第3話 三上涼音

「いいから入りなよ」


 学生会館204号室の開け放たれたドアから一縷いちるが中を覗いていると、後ろからポンと肩を叩く者がある。振り返ると、大講義室で見かけた黒縁メガネの男性がいて、早く部屋に入れとあごで促している。


三上みかみちゃん、また加入希望者!」


(おいおい、まだ決めたわけじゃない…… )


 一縷が躊躇うのも束の間、押されるままに部屋に入ると、そこには10名前後の男子学生と、ふたりの女子学生がいて、例の色白の女性は、ロの字に並べられた机を綺麗に拭いているところだった。



「キミ、さっきサークル案内聞いてた子だよね。最前列にいなかった?」


 三上ちゃん、と呼ばれた色白の彼女が雑巾がけの手を休め、小首を傾げて一縷をじっと見る。大講義室の壇上で見かけた遠い存在が急に身近になり、一縷はドギマギしてしまう。


「はい…… いました」


 そう返事するが、声は掠れ喉は詰まる。緊張しているのが誰の眼にも明らかだった。


「なんとなくキミがここに来る予感がしてたよ」


「…… 」


 一縷から目を逸らさず色白の三上ちゃんが応える。その視線は、自分を姿を追い求めて来た? と言ってるようで、一縷は今度は声も出せない。


 すると、一縷の緊張ぶりが可笑しかったのか、黒縁メガネが会話に割り込んだ。


「三上ちゃん効果抜群だね! これで3人目だよ」


 馴れ馴れし気に一縷の肩を抱いた黒縁が、三上ちゃんに話しかける。


「ほらな、俺が言った通りだ! 三上ちゃんは色気があるから、飯島がしゃべるよりよっぽどいいって言ったろ?」


 社会人と見紛う雰囲気の、背の低い男性が近寄ってきて自慢した。


 だが、黒縁の飯島と小柄な男性のニヤついた顔が揃うと、三上ちゃんはきっぱりという感じでふたりを無視した。無言で残りの机を拭き終わると、雑巾片手にさっさと部屋を出て行ってしまった。


「ダメですよ、福島さん。彼女にあんな言い方をすると嫌われるだけですよ」


 大柄で朴訥とした感じの男性が、小柄な福島に真面目な顔で注意すると、男性の周囲にいた何人かが苦笑いしている。一縷は福島と飯島に近寄ると三上ちゃんからは距離を置かれるという事実を、本能的に嗅ぎ分けた。



 予定の13:30を過ぎたこともあり、さっきの大柄な男性が三上ちゃんが戻ったことを確認し、全員に着席を促した。しかし、キョロキョロしてなかなか腰を下ろせない者が一縷を含めて3人いる。


「ほらほら一年生! どこでもいいから座って!」


 三上ちゃんがよく通る声でさらに促す。すると、三人が互いを見ながら、揃って入口から遠い席に腰を下ろした。


「やっぱり新入生はかたまるんだよね。アハハハハ、不思議だよね」


 三上ちゃんは新入生たちの動きが自分の予想した通りだと愉快そうに笑った。


「まぁまぁ、三上さん、そんなにからかうとみんな委縮しちゃうから」


 先ほどの大柄な男性が三上ちゃん、いや、三上さんを諫めると、彼女はちょっと首を竦め照れくさそうに笑った。するとあの明るいブラウンの髪が、再び肩の上で軽やかに舞う。一縷の右斜め45度の位置に座った彼女は、またにこやかに一縷に微笑みかけた、ように彼には見えた。




「定刻だね。現代史ジャーナル、教養部の定例会、始めます。えーっと今日は新たな参加者を3名迎えた年度最初の定例会ということで、とりあえず自己紹介から始めますか?」


 先ほどの大柄な男性が話し始めた。


「異議なし!」


 福島が大声で同意する。


(ち、ちょっと待てよ、異議大ありだろ! もうメンバーになってるわけ? )


 これには一縷も驚いた。咄嗟に右斜め45度の三上さんの顔を盗み見る。しかし、彼女はにこやかに一縷たち新入生の方を向いたままだ。まるで買い物詐欺にでも遭った気分だが、彼女の白くやわらかな表情に一縷はすぐ抗うことを止めた。


 結局、奥から順に新入生が自己紹介を促され、三人はおとなしくそれに従った。ごつい顔をしているがやたらと声の小さい江島、細い体に似合わず戦闘的な細川、彼はサークル紹介の席で、後方から文句言ってたやつだ。このふたりは法学部。


「はい次、キミ」


 促された一縷は緊張の面持ちでその場に立つ。視線の端に、三上さんがじっと見上げている姿が映る。


「え~っと…… 霧島一縷といいます。仏文1年です。よろしくお願いします」


 それだけ言うと、期せずして、ほぉ~ という声があがった。


「仏文のキミがなんでまたうちに興味持ったの?」


「なんといいますか…… その…… 先ほどのサークル紹介がとても印象的で……」


 ふたたび、ほぉ~ という声がやや大きくなって響く。


「三上さん、凄いね。キミのアジテートで毛色の違う新人が加入してくれたよ」


「三上君何喋ったの?」


「なっ、飯島じゃなくてよかっただろ?」


「何分貰ったの?」


「また最後か? 扱いが悪いよな。飯島! 学生部と交渉して、次回からは自主ゼミから先にやらせろって言っとけ!」


 どこでどうなったか知らないが、新入生の一縷を立たせたまま、話は上級生の関心事にどんどん移っていき、一縷はその場に取り残されてしまった。



「いちる、ってどんな字書くの?」


 周囲の雰囲気を突き破り、三上さんは一縷の方に向き直ると、新入生に対してごくありふれた質問を繰り出した。


っていう、あの一縷です」


 今度のほぉ~、は、やや感心した声になった。


「一縷の望みかぁ。普通ならのぞみとでも名付けそうなもんだけどな」


 黒縁の飯島のこのひと言に、一縷はあからさまに不快な顔になった。何か反論しようと口をモゴモゴさせて、まさに何か言おうとした瞬間、三上さんが先に口を開いた。


「糸のように細くても最後まで繋がっている、っていう意味だよ。名付けた方は、に惑わされず、最後のひとりになっても希望を失わずに生き抜けってサインを託したんだよ、きっと」


 彼女はを殊更強調して飯島と福島を睨んだ。


「三上君凄いな。言葉の意味も知ってたんだ」


「いいえ、今、スマホで調べたんですけど」


 そういって彼女は手元のスマホを掲げた。上級生はどっと笑ったが、一縷は、突然現れた自分の代弁者を讃えるような気持ちになって、嬉しいを飛び越えて感動していた。


「霧島一縷か…… 一縷でいいよね、これから」


 三上さんが一縷の顔を見上げて微笑んだ。すぐには視線を外さない彼女の顔を、一縷は長くは見続けられず、赤らんだ顔を正面に戻した。


「三上君、あんまり見つめちゃ新人君が照れちゃうよ」


 誰かがそう茶化すとみんながどっと笑った。


「憎たらしいメンバーが多いんで、可愛い後輩ができて嬉しいんですっ!」


 目元に笑みを湛えた彼女が先輩たちに反論する。その様子は大講義室の雰囲気とはまるで別人だった。


「ではその可愛い新入生のために、上級生も自己紹介だな。…… 三上さん、キミからいこうか」


 他のメンバーに関心のない一縷は、彼女の自己紹介だけを懸命にインプットした。


 三上みかみ 涼音すずね 法学部2年生。まもなく1年半の教養部を終えるので、専攻学部のある入り江の東側に引っ越し済み。現在アパートでひとり暮らし。南丘団地近くの学習塾で中学生に国語と社会科を教えるバイトばかりしている。実家は隣県の城下町にあり、三人姉妹の末っ子。将来の希望はジャーナリストになること。ダメなら地元に戻って公務員になる。好きな色は淡いパープル。好きな食べ物はカニパフ。好きな男性は芸術家っぽい繊細な人、嫌いなタイプは…… とそこで飯島の方を睨みながら、厚かましい人。


 その様子に、みんなが大笑いした。ひとりだけ一縷は…… 涼音すずね涼音すずねと、何度となく彼女の名前を反復していた。

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