第40話 発覚

 トゥルルン


 涼音すずねからのメッセージを知らせるリングトーンが響いた。


「なんか届いたよ?」

「うん」

「見なくていいの?」

「うん、見るよ。多分、ジャーナルの連絡網だよ」

「あぁ、明日だもんね」

「そう。その連絡でしょ、きっと」


 一縷いちるは時計を確認した。20時45分。バイトからの帰り道、涼音はキャンパス下のカフェで食事をしている頃だ。このままメッセージに反応しないと、ここにやってくるかもしれない。


「もうこんな時間。そろそろ送って行くよ」

 涼音のため、そう強く意識したわけではないが、この時間までまいとふたりきり、というのはやはり気が引けた。


「イヤだ! 泊まる」

「無茶言うなよ」

「何処が無茶なの? 私たち恋人でしょ? 恋人なら泊まってもおかしくない! 私、そんなに子供じゃないよ!」

「そんなこと言ってないよ。東京から戻って、一度も家に帰らないのはおかしいでしょ? って言ってるだけ」

「なんで? 子供じゃないって言ってるでしょ! いつまでもパパやママに何でも訊かなきゃダメってことはないの!」

「じゃあ、ママに電話してここに泊まる、って言ってから泊りなよ」


 そう言えば諦めるだろう、そう思っていた。だが、彼女は平気で母親に電話をかけ始めた。

「ママ? ただいま。うん、着いてるよ…… 」


 予期せぬ舞の行動に一縷は慌てた。急いで涼音からのメッセージをちらっと確認する。

『明日、彼女を迎えに行くんだよね。いいよ。でも私の部屋から行ってね〜。キスマークつけてやるから!』


『あとで行くから』それだけ返信して舞の様子をうかがう。予想通り、母親から帰るよう説得されているのか、徐々に彼女の声に不機嫌なトーンが混ざる。


「……だから心配ないよ! だって一縷クンの部屋だもん。イヤだよ、帰らないからね!」

 そう言うと、舞は乱暴に通話を打ち切った。だが、見るからにスマホの向こう側の母親を気にしている。


「ほら、ダメって言われただろ?」

「ううん、ダメじゃないの…… はながいなくて、私もいないと寂しいって」

 舞は悲しそうな顔をした。きっと、彼女の家では、彼女によく似た母親が同じ顔で悲しんでいるのだろう。


「舞。ママを悲しませていいの?」

「…… 」


 一縷は、何ひとつ翳りない愛情の下で育った彼女に対して手出しできない何かを感じていた。それはきっと、自分とは異なる環境で育った彼女への羨望、嫉妬、罪悪感などが綯交ないまぜになった感情だった。自分の母親の対極にある母親像が、未だ見ぬ舞の母親に重なった。どんな時も娘を最優先する母親の姿…… それは女として父親以外の男に簡単に走った自分の母親とは似ても似つかぬものだ。そんな母親と舞は、自分とは住む世界が違うように感じるのだ。


「誰にも言ったことないけど……」

 一縷自身、自分が何を言い出そうとしているのか理解していなかった。

 そんな彼を、舞は不思議そうな顔で覗き込んだ。


「ボクの父さんはね、ボクが高一のときに交通事故で死んでね……」

 舞は驚いた様子で口もとを押さえた。


「うちの母親はそれから何ヶ月も泣いて暮らすんだよ……」

 苦々しい思い出だった。まだ過去になり切っていない生々しい記憶。


「…… 仕方ないよ。お母様はお父様を愛していらしたんだよ」

「ボクのことは、実家に帰っても喜びもしないよ」

「それは…… 」

 舞は必死で一縷のために何か言おうと言葉を探しているようだった。


「そしてあっという間に新しい恋人を作った」


 舞は再び手のひらで口もとを強く覆うと、今度は両の瞼いっぱいに涙を溜めた。


「だからかな、舞がママの話をすると、娘の心配をしたり、娘がいなくて寂しがるママを、いつもいいなぁと思ってしまうんだよね」


 舞は一縷の胸に顔を埋めてわんわん泣いた。彼女が時々見せるストレートな感受性を一縷は愛しんだ。確かに男として愛しているのは涼音だ。だが、舞に対して抱く何物にも代え難い情も、また愛情のような気がするのだ。そしてその両方とも本当は失いたくない。たとえ涼音と抱き合ってしまったからといって、この感情が失われる訳では決してない。一縷は舞といることで満たされる綺麗な感情をそのまま保ちたかったのだ。


「だから舞、今日は送っていくよ」

 彼女はおとなしく首を縦に振った。

「うん…… 帰るね、いっちゃん。…… でも、キスしてくれる?」

 一縷は躊躇った。愛しくて堪らないが、それは唇を重ねるという類の感情ではないのだ。母親の話をしながら、一縷はそのことを強く意識した。


「ダメなの?」

「…… うん」

「なんで?」

 また舞は泣き始める。今度の涙はさっきの涙とは明らかに違う気がする。


「…… なんでって」


「私はいっちゃんが他の人好きでもいいよ」


「…… 」


「いっちゃん、イヤだ! 一緒にいる!」


 ずっと陽気に振舞っていた舞だが、やはり、彼女は何かに気づいている。昨日の電話で感じた違和感を、本当は抱えたままなのだろう。

 どこまでのことに気づいているかはわからない。だが、それでも彼女は間違いなく一縷の変化に気づいている。

 強くしがみつかれて、一縷はどうしていいかわからなくなった。涼音を選んだ以上、舞を冷たく突き放すのが正しいと頭では理解している。しかし、舞の純粋さを失いたくないと、心の奥底が叫ぶのだ。舞によって自分は救われる、あの白い後ろ姿、あの母親を忘れられる、確かにそんなことを思うのだ。


 だが、涼音を放り出す訳にはいかない。それは絶対にできない。自分にすべてを曝け出した彼女を、今になって見捨てるわけにはいかない、今度は一縷の良心がそう叫ぶ。


 舞は一縷から離れようとしなかった。このまま一晩中でも抱きついているという意志が伝わってくる。一縷は途方に暮れた。何もできず、何も言えない。


 トゥルルン


 涼音からのメッセージ音がふたりの沈黙を破るように響く。その音に舞がピクンと反応した。


「いっちゃん…… 誰から?」

「…… 」

 舞は抱きついた腕のチカラを緩め、正面からきつく一縷を見つめた。


「誰なの? 私の知らない人?」

「…… 」


「言えない人?」

「…… 」

 舞の顔から表情が失せた。


「いつから?」

「…… 」


「キスしたの?」

「…… 」


 舞はみるみる青白い顔になり、洗面所に向かった。一縷はもうなす術がなかった。


 洗面所から戻ると、ベッドに腰を下ろした一縷を睨みつけ、彼女は押し入れのドアを乱暴に開いた。赤いトラベルキャリーが他のガラクタの中で妙に目立っていた。


 彼女は呆然とそれを見下ろしていたが、やがてその場にへたり込んだ。


「誰の?…… 誰のっ!!」


 一縷は何も応えず、静かに押し入れのドアを閉めた。

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