あるエルフの追憶
エレンウェは、「暗がり谷」と呼ばれる決して陽の当たることのない峡谷を越えた先にある、「日向の森」という森の中でひっそりと暮らすエルフたちの村で、母親のアルディスと二人で暮らしているエルフの少女だった。
ある日、彼女は森の出口で一人遊んでいた。ふと気が付くと、日は大きく傾き、あと少しで地平線に沈もうとしていた。
人気がなく、足元が暗くなり始めた森の出口で切り株に足を取られて転び、痛みと不安に駆られ泣き出したエレンの前に現れたのが、イシルボールだった。
イシルはオークだった。巨大な体躯を持ち、その顔はブタを思わせるような巨大な鼻と鋭い牙、細く釣り上がった眼が印象的だった。
エレンは、オークは危険だから決して関わってはならないと母親のアルディスから言い含められていたにも拘らず、イシルがこちらに対して害意を持っているわけでもなさそうだったため、好奇心に駆られて声をかけてみた。
イシルの態度は、村人たちがエレンに話して聞かせた粗暴で無礼なオークとは正反対と言っていいほど穏やかな紳士で、エレンが尋ねたことには何でも丁寧に答えた。
エレンはその日から、毎日のように森の出口にある切り株に腰を下ろしているイシルのもとを訪ねるようになった。
イシルは、一度も森から出たことのないエレンに様々なことを教えた。暗がり谷のこと、その峡谷を出た先にある広い世界のこと、魔法のこと、この世界に住む様々な種族のこと……
「おじちゃんはエルフだったのに、どうして毛むくじゃらの大きいお鼻になったの?」
ある日、エレンはイシルにこう尋ねた。
「さぁ……。でも思い当たることがある。昔、おじちゃんはとても悪いことをした」
イシルは少し考えて、答えた
「なにをしたの?」
「昔、俺は君の住んでいる里で暮らしていた。そこで、とても悪いことをしたんだ。それで里に居られなくなって、姿もこうなってしまった」
「おじちゃんはどこに住んでるの?」
「この先に谷があるだろう。君たちが『暗がり谷』と呼んでいるところだ。その谷の底に住んでいるんだ」
「おじちゃんはどうしてここに毎日いるの?」
「ここに狩に来ているのさ。狩がひと段落して休んでいると、いつも君がやって来るだろう?だからここにいつもいるんだ」
話しているうちに、陽の光はその色を変え、あたりを紅色に染め上げた。
「おっと、そろそろ帰らないと陽が沈んでしまうぞ」
「えー?やだ!もっといろいろ教えてよ!」
エレンは不満を隠さず言った。
「また明日、いつものようにここに来ればいい」
「ぶー!……わかったよ」
「そうだ、帰る前にこれを持って帰ってくれ」
イシルは、懐から宝石を取り出し、エレンに手渡した。まるで血のような、黒いほどに真っ赤な宝石だった。
「わあ!きれい!」
エレンは感嘆の声を上げた。
「これを君のお母さんに渡してくれないか?ここで拾ったと言って」
「あたしにはくれないの?」
「もっと大きくなったらひとつあげよう。それまではお預けだ」
大きな手のひらをエレンの透けるような美しい金色の髪の上に乗せ、優しく撫でながらイシルは言った。
「わかった!」
エレンは、元気よく答えた。
「ただいま!」
帰宅したエレンを、夕食のいい匂いが迎えた。
「おかえりなさい」
温かいスープの入った鍋を持ち、食器の並べられた食卓へと運んでいたアルディスは、帰宅した愛娘に笑顔を向けながら言った。長寿として知られ、美貌を誇るエルフの中でも一際若く美しい、エレンにとって自慢の母だ。
「あのね、お母さん、これ」
手に握りしめていた赤い宝石をアルディスの前に差し出した。
「……!エレン、これ、どうしたの?」
「あのね、えっとね、拾ったの」
「どこで?」
「えっとね、森の出口のところ」
「……そんなところに……」
アルディスはそう呟くと、腕を組み物思いにふけるように食卓の椅子に座り込んだ。
「……?」
次の日も、彼はいつもの場所に座っていた。
エレンの姿を認めると、お母さんに昨日の綺麗な珠を渡したら、何と言ったかと尋ねてきた。
どうしたのかと尋ね、その後は何かを考えているようだったと答えたら、イシルは少しの間黙り込んで、もう帰りなさいと言った。何故かと訊きたかったが、それがいけないことのような気がして、「それじゃ、また明日」とだけ声をかけて、その後は黙って従った。
それからは、次の日、また次の日と、エレンはいつもの場所で待った。しかし、彼は姿を現さなかった。
そうして一週間が過ぎた。
その日もエレンは、いつもの場所で彼を待った。今日も来ないかもしれないと、不安な気持ちで待った。
日が傾き始めた頃、彼はやってきた。今までに見たことのない真剣な顔で、真っ直ぐエレンを見つめて。
エレンは今までどこに行っていたのか問い詰めようかと思っていたが、イシルの思い詰めたような目を見て、彼が自分になんと言うのかを、待つことにした。
「君のお母さんは、アルディスという名前だろう?」
「うん、そうだよ」
「そうか。今日は、君に本当のことを教えようと思って来たんだ」
「君のお父さんは、君が産まれる前に死んでしまった。そうだね?」
「うん。事故でね」
「事故で……か。まあいいだろう。早速本題に入るとしようか」
「その必要は無いわ」
不意に、声がした。女性の声だった。
「……アルディスか」
イシルは声の方向には目を向けず、まるで独り言のように言った。
「その子を離しなさい!」
アルディスは、怒りに燃える瞳でイシルを睨みつけながら言った。
「おかあさん!?どうしてここに!?」
「あなたの後を着いて来ただけよ、エレン。こっちへ来なさい!その薄汚い男から離れて!」
「……アルディス、ほんの少しでいい。少しの間だけ、エレンと話をさせてくれないか?」
「あなたは、私からまた大切な人を奪うつもり!?」
アルディスの声が震えていた。怒りと悲しみがないまぜになったような声だった。
「……」
イシルは俯き、押し黙った。
「あなたは、サイロスを、私の夫を……」
「わかった!……この子は君の許へ戻そう。さあ、エレン。お母さんのところへ行きなさい」
アルディスの言葉を遮り、イシルはエレンをその大きな眼でまっすぐ見つめ、言った。
「でも……おじちゃん」
「良いんだ。行きなさい」
イシルはそう言って、エレンの背中を優しく押した。
「……二度とこの子に近づかないで」
「ああ、約束するよ」
二人に背中を向け、イシルは言った。
「おじちゃん……」
「エレン、行くわよ」
アルディスは、エレンの手を取り引っ張った。
それが、エレンがイシルを見た最後だった。彼の大きな背中が、なぜかやけに小さく見えた。
アルディスは、イシルとの間に何があったのか、一切教えてくれなかった。ただただ、あの男とは会ってはいけないと、きつく言い含められただけだった。
そして、月日が流れた。エレンは、エルフ軍の魔術師になっていた。
魔法の素質はもともとあったらしい。父のサイロスも軍の魔術師として活躍していたそうだ。エレンが使える魔法の大半は、イシルと会って話しているうちに、まじないのいくつかとして教わったものだった。
それもあって、エレンはイシルのことを長い間忘れられなかった。
一度だけ、イシルの姿を見たような気がしたことがある。
エレンが軍の訓練生だった時に、宿舎が火事に見舞われ、全焼してしまった時、エレンは運悪く脱出口を塞がれてしまい、煙に囲まれてしまった。煙を吸い込んで薄れゆく意識の中、何か大きな生き物が部屋の中に飛び込んで来るのが彼女の目に入った。
その直後、完全に意識を失ってしまったため、何が飛び込んで来たのかわからなかったが、気がついたらエレンは医務室のベッドに寝かされていた。後で話を聞いたところ、エレンは宿舎の中庭の、火や煙が届かないところで倒れていたのだそうだ。
あれはきっとイシルだったのだろうとエレンは思った。
ある日、220歳の誕生日を迎えたエレンは、久々に休暇を取り、実家へと帰った。母は私を歓迎してくれ、ご馳走を振舞ってくれた。腹も満たされ、さて眠ろうと久々の自室のベッドに潜り込んだが、なかなか寝付けなかった。
ふいに、イシルのことを思い出した。彼は、今何をしているのだろうか?そもそも生きているのだろうか?
そんなことを考えていたら、窓際からゴソゴソと物音がした。
「おい、本当にこんなところに上玉のエルフが居るのか?」
「もうこんなところに来ちまった以上、信じるしかないだろう」
「当たりなら大儲け、外れなら骨折り損のくたびれもうけってやつか」
「とにかく、入るぞ」
コソコソと喋る声の後に、ドアをこじ開ける音がした。
「誰!?」
エレンは起き上がり、ドアを向いていった。
「おっと、いたな」
「すげえ!マジで上玉だぜ!」
闖入者は、革の鎧を着て短剣を手にした、頗る人相の悪い二人組の人間の男たちだった。
「とにかく、不審者には違い無いわね。私の魔法を見せてあげるわ。『飛んでいけ』!」
エレンが呪文を唱えると、魔力の矢が人間めがけて飛び立ち、その胴体に直撃した。しかし、それは人間が着けていた革の鎧に吸い込まれていった。
「おうすげえ!平気平気!」
「え……?」
「さすが、人間様の叡智は素晴らしいなぁ。魔力を吸収する革鎧なんて、お前らエルフはまだ知らねえだろう?」
「くっ、ならば剣で…」
エレンは、腰に佩いた片手剣を抜いた。
「おっとエルフ風情が人間様に剣で対抗できると思ってるの?」
エレンが向けた剣の切っ先を、人間は難なく捌いて弾き飛ばした。
「さあ、剣もどっかに飛んで行っちまったなぁ!」
「もういい加減諦めて貰おうか?こっちも商売だ。手荒なことはしたくねえんだよ」
「それとも下にいる母ちゃんもご一緒して貰おうか?ヒャヒャヒャ!」
人間たちはこの世のものとも思えない下卑た笑い声を上げた。
「……」
エレンは俯き、唇をきつく噛み締めて人間たちに手を差し出した。
「そうそう、そうやっておとなしくしてりゃ良いん……なんだ?外が騒がしいな」
人間はエレンに手枷を嵌め、縄でつなぐと窓に目をやった。
「篝火があちこちに……まさか、俺たちのことがバレちまったんじゃ無いだろうな」
「声が聞こえるぞ、なんて言ってるんだ?」
「オークだ!オークが出たぞ!」
「囲め!囲んで矢を撃ち込め!」
「こっちだ!逃がすな!」
窓の外では、エルフ達が手に手に剣や弓を持ち、篝火に向かって走っていた。
「オークが出たんだとさ。いい感じだぞ。この混乱に乗じてこの女連れてズラかろうぜ」
人間は、エレンを繋いだ縄を乱暴に引っ張った。
「……オーク……?」
すべてを諦めかけていたエレンは、その言葉に顔を上げた。
「おい!動くな」
「おじちゃん!!」
エレンは人間たちの制止を振りほどき、窓に向かって叫んだ。それと同時に、巨大な何者かの影が、窓を突き破って飛び込んで来た。
「エレン!」
イシルだった。その形相は怒りに満ち、エレンが嘗て聞いた邪悪なオークを思わせた。
「ひ……ひぃ!オークだぁ!!」
「に……に……逃げ」
逃げようとする人間たちの頭を、イシルは左右の手で一つずつ掴み、そのまま握り潰した。
イシルは、エレンに駆け寄り抱き上げた。
「エレン!大丈夫か!?人間が森の方に向かうのを見つけて、心配になって使い魔に見張らせていたんだが、案の定こういうことか」
「え……えぇ、それより、貴方……」
彼の姿を見てみると、その身体には無数の刀傷ができ、背中には何本もの矢が刺さっていた。
「大丈夫……と言いたいところだが、一本か二本、刺さりどころが悪かったようだ」
エレンを立たせると、イシルはバタリと倒れた。
「イシルさん!?」
「……最後に会った時、君に話そうとしていたことを、せっかくだから、今から話そうか」
「喋らないで!手当てをしますから!」
「いいんだ。それよりも聞いてくれないか」
昔……今から丁度220年前のことだ。
俺はこの里で暮らしていた。
俺には親友がいた。サイロスという名前だった。
俺とサイロスとはいつも行動を共にしていた。良いことも、悪いことも、いつも二人で分かち合っていた。
ある日、サイロスに恋人ができた。その恋人の名前はアルディス。俺は、サイロスに愛する人ができたことを喜んだ。親友が愛した人と仲良くなりたいと思ったから、サイロスに対するように、彼女に接した。
いよいよサイロスが彼女と結婚することになった。仲良くしていた二人が結婚するというのは、何だか俺だけが除け者にされたような気がしてほんの少しだけ戸惑ったが、それでもやはり嬉しかった。
そうして結婚前夜がやって来た。
その夜、俺とサイロスは、独身最後の夜を二人でささやかに祝った。
そして、ことは起きた。
サイロスの家に、人間の強盗が押し入ったんだ。
抵抗しようとしたサイロスは、人間の凶刃に倒れた。
無二の親友が何にも代え難い幸せの最中、急転直下殺された。
それを目の前で見せられた俺の怒りはどのくらいだったと思う?
こんな姿になってしまうくらいだったんだ。
俺は怒りに任せ、人間たちを殴った。綿菓子を引き千切るように、身体はバラバラになって部屋中を飛び回った。
それでも俺の怒りは収まらなかった。
人間たちの亡骸を残らず食べてしまった。
困ったのは、俺が親友の亡骸を抱きかかえてオイオイ泣いているのを、里の人たちに見つけられたことだ。
親友を殺した真犯人は俺が食ってしまった。
そして俺がアルディスとも仲が良かったのは、里の人達も知っていた。
そうして里の人達が導き出した答えは、俺が嫉妬の余りに親友を殺したというものだった。
唯一救いだったのは、アルディスが俺のような姿にならず、気丈でいてくれたことくらいか。
サイロスは腹をひと突きされたわりに、部屋中には赤い血が飛び散って、食ったとはいえ人間の耳の端くらいは残っていたかもしれないんだが、俺の言い訳は当然のように通らない。オークの出現で、皆混乱していたんだろうな。
挙句、皆して攻撃魔法の詠唱を始めたもんだから、俺は里から逃げ出さざるを得なくなった。
そうして俺は、暗がり谷の底で暮らすことになったんだ。
俺は、皆からの恨みを背負うことにした。人間がサイロスを殺したといくら言い張っても、その証拠が俺の自業自得とはいえ、なくなってしまった以上、アルディスは何を恨めばいいのかわからなくなってしまう。それに行き場を無くした恨みが、彼女を、アルディスをオークに変えてしまうかもしれない。
だから、俺を恨んで貰いたい。そう思ったんだ。
そう思って暮らしていた時、君に出会った。
どこだったか、森の出口から少し行ったあたり、ああ、大きな切り株があった所だ。そこで君が泣いていたんだ。
どうしたのかと尋ねたら、切り株の根に転んで、膝を擦りむいたと答えたんだっけ。
君は俺に色々尋ねて来たね。どこに住んでいるのかとか、どこで産まれたのかとか、谷の底には何がいるのかとか。
さっき俺は、皆の恨みを背負うことにしたと言った。けど、過去を知らない君には、本当のことを知って貰いたかった。いつまでも孤独なんてのは、流石にごめんだから。だからあの時、本当のことを話そうと思ったんだ。こんなに長い中断が入るとは思ってもみなかったけれど。
「わかりました!今はもう何も言わないで!」
エレンは叫ぶように言った。
「ああ……君に渡そうと思っていたものがある。これだ」
イシルは、懐から美しい宝石を取り出し、エレンに手渡した。まるで血のような、黒いほどに真っ赤な宝石だった。
「これは……?」
「君が大きくなったらあげると約束しただろう。暗がり谷の底でしか取れない、赤い宝石。君のお父さんが、暗がり谷で取って来て、お母さんに贈ったのと同じものだ。それよりも少し大きいよ」
「イシルさん……」
「きっと君に似合うさ。君もお母さんによく似て綺麗だから」
「エレンウェ!」
部屋のドアが乱暴に開かれた。
エルフの村の長老が、イシルを追い立てていた村人の一段と共に現れたのだった。
「長老!この方の手当てを!早く!」
「何をバカなことを言っておるのだ!」
厳然と長老は言い放った。
「えっ……?」
「此奴はお前の父親を殺した犯人じゃ!」
「長老!誤解です!この方は、この方は……っ!」
「ボヤボヤするな!さっさと止めを刺せ!」
「この方は、私を助けてくれたんです!」
エレンは、力の限り大きな声で言った。
「なんじゃと……?」
「ここに人間の死体が二つあります!この人達は私を攫おうとしたんです!そこに助けに来てくれたんです!」
「……」
「さっき、私に本当のことを話してくれました。私の父を殺したのも、この方ではありません!人間の強盗です!」
「……誰がそんなことを信じる?わしらはこの目で見たんじゃ!エルフ父を絞め殺したこの男の狂った眼を!たとえ今お前がこいつに助けられたとしても、過去の罪は死を以ってしか贖えん!」
「……そんな……!」
「とにかく殺せ!」
長老は言った。
「そうだそうだ!」
「こんな奴がこの里の近くにいたんじゃ、安心していられねえんだ!」
村人たちもそれに続き、口々にまくし立てた。
「……お母さん?」
エレンは懇願するように、村人の中に混じってこちらを見ていたアルディスに顔を向けた。
「……エレン、そいつを殺して」
アルディスは俯き、腕を組み、つかんだ自分の腕を握りつぶすようにしながら、絞り出すように言った。
怒号が一方的にぶつけられる中、瀕死のイシルは他の人には聞こえない小さな声で、エレンに言った。
「いいんだ、止めを刺してくれ。それで全部、終わりだ」
エレンの瞳から、まるで、ガラス球のような涙が頬を伝いこぼれ落ちた。
「最期に……君の顔をよく見せてくれ。この目に……焼き付けておくんだ」
エレンの頭に手を置いて、まじまじと見つめる。
「綺麗だ……アルディスに……よく似ている……が……サイロス……にも……似てる……」
思わず、エレンはイシルにくちづけしていた。彼の姿が、一瞬元のエルフの姿に戻ったような気がした。
「何をしておる!殺せ!!」
「お別れ……だ……」
そしてエレンは、長老から受け取った短刀を、頭の上に振り上げた。
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