第53話 終章

 まいも、そして一縷いちるも、ともにふたりを隔てていた時間も事情も忘れた。視線を窓の雪景色から正面に移すと、かつては見慣れたはずの顔がそこにあり、その不思議にふと囚われる。

 用件を伝え終えれば直ぐに別れるはずが、気がつけば香りの足りないコーヒーをもう三度もおかわりしている。ただこの場所から離れ難く、窓の外で降り積もる雪に意味なくまた視線を戻したりしている。

 静かに時は流れ、一縷が涼音すずねと交わした、三十分で戻るという約束は、いつのまにか忘れ去られた。



「今日はレッスン?」

「ううん、おやすみ。でも午後から華と一緒に先生のところにご挨拶に伺うことになってるから、三時には教室に行かなきゃ」

「そっか。じゃあそろそろ時間だね」

「うん…… 

 いっちゃん送ってくれたりする?」

「当たり前だろ。

 でも雪だし…… どうする? タクシー拾う?」

「ううん、けやき通りを歩きたい…… ダメ?」

「このくらいの雪なら…… 大丈夫かな」


 けやき通りの教室までなら雪道でも三十分はかからない。彼女との名残りを惜しむには、今日の雪景色はこれ以上ない演出のようにも思われた。


「じゃあ、行こう! いっちゃん!」


 思いがけず舞が勢いよく席を立った。

 ひょっとすると、彼女は涙のひとつくらい流すんじゃないか…… そう思っていた一縷はちょっと呆気にとられた。見上げた彼女の顔は、上げ過ぎの室温で頬が紅潮してはいるが清々しい笑みを湛えている。

 やはり、彼女には適わない…… 一縷は心からそう思った。彼女にお似合いなのは自分のような陰鬱な人間ではない、そう思うと、なんとなく苦笑いが込み上げ、彼女にやや遅れて、彼もようやく立ち上がった。


「ほら、こんなこともあろうかと、雪対策のブーツ履いてきました! どう似合う?」


 舞が無邪気に足を伸ばすと、かかとの低い革のブーツが彼女の細い足をすっぽり包んでいる。


「何を身に着けても似合うよ。舞はモデル体形だしな」

「いっちゃ~ん、もう相変わらずお世辞が上手うますぎ!」


 などと言いながら無邪気に喜ぶ彼女は、やっぱり手放したくないボクの天使だ…… 一縷は未練ではなく、心の底から自然にそう思った。




 護国寺横の通りをまっすぐ歩き、けやき通りに差し掛かると、雪で濡れた道をシャリシャリと音を立てて一台の車が行き過ぎた。雪慣れぬ街の人々は余計な外出を控えているのか、人通りや車の往来も少なめだ。


「静かだね。

 夏休みは往来が激しくて、時々いっちゃんの声が聞こえなかったのに、今日は全部聞こえそうな感じだよ」


 確かに、遠くの音は降り積もる雪に消されるが、腕を組んで歩く彼女の声だけがすぐ傍で囁くように響く。それはあまりに心地よく、いつまでもこの時間が続けばいいのに…… そんなことをごく自然に思わせた。


「いっちゃん…… こうやって歩けるのはもう最後?」


 俯き加減の彼女がそう呟く。その言葉に変な翳りはなく、事実を淡々と確認するだけのようにも聞こえたから、一縷の心臓は逆に締め付けられ、高鳴り、ここで立ち止まろうかどうか、躊躇いがちな気持ちが歩む速度を遅くさせた…… 




 ドスン




 重く鈍い音がふたりの間を不意に引き裂く。


「うっ!…… 」


 左側を歩いていた舞が、突然低く短い声を漏らした。一縷は咄嗟のことで何が起こったのかわからなかったが、組んでいた左腕を一瞬強く引いたかと思うと、舞はその顔を一縷に向けたまま、静かに前に傾き始めた。一瞬にして視界はスローモーションの中の非現実的な出来事に転じ、一縷には現実に目の前で起こっていることには思えない時間が過ぎる。まして、なにが原因でこの現象が引き起こされたのか、その理由など考えるいとまもなかった。


「いっちゃ…… 」


 崩れ落ちる間際に、彼女は確かにそう声を洩らした。だが、一縷の腕に絡んだ彼女の手が離れてもその言葉は意味を伝えず、ただ彼女の瞳に自分がはっきり映ったことがわかるだけだった。

 そして、彼女の身体が歩道に叩きつけられて初めて、そこにあるべきではない鈍色にびいろに光る刃物が、彼女の脇腹にあることに気づかされる。


「…… ま、舞……」


 どうしてこんなところに横たわるのか、その不自然さを理解できない。一縷は咄嗟にそれを抱え起こすが、脇腹に刺さった刃物より、道路に打ち付けられた額の傷から流れる真っ赤な血に驚いた。彼女の穢れない横顔が血塗られるその理不尽さに、怒りが徐々に沸き上がる。


「舞! 舞!」


 そう呼びかけながら、やがてこの事態の意味するところが理解できるようになると、一縷は初めて周囲に目をやる冷静さを取り戻した。なぜ、彼女がここで倒れなければならないのだ! そんな怒りが襲ってきて目を前後左右に向けた瞬間、一縷を再び混乱の中に突き落とす現実が彼の目の前に鋭く突き刺さる。


「すず…… 」


 すぐ傍のけやきに凭れかかり、舞を見下ろしているのは見紛うことなく涼音すずねだった。わなわなと震え、目の前の光景から目を背けることができない様子で、徐々に姿勢を崩すと、彼女もまたゆっくりとその場に座り込んでしまった。


「な、なんで? 

 涼音?…… なんで?」


 声にならない呻きを一縷が溢す。ここにいるはずのない、アパートで待っているはずの涼音がここにいる……


 咄嗟に、一縷は涼音に助けを求める。頼りにすべき人間として、この場に涼音がいるような錯覚に陥る。


「救急車…… 救急車呼んで…… 涼音! 救急車呼んで! 呼んで!!!


 助けなきゃ…… 舞を助けなきゃ…… 死んじゃうよ…… 死んじゃうよ! 舞が!」


 もう一度彼女をしっかり抱きかかえようとした瞬間、一縷の太ももに生暖かいものが流れ伝わる感触があり、視線をそこに向けると、真っ赤な鮮血が、音もなくじわじわと広がり始めた。


「舞! 舞! 救急車だ! 涼音! 誰でもいいから! 救急車! 呼んで! 救急車呼んで!!!」


 何をどう考えたらいいのか、なにをどうしたらいいのか、もう何もわからない。ただ、一縷は舞を抱きしめるしかない。そして目の前にいて何もしてくれない涼音を、ひっぱたたいてでも正気に戻したいのだが、手が塞がってそれすらできない一縷は、呆然と舞の身体に顔を埋めるしかなかった……





◇ ◇ ◇


 古刹の脇を抜け、唐町からまち商店街のアーケードをしばらく歩くと、舞が大きな白菜を抱えていた食品スーパーの前に出る。いつもと変わらぬその雑踏を分け進み、アーケードを向こう端まで抜けると、お濠から流れる小さな川の前に出る。川沿いをいつもの公園に向けて右折し、突き当りの濠端をキャンパス方向とは反対周りに歩くと、舞と湖畔のボートを眺めたレストランがすぐ目の前に現れる。そこをさらに通り過ぎ、一度国道に出て、その道を真っ直ぐ繁華街方向に進むと、やがて城址公園のお堀が右手に見え始め、数百メートル歩けば、昔、プロ野球球団の本拠地だった野球場跡への入り口に差し掛かる。そしてそのすぐ隣に、地方裁判所の冷え冷えとした姿が現れる。


 この場所に、現代史ジャーナルの新入生研修で裁判の傍聴に連れてこられたのは、涼音を初めて見かけたあの日から、まだそんなに日の経たない四月下旬のことだった。六人の新入生を引率していたのは二年生の飯島いいじまで、彼が面倒くさそうにあくびしていた姿が昨日のことのように思い出される。


 その日からまだ一年と経たない、桜がようやく蕾を膨らまし始めた今日、一縷は涼音のためにここを訪れた。これから何度足を運ぶかわからないこの場所は、かつて城址公園からの帰りに涼音がタクシーを拾った、まさにその場所で、あの夜、涼音が一縷に手を差し伸べた情景が、嫌でも思い出される場所でもあった。


 あの夜、あの手をボクが掴んでいれば……


 そんなことまで後悔の念として思い浮かんでしまうのだ。涼音と舞と過ごした何気ない思い出の日々と場所が、すべてこの結末に連なっていることを、一縷はどうしても関連付けてしまうのだった。


 いずれまた、涼音と並んで堀端を歩く日はやってくるのだろうか? 城址公園のあのベンチに再びふたりで座り、ほの明るい繁華街の夜灯りを眺めることはできるのだろうか?


 一縷はそんな当てのない希望を見出そうとするが、堀端を通り過ぎる早春の風は未だ冷たく、この先に温かな陽だまりのある日が来ることなど、とても想像できないでいた。


 だが、それでもいつか必ず戻ってくる涼音を、ひとりにするつもりなど毛頭ない。独りぼっちになった一縷にとって、片割れたアンドロギュノスは、やはり涼音でしかなかったのだから。

 彼女があの日、身をもって示そうとしたのは、一対のアンドロギュノスは片時も離れることのできない、全てを相手に依存しつくすことの安心感と、同時に破滅さえも抱えた存在なのだということだった。

 もし、あの日を境に自分が彼女を見捨てるとするならば、恋に落ちた結果の絶望もない代わり、そこから得られる人生の意義や意味もなくなってしまう。誰かに恋焦がれるとは、この人と見定めて付き合うとは、畢竟そういうことなのだと、彼女は教えようとしたのかもしれない。だから、自分はいつまでも彼女を待ち続けるしかないのだ。一縷はそんな覚悟をあの日以来ずっと自分に言い聞かせている。




「ほら、行くよ、イチロー!」


 昼間のマリエルはただのデカい女だが、なぜかその後ろ姿は一縷をホッとさせた。

 涼音がこの地のキャンパスを進学先に選んだ時、血縁の薄い彼女をなぜ訪ねたのか、その理由をまだ聞いてはいない。しかし、満たされぬ何かを抱えた涼音が、心の渇望のままにあの店に通ったことは想像に難くない。「Lagi Lagi」…… もっと、もっと…… 彼女は何かを追い求めて、あそこで悲痛な声を上げていたのだ。そして、その声が向けられていたのが自分だったと思うと、一縷は今さらながら胸が張り裂けそうになるのだった。

 ただ、実の両親までもが彼女を見捨ててしまったこの絶望の日に、マリエルだけが変わらず涼音の傍にあろうとしてくれることは、彼女があの店を訪ねたことが間違っていなかったことを証明しているように思われ、今の彼女と一縷にとって数少ない希望のように思われた。



 一縷はふうっとため息を一つ残し、裁判所に続く緩やかな坂道を上り始めた。坂の上で待つマリエルと目が合い、いつもの無表情を少しだけ緩ませると、ふたり並んで、何の感情も呼び起こさない冷たい建物の入り口を目指した。


 その後ろ姿を、天に召し戻された天使は一体どんな顔で眺めているのだろう……

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ラギ〜Lagi〜 千賀 華神 @ChicaHannaLugh

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