第8話

 目を開くと、そこは古いロンドンの町並みだった。


 え、ロンドン? 私ロンドンとか行ったことないんですけど、なんでロンドン?


 ええと、ロンドン即ち倫敦とは、イギリスが香港を占領していた際、香港マフィアの首領であった龍・清の統率力と軍事力を恐れ、香港占領後も彼を首領としたマフィアの体制を黙認していた事から、ロン首領ドンへの畏怖により名付けられ、しかしイギリスの国としての威厳を保つ為、表記を倫敦としたのはあまりにも有名である。


 有名じゃないよ! 何言ってんでしょう私は、どう考えてもロンドンの命名の方が香港占領より前だしそもそもなんで英語圏が威厳保つために漢字表記を変えるんでしょうか。


 まぁそれはおいておいて、一体、これは何なのだろう。


「今朝見た、あのおかしな夢と同じなのかな……、違うか、あの時は声も出なかったし、身体の実感も無かったから……」


 と、言葉に出して気付いた。


 今朝見た夢?


 おかしい、今朝は、なんだか胸がモヤモヤして目を覚まして……、悪い夢を見たんだろうなって……なのに、なんで、を覚えているの、私は。


 えもいわれぬ恐怖が、胸のうちに生まれた気がした。


 自分の知るはずのない何かが、何処かから流れ込んでしまったような、自分の中に自分以外の何かが混ざり込んでしまったような、異物感。


 ……っというか今更思い出したんだけど、さっきまで私台所への廊下歩いてたよね、これどう見ても夢っぽいし、寝落ちしてしまったとなると今頃私、現実で頭を強打しているのでは……?


 うぁー、目覚めたくない、絶対痛いやつだぁー。


 よし、とか何とか思ってたら少し気分も解れたし、折角だしロンドンの街並みでも観光しようかなーっと。


『へぇ……目覚めたくなイんだぁ……そレは好都合ネ?』


 後ろから、突然、聞き覚えの無い声が響いて、振り向く。


「っ!?」


 言葉が、絶えた。


 だって、どうして、振り向いた先に居たのは……


『はァい、今朝ぶりかしらネ、お嬢さン?』


 服装こそ白と水色のドレスに変わっているけれど、透き通る様な白い肌に、シルクよりもキメ細かく滑らかな、白銀の髪。


 そしてなにより、爛々と輝くルビーのような朱い瞳を、見間違えるはずもない。


 そこにいたのは、今朝の夢で祭壇に寝かされていた、あの少女だったのだから。



「ええと、はじめまして……ですよね?」


 努めて笑顔で、言葉を返す。

 正直いやな予感がとめどなく溢れてくるんだけど、それを認めてしまうと、なにか取り返しがつかなくなってしまいそうな予感があった。


『えェ、はじめまシて、私はククルゥ……貴女のお名前ハ?』


 まるで公園で遊ぶ幼稚園児のように微笑んだ少女が、私の裾を掴むように体を寄せてくる。


 近い!近い!


「えぇと、私はクロー、美園クローって、いいます……」


『ふゥん、クローって言うンだ、貴女』


 目の前、息の掛かりそうな距離で、少女が囁いた。


 って、あれ? いつの間にか、私、座ってる?


『ねェ、私、ずっと一人ボッチだっタの……』


 少女の手が、私の両頬に添えられる。ヒンヤリとした掌の感触が、何処か遠く、まるで自分の事じゃないみたいに感じてしまう。


『貴女は……私を一人にしなイでいてくれル?』


 爛々と輝く瞳が、私を覗き込んで、まるで吸い込まれるような錯覚に囚われる。


 錯覚?


 本当に、錯覚だろうか? 


 だめだ、頭の中にまで霧が掛かったみたいに思考が働かない。このままだと何か取り返しがつかなくなると、そう確信している気がするのに……。


『ね……私と一緒二、居てくレるわよネ?』


 取り返し……? 取り返しがつかないって、何が? 私は、何を、私は……私?

私って……一体……?


『私と……同じ二なりましょウ?』


 少女の口元から、舌ではないヌルリとした何かが覗く。

 真珠色に艶かしく輝く何か、きっと人の体から現れては、いけない物の筈なのに、それを見ている私は、まるで熱に浮かされた様に、少女の瞳を見つめ続けて……這いずりだす蛞蝓の様なそれが、私の口元へと、ゆっくりと、まるで甘い誘いのように近付いて……



「ごめんなさい、その子、私と朝食の先約があるの。」

 

 突然、しなやかな手に肩を抱かれ、体が少女から引き剥がされる。

 

 同時に、激しい吐き気と目眩が体を襲い、込み上げるものを堪えるように口元を押さえながら振り向いた視界には、見慣れた何時ものメイド服。


「うぷっ……!」


「ちょ!?頼むからこっち向いて吐かないでね!?」


 湧き上がる何かを強引に抑え込み、絞り出すように言葉を発する。


「シルバーさん!?」


「ええそうよ、大丈夫、クローちゃん?」


 そう言って微笑むシルバーさんの、柔らかな胸の感触が……胸?


「シ、シルバーさん!? な、何故にオカマにオパーイが!? 豊胸!?」


「失礼ね、クローちゃんの夢にお邪魔するために、ちょっと普段使ってない身体を持ってきただけよ!」


 何やら聞き流してはいけない単語が聞こえたような、使ってない身体……?

 

 ただ、どーも今はそのことを問い詰めている余裕はないみたい。


「さて、それで、貴女は一体何者なのかしら……いえ、何物なのかは明確よね、その気色悪い触手があるってことは貴女、神秘の信仰者ね。」

 

 シルバーさんに促され、再び前を見れば、そこにいた少女は既に、先程とは別の何かに成り果てていた。

 ううん、成り果てていたのは、きっと、もっとずっと前から。


 そこに居るのは、少女という型の中に、幾千幾万の蛞蝓を詰め込んだ様な、見ているだけで精神を蝕まれる異形の存在。


『ケヒ、ケヒヒヒヒヒッ』


 爛々と光る少女の瞳、その輝きを突き破り、右目から新たな触手が現れる。


『ねぇ、どうして? どうして拒むの? 私は寂しいのが嫌なだけなのに、貴女達をぐちゃぐちゃに作り変えたいだけなのに!?』


 少女の口から、先程までとは違う、狂気に満ちた声が漏れる。

 だけど私は、どうしてだろう、その声を、どこか本当に、寂しそうだと感じてしまった。


「そう、悪いけど、知ったこっちゃないわよそんな事!」


 シルバーさんがスカートから取り出した銀針が五本、次の瞬間には、異形の少女の左目へと突き立っていた。


「逃げるわよクローちゃん!!」


「うぇっ、は、はい!?」


 シルバーさんに手を引かれ、一目散に走り出す。

 いやまぁ完全に同意しかありません、なんですかあれ、三十六計逃げるに如かずってこういう時のための言葉だよね!


 ロンドンの街並みを駆け抜け、路地裏を通り、下水道を飛び越えて逃げる、逃げてるん、だけど、


『ケヒャヒャヒャヒャッ! 知ってるよ、ククルゥ知ってる、鬼ごっこっていうんでしょ、これ!』


 なんだかククルゥちゃんの声がピッタリ張り付いて離れないんですけど、どうなってるんですか、これ。


「ねぇねぇクローちゃん! 一言言っていい!?」


 前を走るシルバーさんが、振り向くこともせずに私に叫ぶ。というかこれだけ走ってるのに息が切れてないのはどういう事なんですかシルバーさん。


「なんですかシルバーさん、アレですか!私に構わず先にいけって奴ですよね、一人でどうぞ! わ~カッコイイ!! って危なぁっ!触手飛んできましたよ!?」


「何言ってるのよクローちゃん、そもそもあの子の狙いはクローちゃんなんだから、私に構わずクローちゃん追いかけるわよあれ!!」


 突き付けられる無慈悲な一言。


「わー役立たずですね、助けに来たなら何か起死回生の一手くらい持ってきてくださいよ!!」


「あ、危ない所を間一髪で助けた恩人に対してその言い草はないんじゃないかしら!? 大体――」


 走り続けていた私達の足が、止まる。


「い、行き止まりですよシルバーさん!?」


 路地を走り抜けたあった先にあったのは、行き止まりの袋小路。

 そして、後ろから迫るのは


『ケヒッヒヒヒヒャヒャヒャ! 追ーいつーいたッ!』


 巨大なミミズが這いずるような音を立てて、異形の少女がこちらへ歩き進んでくる。

 ええと、なんで歩いてるのに這いずるような音がするんです?


「クローちゃん、深く考えると正気やられるわよ?」


 シルバーさんはこんな時まで心読まなくていいですから、ていうかやけに落ち着いてませんかシルバーさん……?


『それじゃぁ、次は、二人が鬼になる番だよね?』

 

 ボトリ、と、彼女の体から、幾つもの蛞蝓が零れ落ちる。

 あぁ、あれは間違いなく、私達を作り変えてしまうのだろう、人の身を苗床にして、おぞましい蛞蝓のような生物へと成って果たせる異形の存在。

 シルバーさんは、彼女を神秘の信仰者と呼んでいたけれど、あれが、あんな物が、神秘なんて言うものであって、良いのだろうか。


「いいや、鬼は貴様ただ一人だ、ククルゥ。」


 霧の空から飛来した無数の刃が、少女から零れ落ちた蛞蝓の尽くを刺し穿ち、その全てが、灰となって霧の大気に掻き消えた。


「まったく……遅いわよ、狩人。」


 私達と少女の間に、一つの影が、膝をついた姿勢で降りたった。


 それは、右手に斧の様な刃を携え、全身を闇夜の様な黒衣で覆い尽くした一人の女性。

 背を向けた姿勢でさえ、あの少女と匹敵する様な存在感を放つ彼女の姿に、私は、シルバーさんの言葉を理解した。


「……狩人」


神秘を狩る、殺戮者。




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