第39話 ふたりきりの部屋

『ただいま~ 空港に着きました! いっちゃん、今どこ? アパート?』

 月曜日の午後、15時過ぎにまいからメッセージが届いた。

『えっ! 明日でしょ?』

『うん。でもチケット取れたから』

『わざわざ?』

『そうです、わざわざ変更しました』

『そうですか。ご苦労様です』

『だからお迎えはいいです。今からそっち行きますから』

『そっちって?…… 』

『アパートにいるんでしょ?』

『…… じゃあ公園のカフェ?』

『もうすぐ地下鉄の駅に着くよ』

『マジで言ってる?』

『だっていっちゃん大学なんか行ってないと思ったし』

『…… わかった。駅まで迎えに行く!』

『寒いから部屋で待ってていいよ』

『行きます!』


 そう送信して、一縷いちるは部屋を見渡した。目についた涼音すずねの持ち物はとりあえずバッグにしまい込み、ベッド廻りを整え、リビングの窓を全開にして空気を入れ替える。玄関に買ったばかりの彼女のサンダルがあり、それもバッグに押し込んだ。洗面台にある化粧品類は袋に詰め、それもバッグに詰め込む。洗面所には化粧品特有の匂いが残っている気がして換気扇を回したが、とても空気が入れ替わる気がせず、一旦は開け放ったドアをきっちり閉め直した。シンクには朝方使ったコーヒーカップがふたつ。これだと不自然に思い、あるだけのコップをそこに置き足した。

 そこまで片付けると、コートを引っ被って部屋を出る。服に染み付いた匂いが気になり、腕のあたりをクンクン嗅いでみる。何となく化粧品の移り香があるような気がする。少しでも匂いを落とそうと、コートをヒラヒラさせながら、地下鉄の出入り口に急いだ。


(どこで待てばいいかな…… )

 まだかまだかと改札口の向こう側に首を伸ばすのもカッコ悪い。かといって、彼女がどの出入り口を使うか、確たる見込みもない。結局、アパート最寄りの出入り口近くの、他の出入り口も見える場所に立って周囲を一度見渡した。


 今日も小雪混じりの強い風が吹いている。アスファルトの上で粉雪の一陣がさっと舞い上がる。


 あっ! 慌てて飛び出したのでスマホを部屋に置き忘れた! 走って部屋に戻る。ドアを開けるといつもと匂いが違う。スマホだけ取り上げると、キッチン横の小窓も全開にして、再び部屋を飛び出す。地下鉄の出入り口に向かい早歩きしながらスマホのメッセージを確かめた。


『来なくていいからね! 買い物して行くから』

 慌てた。今度は商店街に向かって走る。何処で何を買っているか予想も出来ず、さりとて引き返す訳にも行かず、商店街の入り口で電話する。


 何回かの呼出音のあと、舞の軽やかな声が応答した。


「なに? 何か買うものあった?」

 昨日と違い、落ち着いた様子の舞に、少し胸を撫で下ろす。


「いや、特にないけど。なんとなく商店街まで迎えに来ちゃった」

「ホント? 寒いからいいって言ったのにぃ! もぉ、いっちゃん待てないんだからぁ、アハハハハ」

「どこ?」

「奥のスーパーだよ」

「わかった、すぐ行く」


 風は冷たかったが、走ったのと慌てたことで汗をかいた。少しだけ涼音の化粧品の匂いが薄れていく気がした。




 商店街の中の小さな食品スーパーの出入口で、舞は大きな白菜を抱えていた。かごの中には野菜が放り込まれ、いかにも買い物する気マンマンの舞はカートを押してスーパーの中に入ろうとしている。走り寄って後ろから声をかける。落ち着いて、さりげなく……


「何人分のお料理ですか?」

「いっちゃん! ただいま〜! こっち寒いね〜! お鍋にしようよ! 水炊き! 嫌い?」

 いつもと同じ笑顔にホッとする。少しばかり喜び方が大袈裟な気もするが、これが舞だよな、と納得する。


「嫌いじゃないけど、それだけの白菜誰が食べるの? それに、うちにはお鍋できる鍋もコンロもないよ」

「え〜〜〜っ、じゃあ買って!」

「…… ムダです」

「ケチ! 一回買えば何度でもできるのに! ケチ!」

 一縷はその声を無視して、野菜を元の場所に戻し始めた。


「ケチ〜〜〜〜!」

「お前三回言ったぞ! この…… ガリガリガリクソン!」

「ひっど〜〜い! このケチのエロやろう!」

 周囲のおばさんたちがびっくりしてふたりの顔を交互に見る。さすがに恥ずかしかったとみえて、舞は苦笑いしながらその場を立ち去った。


 一縷は顔を赤くして野菜を元に戻し終えると、カートと買い物かごもきれいに並べて、そそくさと舞の後を追った。


 少し離れた場所で待っていた舞は、一縷が追いつくや自然に彼の左腕に右腕を絡ませ、肩に頭を凭れかけた。


「ただいま~、いっちゃん!」

 嬉しいくせにわざと無関心を装い、知らん顔している一縷。


「ただいまっ! いっちゃん!」

 さっきより大きな声で舞が叫ぶ。


「はいはい、おかえりなさい」

 渋々、といった感じで一縷が応えると、舞は左手で彼の腕をつねった。


「痛っ! 何すんだよ!」

「すぐおかえりって言わなかったし、昨日泣かせたから」

「泣かせたって……」

 昨夜のことが蘇る。舞ではなく涼音すずねの顔が…… スーパーの前で舞を見かけたときに感じた安堵感が、急に冷えるのを感じた。


「寒いよ、いっちゃん。何か食べて帰ろうよ」

「餃子の店でいい?」

「え〜〜っ、お洋服が臭くなる」

「じゃあ何?」

「う〜ん、おでんは?」

「いいけどそんな店知らないよ」

「いいよ、コンビニのおでんで」


 そう言うと、商店街を出たところにあるコンビニに立ち寄り、舞は練り物を避けて僅かな品を買い、それに不釣り合いなほど沢山の出汁を要求した。


「私ね、ホントはおでんのお出汁飲んでるだけで幸せかも、アハハハハ」


 いつもとまったく変わらない舞は、ホントに天使のように自然体だった。




◇ ◇ ◇


「いっちゃん! あなたはなんておバカさんなの! 窓、開けっ放し!」

 涼音の残り香を消そうと開け放っておいた窓からは寒風が吹き込み、匂いどころの話じゃなく、粉雪がいくらか舞い込んでいた。


「も〜〜〜ぉ! 寒いよ! エアコン全開!」

 勝手に一縷の上着を何枚か引っ張り出して着膨れているが、舞はまだガタガタ震えている。どうやら本当に寒さに耐えかねているようだ。


「寒いよぉ〜〜〜、なんでこんなに寒いの? 東京はそうでもなかったのにぃ〜〜!」

 やがてエアコンがブンブン唸って部屋を元の温度に戻す頃、温めたおでんの出汁も仄かに香り、部屋に温かみを添えた。


「ほら、おでんの出汁でも飲めば。好きなんだろ」

「うん、アリガト。コンビニのおでん大好き!」

 そう言うと、舞は両手でカップを抱えておでんの出汁を飲み始めた。

「あ~、おいしぃ!」


 無邪気な顔でほほ笑んでいる。その横で一縷はアメリカンドッグをかじっている。こんなことなら鍋とコンロ買えばよかったかなと、今ごろになってそんなことを考えたりしている。


 簡単な腹ごしらえを終わると、壁に凭れていた一縷の傍に舞がぴったり寄り添い、肩に頭を乗せた。


「テレビでも見る? 何か録画してる?」

「イッテQ」

「アハハハハ、あれ面白いよね、いっちゃんも見てるんだ!」

「うん、あれくらいかな、見るの」

「へぇ〜、ドラマは?」

「見ない。途中で飽きちゃう」

「じゃあひとりの時は何してるの?」

「ネットとかYouTube」

「エッチなのとか?」

「…… 」

「…… 一緒に見よっか」

「いいよ、ひとりで見るから」

「ひとりで見るとか…… すごいエッチな気がする」

「そうだよ、エッチだから。ここにいるとヤバイよ」

 一瞬だけ戸惑ったように見えた舞の顔は、すぐに元の穏やかな笑顔に戻った。


「…… いっちゃん」

「なに?」

「いつかいっちゃん効果の話したでしょ?」

「うん。頑張らなくてもいいや、ってこと?」

「そう。その時、もうひとつある、って言ったの憶えてる?」

「あぁ、なんか言ってたね」

「なんだか知りたい?」


 なんだろう? 夢見る乙女の舞は、また何か思いついた物語でも始めるのか? そう思っただけで、一縷はあまり関心を示さない。その無表情に、舞も一瞬表情をなくしたが、その顔も長続きしない。


「興味なさそ。もういいや」

 そう言うと、結局、舞は一縷に凭れかかり、イッテQを見てケラケラ笑い始めた。

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