

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