第44話 心の闇

 部屋に戻り、未来みらいが開けた壁の穴を眺めていると涼音すずねがやってきた。時刻は深夜1時を回っている。


「なにその穴?

 なんだか荒れてるなぁ、この部屋。

 なにして暴れたのさ?」


 壁の穴とシミ…… 誰が見てもこの部屋の様子は尋常じゃない。まさか血の匂いまではしないだろうが、おでんの出汁の匂いくらいは充満しているのかも知れない。涼音はざっと部屋を見渡すと、朝までその辺にあったはずの自分の欠片が綺麗さっぱりなくなっていることに気がついた。


「荒れてるわりにお片付けだけはきっちりしてるな…… 感心感心、ってなるか!」


 思ったような反応じゃないことに、一縷いちるはホッと胸を撫で下ろす。


「酔ってる?」

「う~ん、ちょっとね……一縷待ってるうちに飲み過ぎたかな。」


 一縷よりよほど酒に強い涼音だが、近づくと確かにかなり酒臭い。


「それにしても予定を早めていきなり登場かぁ…… 彼女もやるね」

「…… 」


 酔っているくせに、チクリと皮肉も忘れない。だが、自ら嫉妬深いという涼音にしては、今日の出来事などまるで意に介していない、とでも言いた気に、いつもと変わりない調子で服を脱ぎ始めた。


「お風呂沸いてる?」

「まだ」

「ちっ…… 気が利かないなぁ。早く沸かして〜!」


 下着姿になった涼音は、そのままベッドに潜り込む。つい今しがたまでここにいた舞のことが頭の片隅に残る一縷は、その姿から思わず目を背けてしまった。


「こっちおいでよぉ。お風呂沸くまで、ベッドで温まろうよぉ」

「…… そんな気分じゃない」

「そう。もう飽きた? 早いねぇ〜」


 布団から顔だけ覗かせた涼音がまた皮肉交じりなことを言う。


「…… 」


「何だか深刻だなぁ。来ない方が良かった?」


「…… 」


「つまんない男。どーせあの子に泣きつかれて、よしよし、お前を見捨てたりしないからな、とかなんとか調子のいいこと言ったんでしょ?! わかるよ、一縷の言いそうなことなんて」


 彼女のことだ、舞のことが気にならないはずはない。だが、一縷も簡単には気分を変えることができず、ただ黙って涼音に背を向けたまま、壁の穴を眺め続けた。


「あ〜、やだやだ、妙に深刻ぶるのってホント、イヤ! 好きだから抱き合う、嫌いだから別れる、それだけじゃん、男と女なんてさあ」


「…… 」


「お風呂まだっ!」

「入れば。そのうちいっぱいになるよ」


「…… 入ろうよぉ、一緒に。ねぇ〜」

「…… 」

「一縷ぅ〜、お風呂入ろうよぉ〜、エッチしようよぉ〜」


 半裸の涼音が布団の中から一縷の首に手を回した。彼女の柔らかな弾力を首筋に感じただけで、明らかに舞が肩に凭れかかった時とは違う反応を身体が示す。口の中の痛みが舞の涙を思い起こさせるのに、身体はすでに涼音の方を向き始めている。頭で拒否してもなんの抵抗もできない。

 そして涼音は、きっとそのことをちゃんと知っている。抵抗など無駄なこと、白い肌の誘惑からお前が逃れられる筈がない、そう笑われている気がする。

 畢竟、人を愛するとは何だろう? 明らかに異なる涼音への感情と舞への感情。そのどちらかが愛で、他方は愛ではないのだろうか? どちらも失いたくない、どちらも選べない…… 確かにあの時はそう思ったが、そんな迷いは自分に対する偽りの感情なのだろうか? あまりにも呆気なく涼音を求めてしまう自分に、一縷は罪悪感すら覚え始めた。


 他方、いつもと様子が異なり、自分の存在を無視して何かを考え込む一縷に、涼音の表情はみるみる険しくなる。終いにはとうとうしびれを切らし、突然、両手で一縷の顔を掴むと、強引に自分の方を向かせ、その唇に思い切り噛み付いた。


「痛たたたたたっ!」

 唇を引っ張られて一縷が悲鳴をあげる。


「目を覚ませ!」

「痛っ! マジで痛い!」

 未来に殴られて切れた口の中に、再び血の匂いが戻る。


「何なんだよ!」

「一縷こそ何なの!? あの子と抱き合った余韻を楽しんでるみたいでムカつく!」

「そんなこと、したことも、考えたこともないよ! むしろ逆だよ!」

「嘘ばっか! じゃあいつもどおりにすればいいだけじゃない!」

「嘘なんかついてない! そんなんじゃない!」

「じゃあなに?! さっきまであの子とここにいて……

 いつもと違うのはなぜ?! 無口なのはなぜ?! いい加減にして!」


 酔ったフリをしてまで、今日のことに目を瞑ろうとした涼音の気持ちがわかるほど、一縷は大人でもない。涼音の言葉を無視して黙り込んでしまった。


 気味悪いほどの静寂が部屋を覆う。ふたりとも、相手が何か言い出すのを待った。


 我慢できずに口を開いたのは涼音の方だった。

 

「私、最近、あなたのお母さんの気持ちを時々想像する……」


 不意に涼音がポツリと零す。


 急に母親のことを持ち出された一縷は、訝し気に涼音の顔を覗き込んだ。


「最近、わかるんだよね。これまでは理屈でしかわかんなかったけど、今は実感としてわかる……」

「わかるもんか…… あんな母親」

「わかるよ。ひとりじゃ嫌だったんだと思う。理屈じゃないんだよ。

 一縷は母親に女を感じたくないんだろうけど。私はわかる」

「…… 」

「お母さんはお父さんに夜ごと愛されたからこそ、それを失って、何かで埋めなきゃいられなかったんだよ。わかってあげなよ」

 一縷は目をむいて怒った。ようやく理屈で乗り越えようとしてることを訳知り顔で語る涼音が憎らしかった。

「なにがわかるっていうんだ! お前も同じだとでも言いたいのか!」

「そうだよ! 同じだよ!

 一縷…… 私が平気でここにいるとでも思ってる?! ホントは喉元掻きむしりたいくらいなんだよ! それとお母さんはおな…」

「黙れ! お前に何がわかるっ!」


 カッとなった一縷は涼音に覆いかぶさっていた。乱暴に下着を引き剥がすと、顕になった白い胸を、思い切り掴んだ。


「痛いっ! いいよ、好きにしなよ! でも痛いっ!」


 一縷はハッと我に返り身体を涼音から離そうとした。だが、そんな一縷を涼音は逆に思い切り抱き締めた。


「お風呂一緒に入ろう? 私があなたを癒やしてあげる。あなたが私を癒やして」


 一縷はさらに混乱した。自分は癒やされなければならない存在なのだろうか? 涼音も癒やされなければならない何かを抱えているのだろうか?

 ほんの今しがた、舞の気持ちを落ち着かせ、これからは自分の気持ちに正直に、舞も涼音も自分なりの愛し方をしようと思っていたのに、涼音がかき混ぜた心の中はまた混濁し始め、一縷を混沌とした無秩序の中に突き落とした。結局、誰との関係も、何ひとつ自分の意のままにならぬことがわかっただけで、何も得ていないことに一縷は気づく。


 確かな何ものをも誰からも得られないのなら、一体人は何のために人を愛したりするのだろう? さめざめとした涙が一滴ひとしずく、涼音の白い胸に零れ落ちた。


「お風呂入ろう。ねっ、一緒に入ろう。温まって寝よう」


 一縷は涼音に手を引かれるまま、すべてを任せた。


(もう考えるのは止めよう…… )


 混濁と快楽と…… 意識を失うような眠りが一縷を待っていた。

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