第57話 馬車でのこと
「……お父様。大司教猊下って、どんな方ですの?」
ケルドルン侯爵家所有の馬車の中で、侯爵家令嬢ジャンヌ・ケルドルンは自らの父親、テオドール・ヴァン・ケルドルンにそう尋ねた。
なぜそうしたかと言うと、今現在この馬車が向かっている目的地が、ケルドルン侯爵が治める領地の中心都市、領都ラインバックに存在する宗教の中心地、インビエルノ大聖堂であり、カイナス王国において、ゴルド神聖国を本拠地とする《夜明けの教会》よりただ一人、大司教の地位に列せられている人物が、その大聖堂へとやってきたためである。
そして、ジャンヌとケルドルン侯爵は、その大司教……イファータ・ジメイに挨拶をするため、今日、朝早くに屋敷を出たのだ。
大司教イファータの目的は、このラインバックのインビエルノ大聖堂の責任者である司教トロス・エンダと会うためであり、それはカイナス王国でもかなり大きな都であり、また外国からの人や物の流通の激しい領都ラインバックにおいて、《夜明けの教会》の活動が活発かどうか、確認・指導する必要があるからだという。
実際、《夜明けの教会》のカイナス王国全体の活動を監督する立場にある大司教イファータが、その活動拠点である王都ディスコトルーオを離れることは珍しいが、全くあり得ないということでもない。
言うまでもなく、カイナスの東西南北の司教区をそれぞれ担当する四人の司教、彼らの元を定期的に訪ね、助言を送ることは大司教の大きな役割の一つである。
ただし、それでもケルドルン侯爵は今回の大司教イファータの訪問にはいささか違和感を持っていた。
なぜなら、今回のかの人物の訪問はもともと予定があったというわけではなく、急に決まったものであるらしいからだ。
一般的に、カイナス全体の《夜明けの教会》を束ねている大司教の訪問ともなれば、宗教的にも大きな出来事であり、《夜明けの教会》としても王都から離れた土地の教会を大いに慰めるに足ることだと認識しているため、通常、その訪問は大多大的に宣伝され、大司教の通行する街や村においてもそれぞれの小さな教会を見学され、また司祭や修道女に会い、声をかけるなどし、時間をかけてやってくるものだ。
それなのに、不思議なことに今回は完全なお忍びである。
当然、前宣伝などもなく、むしろこの訪問については一般市民には漏らさぬように、とまで言われたくらいだ。
一体どんな理由があってやってくるのかがまるで見えないのである。
もちろん、大司教本人……というか、その訪問を告げた司祭の話によれば、大司教猊下は司教トロスとの間に重要な話があり、そのために極秘に面会する必要があるのだ、と伝えられてはいるのだが……。
やはり、違和感は拭えない。
考えすぎなのだろうか。
そんなことを思いつつ、侯爵は愛娘の質問に答える。
侯爵も信心深い方、というわけではないが、少しは神仏など、目には見えぬ存在を信じる心はある。
戦場において、そのようなものが一瞬を左右したのではないか、と感じた経験も騎士としていくつかあり、だからこそ、馬鹿には出来ない、とも思っている。
ただ、そういったこととは異なる次元で、教会というものについては、どんな組織にも付きまとう権謀術数や後ろ暗いものがある、ということも理解している。
つまり、はっきりと心を許せる集団ではない。
そう思っている。
だが、そんなことをまだ幼い娘に言う訳にもいかない。
もしかしたら、あのハイドフェルド家の一風変わった少年になら言ってもいいかもしれないが、ジャンヌは比較的賢い子だとは言え、それでも普通の子の範疇であることを侯爵は知っている。
「そうだな……かなりお年を召した方で、穏やかな気性をされておられる。話を聞いていただくと、ほっこりと心が温かくなるような、そんな雰囲気もお持ちでな。多くの人々に慕われる、立派な方だ。実際、長い間、このカイナス王国において《夜明けの教会》を引っ張ってこられた……」
確か、三十代で司教となり、それから十年後には今の大司教の地位についたという傑物である。
通常、大司教になれるのは五十代それも半ばを過ぎてからが普通であることを考えれば、とてつもない大出世だ。
教会で階位が上がることを出世、と表現してもいいのなら、であるが。
しかし、そういった人物にありがちな灰汁の強さや、性根の歪んだところは感じられない。
むしろ、人としての器は大きく、もしも貴族だったら、一代で何度も昇爵するような功績を挙げたかもしれない、と思ってしまうほどだ。
ただ、だからと言って全くの無害な性質をしているか、と言われるとそれはないと言わざるを得ない。
やはり、それなりの……いや、かなりの修羅場を幾度となく潜り抜けてきたのだろう者特有の気配があるのだ。
視線も穏やかで、優しげであるのが常だが、その奥底を覗き込んでみると決して人畜無害な人物の持つ瞳ではないことが分かるのである。
やはり、教会、というものも貴族社会と同様、魑魅魍魎が跋扈する異界なのだろう。
純粋無垢なままでその世界を泳ぎ切ることなど決してできない。
ケルドルン侯爵は、そういうことなのだと思っている。
そんな侯爵の心のうちなど知らず、ジャンヌはそれこそ無邪気な笑顔で、
「そうなんですの! わたくし、一度もお会いしたことがないので、楽しみにしていますの」
そんなことを言う。
実際、大司教イファータは子供には優しい人物だ。
いや、子供に限らず、老若男女すべてに対して同様である。
ジャンヌが話す分には問題はないだろう。
しかし……やはり、どうしてもその訪問の理由が気になって仕方がなかった。
なぜなのかは分からない。
けれど、ケルドルン侯爵は妙な胸騒ぎを感じていた。
こういう勘が決して馬鹿にできないことを、侯爵は今までの経験から良く知っている。
だが、何がそこまでの焦燥を感じさせるのか、まるで見えてこない。
つい考え込みそうになってしまうくらいに。
しかし、
……あまり考えすぎるのも良くはないか。
そう思って、ケルドルン侯爵は頭を切り替える。
休むに似たり、とまでは思わないが、しかし答えの出ない疑問にいつまでもかかずらわっているのも問題だからだ。
それよりも、侯爵はとりあえず、娘との会話に意識を割くことにする。
話しているうちに何かが思い浮かぶかもしれない。
「楽しみにするのは構わないが、質問責めをするのはよすようにな。大司教猊下には国王陛下ですら下手な態度はとれんのだ」
「分かっておりますわ!」
明るく返答する娘に、本当に分かっているのか、と思うが、そこまで愚かな娘でもない。
それなりに空気は読むし、ダメだと言ったことはあまりやらない。
全くやらない、となると冒険心がないのか、という気になってくるが、ジャンヌはその辺り、ちょうどいいバランスで育っているように思う。
剣術を学びたい、と言い始めた時も、困ったものだ、と思うと同時に、それくらいの負けん気があるというのは中々なものだな、とも思ったものだ。
貴族令嬢としては褒められたことではないのかもしれないが、しかしそのお陰でハイドフェルド家のロザリー、それにその縁戚であるというアインと深くかかわることが出来た。
ロザリーに関しては戦場における功績もさることながら、次期ハイドフェルド家の総領であり、これから先も仲良く付き合っていかなければならない間柄で、こういう機会にあえて借りを作り、縁を深めておくのは悪くない。
また、アインに関しては詳しく聞くと、家を離れた弟の息子で、甥であるということで、貴族社会、という意味ではそこまでの意味はないのかもしれないが、個人的にその才覚には見るべきものがあると感じられた。
関わっておけば、いずれ必ずよいことがある。
そんな気がしたのだ。
そして、そういう縁を運んできたジャンヌには、きっと運があるのだとも思っている。
そう、運だ。
今、侯爵は不安を感じているが、ジャンヌの持つ運は、それすらも切り開いてくれるものだと思えばいのかもしれない、と思い直す。
それから、ジャンヌの頭にぽん、と手を置き、
「……さて、そろそろ到着するぞ。大司教猊下の前では神妙にするようにな」
そう言ったのだった。
言われて、早速真面目ぶった顔を作り出す愛娘が、だいぶかわいく見え、肩に入った力がちょうどよく抜けた侯爵だった。
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