第3話 人知を超えたトレーニングとは

「パンチもキックも当てていいんですか? 寸止めって聞いたんですけど」


「一寸手前で止めるんじゃなくて、一寸ぶち込んで止めるんだよ」


「わ、そうなんですか。危ないんですね」


 結局練習は普通に始まり、アリスちゃんが不思議そうにいろいろ聞いてくる。興味はあるらしい。が、ネコのレクチャーはしょっちゅうデタラメになるので油断できない。


「もう少し正確に説明してよ。当てるけれど、当ててから奥へ打ち込んじゃダメってこと。当てて引いてポイントなの。試合だと防具もつけるし強打はすぐに反則取られるから、大きなケガは少ないわ」


「そうなんですね」


「うん。ながい時間をかけて整備された、伝統があるものなのよ」


「伝統かー。カッコいいですね。なにか伝説とかあるんですか?」


「あるとも。むかしむかし桃太郎がウシ、クマ、トラをまとめて倒しました」


 割って入ってきたネコの頭を黙って両手でかかえ、ころんと転がす。


「何すんだよ!」

「せめて鬼を退治してよ!」


「しょうがねえなあ。じゃ、あたし様は鬼退治にいってくるぜ」

「素直に今日はあがりって言いなさい!」


 アホが去り、アリスちゃんとマンツーマンになった。まあいいか。これで清く正しい空手が教えられるし。冷や汗をこっそりふいて、それから一時間ほどアリスちゃんへ基本を一通り教えた。素人だけど、素質は悪くない。大事な動作から順に実践性を意識して、正しく、美しく見せる。動きの難しい部分は実際にやらせて、少しずつ直していく。


 ああ、いいなあ。これこれ。ユーハさんはこれがやりたかったんですよ。これが空手なんですよ。今日こそ普通の空手を教えてこの武道の素晴らしさを広めるんだ。


 空手は決してクマと遊ぶための曲芸じゃない。健康に役立つスポーツであり、危険から身を守る護身術であり、そしてまた何歳になっても続けられる奥行きの深い武道なのである。


 と、思いきや。ネコが去っていった直後に道場の戸が開いた。


「あら、今日は2人だけですの?」


 げ。


「あら、新しい方ね。初めまして。わたくしは須藤更紗すどうさらさ。東都大の学生ですわ」


 変な敬語。亜麻色をした動きの少ないショートカットに健康そうな小麦色の肌。ウェストの細い紺色のチェスターコートを着ていた。それをぬいで椅子に置き、手に持っていた白いカシミアのストールを上に。中はカーキ色のVネックプルオーバー、黒のフレアスカート。


 ここまではまあ単なる女子大生なのだが、しかし。しかし、中身はめちゃくちゃな女だと私は知っている。


「わあ、綺麗な人……OBの方ですか? 初めまして、私、アリスです」


 アリスちゃんがなんの警戒心もなく先輩に挨拶する。まずい。


「それでは今日の練習はここま……」


 私が言い終わる前にサラさんが割り込んできた。


「お待ちくださいませ。せっかく来たのですから、少し指導いたしますわ」


 くそー、タイミング逃した。


「先輩、今日は予定があってこられないとかメッセ来てましたよね?」


「……その予定でしたのですが、残念ながらご縁がなくて」


 サラ先輩がにやりと口角を上げる。が、眼が笑っていない。


 まずい! またこいつ合コンで失敗しやがった! 殺される!


「わ、うれしいです。ありがとうございます」


 アリスちゃんがにこにこと答える。


「それでは来るべき敵との対決に向けて、人知を超えた強さを手に入れる方法を」


「まったあ! 先輩、まず私がやります!」


「あら、そうですの? ではユーハさん、前に立って」


 ああ、言ってしまった。今日は何をやるんだろう。


 この人の前科は思い出したくもないが、言い出すともうそれだけで本が一冊できる。鉄骨を蹴るとか砂鉄の入った皮袋を天井から腹に落とすとか、ピッチングマシーンの正面に立って硬球を素手で打ち返すとか。


 もちろん私たちはそんなことしない。しないのだが、目の前でサラ先輩がいとも簡単にやってのけるので、なぜか残りの部員が私とネコにやれとけしかけてくるのである。命が惜しいので勘弁していただきたい。昭和のマンガじゃあるまいし。しかしこの空手以外の要素が一割にも満たないこの人の頭の中では、


「さあいいですかユーハさん! 人知を超えた真の敵に勝つためには、人知を超えた強さが必要です! 人知を超えた強さを手に入れるためには、人間をやめる決意が必要なのです!」


 ということになっているらしい。


 なお大前提となっている、真の敵とはなんなのかはまったくの謎だ。何度も聞いたが、『自分自身』だったり『大相撲の横綱』だったり『埼京線の痴漢』だったり『百獣の王ライオン』だったり『範馬勇次郎』だったり『クマ』だったりコロコロ変わるのでいまだに理解できない。多分本人もわかっていない。


「もうなんでもいいからさっさと始めてください」

「ではまずこの目隠しをしてくださいませ」


「まて」

「なんですの?」


「どういう稽古なのか先に聞きたい」

「目隠しをした相手を四方八方から殴りつけて、人知を超えた鋭敏な感覚と驚異的な反射神経を養成」


「だまれ」


「い、いやしくも監督に向かってなんという暴言!」

「暴言を言わせてるのはサラ先輩でしょうが! 空手が強くなることをやってくださいよ!」


 ネコをアホの道に誘い込んだこいつには言いたいことが山ほどある。今日こそ決着をつけてやるぞ。


「ですから死を乗り越え人知の及ばない」

「さっさと彼氏でも作れ!」


「な、な、なんとおっしゃいました??」


 鬼のように顔を赤くしてぎりぎりぎりと先輩の奥歯が鳴り響く。怒らせたらこっちのもんだ。空手は冷静な奴が勝つ。今日こそ連敗記録はストップだ。


「後輩と思って優しくしてればこの態度! もう容赦しませんわ! かかってらっしゃいませ!」


「上等! 手え抜いたら失礼ですから、殺す気でいきますね!」


 着替えてもいない先輩へむけて、先手必勝の上段突きをかます。避けられた。スカートのくせに反撃が前蹴りだ。かわしつつ正面から衝突、お互いの足払いに同体で倒れ、突き飛ばしあいながら立ち上がる。


「教えてやった恩もお忘れになるとは! もう徹底的にお仕置きですわよ!」

「色ボケ先輩なんかに負けるか!」


「先輩すごーい! 頑張ってくださいね!」


 忘れていたけど、アリスちゃんはいつのまにか正座して私たちの対決を楽しそうに見つめている。こいつ天然すぎだろ。そうか、勘違いしてた。この部活は来た奴がアホになるんじゃない。最初からアホな奴が入るんだ。


「さーしゃあ!」


 疾風のような拳が私の顔に迫る。


「せいやあ!」


 グッと腰を落として避けながらこっちも上段へカウンター。当たらない。でも崩せた。今日こそ徹底的にぶちのめしたる。もう普通の空手を教えて武道の素晴らしさを広めるのは明日からでいいや。


[続く]

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