第12話 諏訪英二

「う、ううううう!」


 わたしの視界一杯になぎの顔があった。彼女の柔らかい唇の感触が、全身の血を逆流させる。


 キッチンにいる両親が「おおっ」と声をもらしたのを耳にして、わたしは凪の身体を押しやった。


「な、なんのつもり?」


「エネルギー注入だよ。あたしのキスは薔薇の香りだ」


 意味がわからない。混乱する頭の隅で、自分の顔が真っ赤になっていることが自覚できた。両親の前でなんて恥ずかしい。


 でも、しばらくすると何やら心が穏やかになってくる。お腹の辺りが暖かく、その温もりが全身の凝りをほぐしていくようだった。


 身体を支えているのも辛いくらいに筋肉がほぐれていくと、もうその場で座っていられなくなった。キッチンの椅子の背もたれにしがみつくように、わたしはヘタリ込んだのだ。


「みろ、癒されてるじゃん」


「なにか、薬でも盛ったんじゃ」


「むむむ、鋭いわね!」


 凪は不気味な笑みを浮かべた。


 嫌な予感。


「さあ、来夢らいむちゃん。制服にお着替えよ!」


 なに偉そうに命令してんの。って、え、なんなの。わたしの意思を無視して、身体が勝手に動く! 抗うなんて問題外。すたすたと自分の部屋に向かい、わたしは制服に着替えはじめたのだ。


「やめてよ! 学校へは行きたくないんだから!」



 言葉と裏腹に、身支度がテキパキと進んでいく。登校リュックを背負った頃には、玄関に並んだ両親が、『行ってらっしゃい』と見送った。


「なんでよ!」


「戦いは新しいステージに入ったんだ。守ってばかりじゃ先に進めない。攻撃は最大の暴挙って言うからね!」


 いや、それ暴挙じゃなくて防御。攻撃は最大の防御だから。


 ◇◇◇


 身体は、未だ凪の支配下にあった。


 自転車に乗ったわたしは、風を切り学校への道をひた走る。その横を、凪が猛スピードで並走した。大きなストライドで走る姿はまるでオリンピアンだった。


 あの凪のキス。彼女の言葉によれば、あれこそが、狙った獲物に抵抗されることなく、血を得るための術『ドラキュラ・キッス』というもので、吸血鬼の唾液に含まれる特殊な媚薬によって相手の身体の自由を奪い、意のままに操ることができるそうだ。その効力は、三十分も続く。


「やり方がズルい!」


「ズルかない。敵が本格的に動き始めたってのに、当の本人が黄昏てちゃ相手の思うつぼなんだ。時渡りの件で、あんたのお人好しは証明済みだからね!」


「だから、なに。賢人けんとくんが人間の、しかも子供の姿でなきゃ、わたしだって警戒したわよ!」


「ホント先が思いやられるな。魔物だけが敵じゃないって言ってんの! これからは人間も相手にするんだからね」


「人間って……なにか特殊な能力を持っている人なの?」


「普通の人間だよ!」


 自転車は、生徒たちで賑わう通学路へと進入した。


 わたしの姿を見つけて、クラスメートたちが声をあげる。


「おお。元気じゃない、来夢ちゃん!」


「もう大丈夫なのかよ?」


 明るい表情で声をかけたクラスメートたちだが、わたしと並走する凪の姿に気づいた途端、顔色を変えた。


「あれ……この間うちへ来た転校生だよな」


「そうそう。すっごい乱暴者でさ」


荒屋敷あらやしき なぎって娘だよ」


「変な名前!」


 凪が大きく軌道を外れる。


 一目散に、陰口を言った生徒たちに向かう姿を確認して、わたしは焦った。


「駄目よ、凪!」


 言うことを利かない身体に悪態をついて、媚薬の効力から逃れようとあがいてみる。でも、上手くいかない。今にも凪はクラスメートに飛びかからんとしているのに。


「うりゃーっ!」


 超人的な跳躍力で頭上を急襲する凪に、為す術もなく立ち尽くすしかないクラスメートたち。彼女の殺気は本物だった。


 ーーやばい、 大変なことになる!


 凪が問題を起こせば、魔物退治どころではなくなる。反社会的人物として、現実の世界から退治される側になっちゃう!


 この状況をなんとかしたい一心で、精神の集中を試みた。すると突然、指先の感覚が蘇ったのだ。


 わたしは、『ぐぬっ!』と声を漏らしてグリップを握りこみブレーキをかけた。


 きききききっ!


 後輪を滑らせながらバランスを取って停車する。そのまま凪に向かってペダルを踏み込もうとした瞬間、彼女のゆくてを遮って、ひとりの男子生徒が立ち塞がったのだ。


 その余りにも堂々たる出現に驚いた凪が、動きを止めた。


「な、なんだお前?」


 風に吹かれたようなウエーブの黒髪と知的な光を湛える瞳がそこにあった。着崩した制服の凪に、皺ひとつないブレザーとネクタイ姿の男は余りにも対照的だった。


「初めまして、荒屋敷さん。僕は生徒会副会長の天城利樹あまぎとしきです」


「邪魔だよ。どけ!」


「まずは冷静に」


「うるせえ!」


 ばん!


 凪の腕が、天城の身体を振り払った。弾き飛ばされた天城が宙を舞う。


 やっちゃった!


 わたしは慌てて、凪と生徒たちの間に自転車で割り込んだ。


「なにバカなことやってんの凪!」


「邪魔だよ。こいつら全員を締めあげてやる」


「学校に居られなくなってもいいの?」


 騒然とする通学路に、数人の教師たちが駆け込んで来た。


「何をやっているんだ!」


 先頭に立って叫んだのは、生徒指導の笹原ささはら先生だった。


 女教師の八木やぎ先生が、道路にうずくまる天城利樹の介抱をしはじめる。


「天城くん、大丈夫なの?」


「先生、僕は大丈夫です。心配ありませんよ」


 半身を起こした天城が笑顔で答えた。周囲の女子たちが心配そうに彼を取り巻いている。学園の貴公子は生徒たちの中心で常に輝きを放っていた。


「またお前か。荒屋敷 凪!」


 笹原先生の顔が歪む。体育教師だけあって、その声には張りがある。筋肉隆々の身体を誇示しながら、先生はわたしと凪の間に立った。


間宮まみや、お前ほどの生徒が、なんでこんな奴とつるんでいるんだ。悪いことは言わない。距離を置け」


「あの……天城くんに手を出したのは確かに良くありません。でも、荒屋敷さんは、病欠のわたしを心配してわざわざ家にまで来てくれました」


「だから何だ。こいつが他人に親切にするのは、下心があるに決まっている」


 ちょっと、待って。そこまで決めつけるには違和感がある。転校生の凪がこの学園に通ってどれほどの期間が経ったのだろう。せいぜいが二週間ほどのはずだ。まさか、そんな短期間で悪名を轟かせたってこと?……うーん。凪なら、ありえる。ありえるんだけど、この先生の反応は教育者としてどうなんだ。


 笹原先生の背中越しに凪の表情が見えた。少し冷静さを取り戻してはいるようだけど、その不敵な笑みの唇の端が微妙に震えている。湧きあがる怒りに耐え忍ぶ姿。そう、そのまま大人しく我慢していて。


「笹原先生。凪にはわたしから話します。だから……」


「残念だが、無理だな。間宮が何と言おうがここは見過ごす訳にはいかない」


 そうよ! そうよ!


 女子生徒たちが声をあげると、一瞬にして場の空気が変わった。通学路に居る全ての生徒たちが、冷たく残忍な視線を凪に向けたのだ。


 異様な光景だった。朝の日差しが嘘のように消え去って通学路に闇が落ちた。その闇の中に、生徒たちの眼だけがぼうっと浮かびあがる。


 ……これは錯覚か。


 わたしと凪を取り巻く世界の全てが敵になったような気分だった。抗いようのない孤独が胸を締めつけてくる。


「だから言ったろ。黄昏てる場合じゃないって」


 凪が言った。真っ暗な中でも、彼女の顔だけはくっきりと見えた。


 その時、ふわっと空気が動いた。傍に近づく者の気配。身を固くする隙も与えず、何者かの手がわたしの肩を掴んでいた。


「間宮さん。みいつけた!」


 男は底抜けに明るい笑顔だった。今どき珍しい七三分けの頭で、縁の太い黒眼鏡は冗談のようにレンズが厚かった。


「風邪だって聞いたから心配しちゃったよ。なんだ、結構元気そうじゃん!」


 諏訪英治すわえいじ晴嵐せいらん学園生徒会長。彼の登場と同時に闇は吹き払われ、朝の日差しは戻っていた。まるで真打ち登場といわんばかりの舞台転換だった。


「なに、なに。みんなして暗いのはやめにしようよ。ほら、天城副会長。いつまで女の子に同情されてんの。どうせ身体は大したことないんでしょ。大袈裟なんだよね、君はいつも。ほら、先生方もそう尖らないで。ここは生徒会長の僕に免じて穏便に済ませましょう」


 彼の言葉にこの場に居る全ての人々の緊張感が解けた。ただひとり、凪だけを除いて。


 諏訪は躊躇なく凪と対峙した。挑戦的な視線をよこす彼女に、余裕の笑みで応える諏訪英治。



「荒屋敷さん、君ね」


「何だよ?」


「怖い顔、やめたら?」


「はあ?」


「せっかくの美人が台無しだよ」


「舐めてんのか」


「いや、褒めてんだよ」


「お前、ふざけんじゃねー」


「君こそ、いじけんじゃねー」


「地獄に落としてやろうか?」


「君の瞳に乾杯!」


 ぼこっ!


 諏訪の額に凪の頭突きがめり込んだ。血飛沫が花吹雪のように舞って、諏訪の身体が大地に沈んでいく。


 凪、なんて事を!


 通学路に悲鳴が轟いた。


 路面を染めていく赤い血に、みなに戦慄が走る。

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