第一の扉

生死を彷徨うなかで

「はあ、はあ……」


 真夜中の病室で、モニター心電図のアラーム音がけたたましく鳴り響いている。

 さらに呼吸は荒くなる。酸素マスクは、もうずっと曇った状態を保っていた。

 意識はほとんどない。このまま呼吸が止まろうとも、おそらく自分でも気が付かないだろう。

 もうじき終わる。もうじき、死ぬ。


 視界もぼやけて耳もあまり聞こえない。時折、微かに自分の名前を呼ぶ声がしたような。

 青い顔をした医師や看護師が自分の周りを駆け回る。自分を助けようと必死になってくれている。

 この状態のまま、いったいどのくらいの時間が経過したのだろう。息苦しい、身体が痛い、寒い。

 だんだんと目蓋が重くなってきた。自分でもわかる。この重さに耐えきれなくなったとき、なにもかもが一瞬で終わるんだ。

 わずかに抵抗を試みる。それと共に、心拍数が少しだけ上がった気がした。


 頑張れば助かるのか、そうすれば再び生きることが出来るのか。いや、でも……。

 どうしよう。自分に生きる価値はあるのかな。皆は心から迎え入れてくれるかな。ちゃんと笑えるかな。

 ……無理だ。少しでも期待した自分が恥ずかしい。自分の居場所なんてどこにもないじゃないか。もう、あの日常にはもう戻れない。


「……ああ。もう、疲れた」


 言葉にならない声を残し、ついに目蓋は重さに耐えきることが出来なくなった。


***


「起きてください。ほら、立って」


 誰かが話し掛けている。でも、聞いたこともない声だ。大きく息を吸いゆっくりと吐く。


「あれ……?」


 ずっと苦しかったはずなのに、どうして僕はこんなに息を吸えるんだ?


「相当お疲れのようですね。まあ、無理もありません。あなたは危篤状態でしたから」


 また誰かが喋った。どこだ?どこにいる?

 重い身体をなんとか起こし周囲を見渡す。窓ひとつない薄暗い空間。医師や看護師もいない。


「ここですよ、わかりますか」


 声のする方へ顔を向けると、微かな灯火が確認出来た。その灯火はゆらゆらとこちらへ向かってくる。


「はじめまして、私はポースと申します。ここから先の案内役を務めさせていただきます」


 目の前の光が喋っている。これは夢か。いや、おそらく僕は死んだのだろう。死後の世界はこんな感じだったのか。


「とりあえず、あなたはまだ死んではおりません。ですが、非常に危険な状態であることには変わりありませんし、おそらくあと数分で息を引き取ることになっていたでしょう」


 それを聞いて、少しだけ落胆してしまった。どうせなら死んでしまえば良かったのに、なんて考えてしまう。


「戻りたいなら戻って構いません。ですが、もう一度やり直したいのであれば、ご案内します」


 その灯火は右へ左へ移動しながら淡々と話し続ける。


「やり直すって、なにを?」


「忘れてしまっていることもあるでしょう。ですが、いろいろとありましたよね。決断を迫られる瞬間が」


 しばし呼吸をするのを忘れていた。目を見開き口は半開きのまま一点を見つめていた。

 思い出したくもない。結局は僕が辛い思いをするばかりで、なにをどうしたって逃げることは叶わなかった。


「あなたが段々と心を閉ざしていくそのときを、もう一度やり直してみませんか?どうなるかはあなた次第。乗り越えることが出来るかもしれませんし、さらに塞ぎ込むことになるかもしれません」


 なんだって、もう一度やり直せって?……冗談だろ。叶うなら忘れ去ってしまいたいくらいなのに、どうしてわざわざ苦しみに逆戻りなんてしなきゃいけないんだよ。


「これを」


 足下に目をやると、そこには短剣がひとつ置かれていた。装飾はしてあるが決して綺麗とは言えない。なかなかに古びた重厚な短剣。


「現実の世界に戻る方法はただひとつ。その短剣を自分に突き刺してください」


「なっ……」


 は?なにを言いだすかと思えば、まったく意味がわからない。僕は今まさに危篤状態なのに、さらに苦しませるつもりか。


「ただ刺すだけでは戻れません、致命傷を負わないと駄目なんです。首でも腹でも思いっきり掻っ切ってしまうといいでしょう」


 自分を刺すどころが、それじゃあ死んでしまうじゃなうか。放っといてもあと数分で死ぬのに、わざわざ自分で自分を殺せと言うのか?馬鹿馬鹿しい。


「大丈夫ですよ、すぐに戻れます。もちろん痛みは感じますが、本当にすぐに戻れますから」


「こんなことをしなくても僕はすぐに死ぬんだ。だからさっさと戻してよ」


「そう申されましても、ここの決まりなんです。この場所に来た者は、自分の過去ともう一度向き合うか、自分自身を殺して現実世界に戻るかしか選べないんです」


 やっぱりこれは夢だ。死ぬ直前にはよく走馬灯が頭を巡ると言うけれど、僕の場合は変な夢だったってことだ。無視していれば、いつのまにか戻ってるさ。


「あなたが選択するまで、何十年何百年とこちらでお待ちしています。決まりましたらお声を掛けてください」


 そう言って、ポースと名乗る灯火はゆらゆらと去って行った。知るもんか。あんな話、嘘に決まっている。

 だが、それから一時間が経過したが、僕は現実の世界に戻ることはなかった。


「まさか、本当にどちらかを選ばなきゃいけないの?」


 そっと短剣を手にしてみる。重みがあり、簡単には刺すことが出来ないだろう。ましてや、刺す相手は自分自身。相当な勢いと力が必要になる。

 試しに切っ先を首に向けてみる。わずかにチクっと鋭い痛みが走った。


「これを刺すんだろ。あ、刺すだけじゃないのか。掻っ切らないといけないとか……」


 身体中に力が入る。いったん短剣を首から離して、そのまま勢いよく刺す。そして間髪入れず真横に掻っ切る。


「む、無理!出来るわけがない!」


 固唾を飲み、短剣を持つ手を下ろす。だって、痛いどころじゃないだろ。それに、なによりも恐怖が勝る。


「では、私と一緒に来られますね。どうぞこちらへ」


 大きな溜息をついて、仕方なくその後を追った。進めど進めど辺りの風景は変わらない。後ろを振り向くが、先ほどまでいた場所はすでに闇に支配されていた。


「こちらです」


 その声に顔を前にやると、目の前にとてつもなく巨大な扉がそびえ立っていた。いつの間に出現したんだ。こんなもの、さっきまで絶対になかった。

 あまりにも大き過ぎて、見上げると首が痛くなってしまうほど。少々燻みつつも光を放っている。


「第一の扉です。この先になにが待っているのか、それは私にもわかりません。あなたがこの扉に手を掛けたそのときに決まります」


 僕はどうなるんだろう。どうせまた嫌なことしか起きないんだろうな。そしたらまた下だけを向いて過ごそう。

 半ば諦めな思いでぐっと力を込めた。重い扉は少しずつ向こう側へ開いていく。


「そうでした、お名前をお聞きしても?」


 一歩を踏み出したところで、ポースが顔の横まで飛んできた。


「……一ノ 聡真そうま


「行ってらっしゃい、聡真」


 ポースに見送られ、僕は僕の消したい過去にもう一度足を踏み入れることになった。

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