第43話 絶交
「…… 選べない。……
最後は
「汚い野郎だ! 結局お前は自分の事しか考えられない下劣な男だ。見損なった! 呆れた! 絶交だ! 二度と声をかけるな!」
ベッドから飛び跳ねて一縷に駆け寄ろうとする舞を、今度は
「やめて、舞ちゃん! こんなやつと居ても仕方ないよ、早く帰ろう! ねっ! 舞ちゃん!」
伊咲は一縷など眼中にないかの如く、舞の肩を強く引いた。
「離して! 私はいっちゃんといる!」
伊咲の意に反して舞は彼女を強く拒むと、倒れた一縷に覆いかぶさるように抱きついた。
「なんで…… 」
伊咲は一瞬固まったが、やがて顔を覆って泣き始めた。人を愛することの理不尽さを目の当たりにして、言葉もなく泣き崩れるしかなかったのかもしれない。
「くそっ!」
未来は怒りを抑えきれず、壁を思い切り拳で殴りつける。その場所には大きな穴が空いてしまった。
誰も何も言えず、みんながその場にへたり込んだ。
やがて、一縷はその場に正座すると、切れた口の中を気にしながら、静かに舞に語りかけた。
「舞…… ボクはもうわからない。舞は好きなようにして」
「ここにいてもいいの?」
「舞がそうしたいなら……」
「あの人は呼ばないでくれる?」
「…… ボクからは……」
「…… いっちゃん。抱きついてていい?」
「…… 」
おずおずと、しかし、しっかりした力で、一縷は舞を抱き締め返した。その様子を未来と伊咲は呆然と眺めた。
「伊咲…… 帰ろう。俺たちがいても仕方ない、こんな場所!」
未来が伊咲を促す。伊咲は黙って立ち上がると、もう一度一縷と舞の抱き合う姿をじっと見つめた。
「一縷…… 不幸な人…… 」
伊咲は両手で一度だけ目元の涙を拭うと、もう振り返らず部屋を後にした。
ふたりが出ていくと、今しがたここで起こったことが嘘のように部屋の中は静まり返った。耳を澄ませば、国道で信号待ちをしていた車が、青信号でエンジンを吹かす音だけが微かに聞こえてくる。
静かだった。この静けさの中に、一縷と舞のふたりだけがポツンと取り残された。
一縷と舞はベッドに凭れかかり、肩を寄せ合って座った。舞は一縷の肩に頭を乗せている。数時間前、この姿勢でイッテQを見ていたのが、はるか昔のことように思えた。
「アハハハ、いっちゃん、大きな穴が空いてる」
舞が未来の開けた壁の穴を見て笑う。顔には幾筋もの涙の跡が残るが、本人は気にもならないらしい。
「なっ! あれ弁償しなきゃかなぁ、アハハハ困った、お金ないよ」
一縷も余計なことを考えるのはやめていた。涼音のこともすっかり頭の中から消えている。ただ、口の中の血の匂いがなかなかなくならない。
舞は一縷の手のひらを弄びながら、落ち着いた様子を取り戻した。
「ちゃぶ台も壊れてる?」
「どうだろう…… あっ、足、折れてるし」
「篠井クンって凄い力持ちなんだね」
「バカ力……」
「仲直りできる?」
「殴られたのに?」
「うん。だめ?」
「…… 」
「また、いつかみたいにバーベキューできる?」
「…… どうだろう」
「いっちゃんから誘って。ダメ?」
「…… 」
「キスしたい」
「…… 」
じっと見つめる舞の気配を感じながらも、一縷はどうしても彼女の方を向き直れなかった。全てがこれまでのまま、そんなことを期待する方が無理なのだ。落ち着きを取り戻した舞にホッとはしても、今ははっきり彼女に対する感情の在り処を自覚した一縷は、僅かに湧きおこる感傷的な気分に蓋をした。
「舞…… やっぱり送っていこう。ちゃんとお母さんに会うから。今日は帰ろう」
一縷の気持ちがどこにあるか確かめようと、舞は必死に彼の顔を見つめた。一縷はやはり涼音のことを思っているのではないか、その嘘を見破ろうとするかのようにじっと見つめた。だが、一縷は涼音のことは念頭になかった。ただ舞のことだけを考えていた。この子を両親のもとへ送り届けよう、それが正しい、そう思っていた。
「明日もお家に来てくれるなら帰る」
一縷の表情に何も読み取れない舞は、彼の目をじっと見つめて答えた。
「行くよ。約束する」
一縷は目を逸らさずはっきりした口調でそう答えた。それを聞いた舞の顔は、いつもの無邪気な表情を徐々に取り戻すようだった。そして、ゆっくり一縷の首に手を回すと、頬をしっかり合わせて、耳元で静かに呟いた。
「わかった。帰る。送ってくれる?」
「うん」
一縷は出かける前に何度も口を濯いだが、血の匂いは残ったままだった。
◇ ◇ ◇
タクシーの中で、舞はいつもの無邪気な姿を取り戻した。深夜0時を回っていたが、舞も一縷も、その時間の違和感を感じる感覚を失っていた。
「ただいま~! いっちゃんに送ってもらいました」
テンション高めに玄関先で声を張り上げるので、両親が揃ってふたりを出迎えた。
娘の泣き腫らした目と、妙なはしゃぎぶりに戸惑った母親は、それでも落ち着いた表情で一縷を迎えた。父親はにこやかだが冷静な顔で一縷をじっと観察している。
「こんばんは。遅くまでお嬢さんを引き止めてすみませんでした」
玄関に出てきた舞の両親に、一縷は深々と頭を下げた。下げた頭をなかなか上げようとしない。
「あらあら、ようやくいらしてくれたのね、ホフマンさん!」
舞の母親はそう言って一縷を迎えた。一縷がようやく頭を上げると、無言で笑っている父親と目があった。目元が舞に似ていて、穏やかで誠実そうな笑顔だった。
「寒いから、お茶でも飲んでいらっしゃる?」
母親は心から迎え入れたそうな柔和な顔をしたが、一縷はそれを断った。
「いえ、今夜はここで帰ります。明日、もう一度こちらにお邪魔してもよろしいですか?」
舞は母親の左腕を嬉しそうに何度も引っ張った。
「そうね、もう遅いわね。明日は何時頃いらっしゃる?」
「お昼だよね! 大学から一緒に帰ってくる!」
舞が嬉しそうに口を挟む。父親は相変わらずにこやかなままだ。
「あなた、レッスンは?」
「お休みで〜す」
舞はニコニコ笑って返事した。
「じゃあ、明日はあなたがお料理なさい」
「は〜い!」
「では、私はこれで」
一縷はもう一度深々と頭を下げた。その彼の肩を叩いて玄関まで見送りに出たのは、舞の父親だった。
「霧島君、ありがとう」
父親は静かに頭を下げた。一縷は黙ってさらに深く頭を下げた。
坂道には相変わらず小雪が舞っていた。風はやや収まったが、しんしんと冷え込み、一縷の身体からどんどん熱を奪った。
(帰したぞ…… )
一縷は雪を降らす天に向かって小さく呟いた。それは誰に向けた言葉だったか、一縷にもわからなかったが、涼音に向けた言葉でないことだけはわかった。強いて言うなら、神々への言葉、あるいは自分自身への言葉だったかもしれない。
小雪を顔に受けながら、一縷はいつもの道を歩いた。舞の家から遠ざかるにつれ、忘れていた涼音が胸の中に蘇ってきた。その姿は、激しく抱き合った白い肌の彼女ではなく、初めて会った頃の、戦闘的な彼女だった。
あれこれ考えることはやめた。一縷は涼音とも心の思うままに付き合おうと決めた。
『遅くなってゴメン。今まで舞が一緒だった。送り届けてきたところ。もう遅いし、そっちには行けない。ゴメン』
躊躇なくそうメッセージを送った。涼音の返信に素直に返事しよう。それで嫌われたらそれまでだ、そんな覚悟を決めていた。
いつもの公園を抜ける頃、涼音からの返信を受け取る。
『じゃあそっちに行くからいいわ』
内容を確認すると、ふう、と深いため息をひとつついて、俯き加減で足を速めた。
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