3.1 夏の終わりの中目黒
夏も終わりとはいえ、日中の熱気はまさに地獄であった。
「死ねる」
美心は額の汗を拭ってから、帽子をかぶり直した。
「何で、もっと早くキャンセルの連絡来ないかなぁ」
最近、テレビの仕事が増えてきた。その一貫として、食レポの仕事が来たのだ。中目黒の有名な中華のお店で撮影をする。現地集合ということで、美心は中目黒の小さな公園で待っていたのだけれども。
先刻、マネージャーから電話があった。
『あー、すんません、連絡すんの忘れてたんすけど、収録とびました』
なんじゃ、そりゃ。
集合時間5分前に連絡してくるなんて、非常識にもほどがある。前のマネージャーならば、こういうことはなかったのだ。一月前から、新しいマネージャーとなり、こいつがどうにも頼りない。
『てことは、美心ちゃん、暇だよね? 遊びに行こうよ』
見た目も言うこともちゃらい男で、何でこんな男が採用されたのかわからない。自分よりも年上のため、あまり強くは言えないが、さすがに腹が立って美心は告げた。
『遠慮します。仕事が少ないのは私の力不足ですけど、キャンセルとか、仕事の連絡はちゃんとしてください! 遊んでいる暇があったら働け!』
あまり強くは言えないが、美心は次の言葉を待たず、通話を切った。
「はぁ」
苛々をぶつけても、降り注ぐ暑さが緩和されるわけでもなく、むしろ大声を出したことで、さらに熱気が寄ってきたようだ。
とにもかくにも、ベンチに座り込んでいた美心は、スマホで近くの空調が入っていそうなお店を探した。
このままでは熱中症になってしまう。
マップで見ると、近くに喫茶店があるので、そちらに向かうことにした。
それにしても暑い。
これが、いわゆる地球温暖化でコンクリート・ジャングルのヒートアイランド現象なのだろうか。
そりゃ、北極の氷も溶けるよ。
しろくまピンチだよ。
あー、アイス食べたい。
そんなとりとめのないことを考えながら、美心は太陽の下をてくてくと歩いていった。
平日ということもあり、スーツ姿の人が多い。上着を手にかけて、ハンカチで汗を拭きながら、せかせか歩いていく彼らは本当にご苦労様である。
また、私服の若者も多い。
こんな中途半端な時間に街中を歩いているということは、大学生とか専門学校の生徒だろうか。この暑い中をばか笑いしている能天気さが、学生っぽさを助長していた。
彼らと美心は歳も変わらないし、おそらく彼らの目から見ると美心もどこぞの大学生と思われているかもしれない。
喫茶店は大通りから外れた小道の先にあった。
小道に入った途端、気温が10度位下がったように感じた。人が少なくなったことと、建物の陰に入ったことで風が涼やかになった。
それでも、もともと50度位の体感が40度に下がっただけで、汗が引く気配はない。
つまり、はやく文明の利器の傘下に入りたいという思いである。
やっとの思いで辿り着くと、喫茶店は地下にあるらしい。看板だけが掛けられており、地下へ続く階段の下を指している。
からんころんと、心地の良い音を立てて扉が開いた。
もはや足を一歩踏み入れた瞬間に、涼やかな風が頬を冷やした。
まさに都会のオアシス。
死にかけていた美心は、回復呪紋のようにすら感じた。
あー、ほいみー。
店内はクラシック音楽がよく似合いそうな雰囲気で、シックな椅子や机が安心感を与えてくれた。
照明は暗めで、あまり読書には向かなそうだ、と美心は思った。代わりにスマホの薄い画面のあかりが浮いていた。
店員に勧められて、奥の席に通された。
一歩進むたびにコーヒーの濃い香りがふらりと訪れる。それと微かに漂うシナモンの香りが、美心の舌をくすぐった。
せっかくだし、何か、甘いものを。
そんな誘惑が美心の鼻から脳天に突き抜けて、くるくると回っていた。
「え?」
だが、そんな文字通りあまい考えは、偶然というか、不条理というか、そういった神様の悪戯によってかき消された。
「何やってんのよ、こんなところで」
パンケーキにフォークを突き立てていたドール職人は、不機嫌そうに顔をあげて、美心の方を一瞥した。
「見てわからんのか? パンケーキを食っているんだ」
「いや、仕事しなさいよ。ドール作りなさいよ」
「俺にだってプライベートはある」
「今日は平日よ?」
「俺の仕事が土日休みだと思ったのか?」
いや、たしかに思えないけれど。
性格の悪いドール職人、瑠璃丸は、切り分けたパンケーキの切れ端をぱくりと食べた。
「あの、お知り合いなら席を一緒にしますか?」
二人のやりとりを見ていた店員は気を利かして、そんな提案をした。
「いや、知り合いっていうか……」
だんまりを決め込む瑠璃丸をみやりながら、美心は、返答に困った。
どうしたものだろうか。
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