3.6 くそ野郎二人
おでこに痛みを感じて、美心は目を覚ました。
「おい、起きろ」
「え?」
目を擦って美心は体を起こした。
「私、寝ちゃってた?」
「爆睡しておいてよく言う」
見まわすと周りは閑散としている。そして閉館を知らせるオルゴールの音が鳴っていた。
「よだれをふけ」
「む、こりゃ失敬」
ぐいと手の甲でぬぐってから、美心は背伸びをした。うたた寝は、思いのほか気持ちよく、眠りに落ちる前の混乱は消え去り、すっきりとした気分であった。
どのくらい寝ていたのだろうか、とスマホを確認すると、電源を切っていたことに気づく。
電源を入れてスマホを覗くと、ぞっとした。
「もう、こんな時間?」
「閉館の時間だからな」
「もっと早く起こしてよー」
「……図々しい女だ」
美心は、スマホの画面を確認する。
電話の着信がさっきよりも増えていた。すべてマネージャーからで、SNSにもコメントが大量に入っており、ぞっとするレベルだ。
ちゃらいと思っていたけど、粘着質だったのね。
いや、それらは両立するのか?
「うわっ、きもっ」
コメントの内容は、始めこそ話そうとか、かるい謝罪であったが、後半になるに従って脅迫じみた内容に変わっていった。
「どうしたんだ? 不細工な声を出して」
「不細工じゃない!」
珍しく気にかけてくれた瑠璃丸であったが一言多い。
美心はパタンとスマホを閉じた。
「別に。ちょっと仕事のトラブルよ」
「面倒そうな話だな。俺には相談するなよ」
「……そこは嘘でも俺に相談しろって言いなさいよ」
瑠璃丸の頼りなさに、美心はため息をついた。
まぁ、初めから瑠璃丸に相談する気などなかった。そんな間柄でもないし、頼ったところで解決できるような案件でもない。
ちょっと悪質過ぎるし、事務所の所長に相談しよう。いや、その前に先輩に相談した方がいいかな。
「心配しないで」
「いや、してないけど」
「心配、し、な、い、で!」
「あ、あぁ」
むかついたので、ちょっと圧をかけてやった。
美術館から出ると、陽はかなり傾いており、赤い空が追いやられ、遠くの空には薄闇が迫っていた。
ねっとりとした風が木々を揺らしてざわざわと鳴る中を、美心と瑠璃丸は無言で歩いていた。休んだとはいえ、どっと気疲れしてしまい、もはや美心には瑠璃丸と話す気力もなかった。瑠璃丸の方はそもそも話しかけてくるような男もないし。
ただ、そう割り切ってしまえば、気まずいこともなく、なんとなく安心できるから不思議な話だ。本当に無言で木々のさざなみしかなく、おしゃべりな美心にとって、それはそれで稀有な体験であった。
だが、その不思議な静寂は、美術館の門を抜ける前に、不快な声によって乱された。
「よう、美心ちゃーん」
「げ」
美心は思わず後退る。
そこに立っていたのは、美心のマネージャーの有馬であった。前髪をやけに気にする男で、スーツを着崩し、その下品な笑みを釣り上げた。
「何で返信くれないの。俺、心配しちゃったよ」
「あら、そう」
このちゃらい感じがそもそも苦手なのだが、ねちっこいしゃべり方が、さらに嫌いだ。
たまに、こういう喋り方する奴いるけれども、どこにその需要があるのか甚だ謎であった。
「どうしてあなたがこんなところにいるの?」
「便利な時代だよねぇ」
有馬はスマホを掲げて見せた。
そこには、無様に口を開かせた美心の寝顔が掲載されていた。
「美心ちゃんのファンが撮ってSNSにアップロードしたみたいでさ。『美心ちゃんの美術館デート激写!?』だってさ。こういうの困るんだよね。美心ちゃん、モデルなんだよ? 男関係とか逐一俺に報告してくれないとさ」
……うわっ。
これって完全にネットストーカーって奴じゃないの?
怖っ!
写真では、瑠璃丸の顔がスタンプで見えないようにされていた。だが、その肩に寄りかかって眠る美心の姿は、誤解されるには十分であった。
「いやー、いるところにはいるんだね、美心ちゃんのファン。それにしても、こいつ盗撮するなんて、ガチでないよね」
いや、ガチでないのは、おめぇだから。
「で、何なの? こんなところまで追ってきて」
「追ってきてじゃないっしょ、美心ちゃん。お昼の話の続きだよ。連絡とれないんだから、直接会いにいくしかないでしょ」
その思考が本当に怖いんだけど。
「その話は、明日事務所でしましょ。今はプライベートなの」
「いやいや、プライベートって、たかがモデルに、そんな大物感を出されても草生えるだけなんすけど」
む、むかつく。
美心が苛々していると、有馬はちらっと美心の横に視線を向ける。
「そっちの奴が、美心ちゃんの彼氏? へぇ、美心ちゃんて、こういう男が好みなんだ」
「違う。この人はただの知り合い。たまたま近くで会って、美術館に誘ってもらったの」
「言い訳下手すぎ。はい、マイナス10点」
え、どうしよう。殴りたい。
この男、瑠璃丸とはまったく別のベクトルで、すっごいむかつくんですけど。
何で私の周りって碌な男がいないんだろう、と美心はとても悲観的な気持ちになった。
「ま、美心ちゃんのタイプじゃなさそうなのはわかるけど。今度、男と会うときは、ちゃんと俺に許可とってからにしろよな」
「はぁ? 何で?」
「えぇ、わかんないかなぁ。俺が美心ちゃんのマネージャーだからでしょ」
どうしよう、警察に電話した方がいいかな。
美心が本気で悩み始めたとき、
「おい、美心」
瑠璃丸が口を開いた。
まさか、瑠璃丸が話に割って入ってくるとは思っていなかったので、美心は意外に思った。この状況下で、瑠璃丸に助けてもらうなんて癪だが、いないよりはましだ。
顎に手を当て、瑠璃丸は、美心の方に視線を向けてきた。
「俺もプライベートうんぬんは調子に乗っていると思う」
「そこじゃないでしょ!」
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