第9話 次元旋風

「なにを言うかと思えば」


 賢人けんとくんがため息を吐く。


「どうやら、過去のビジョンにも魔物が入り込んできたようです。そろそろ潮時かな。戻りましょう。来夢らいむさん」


 賢人くんは、わたしの手を取った。なぎの射るような視線が背中に突き刺さる。


「行くな、来夢! そいつは相手の信じる心につけこんで思いのままに操ろうとするゲス野郎なんだ! 絶対に心を許しちゃ駄目だ!」


 凪の叫びに心が揺れた。彼女は本気でわたしの身を案じている。そう実感できるほど、気持ちが入っていた。


 それを感じ取ったのか、賢人くんの手に力がこもる。


「来夢さん。あれは、あなたを惑わそうとする魔物の策略だよ。ここは過去の世界で、われわれに接触するなんてあり得ない。騙されちゃいけない!」


 過去への旅が終わりを告げるかのように、無数の光の帯が空間に現れた。突然、重力から開放されたわたしと賢人くんの身体が、その光の帯の中を飛び始める。なんの推進力もないはずなのに、わたしたちはぐんぐんスピードに乗って空間を飛行したのだ。


「過去にまで干渉する魔物が出現したということです。来夢さんを取り巻く状況は相当に深刻であることを自覚してください」


 凪と出会ってからの短い期間で、山ほどの異常事態に遭遇した。どれもこれも現実離れしていて、簡単に理解できるものじゃない。わずかに、黒衣の三人や天元老師てんげんろうし、そして凪たちが陰でわたしを守ってくれていることだけは理解できた。


 ――でも。問題はこれから先だ。


 わたしは、まず何をなすべきか?


 自分の手を引いてくれている賢人くんが、敵だなんて想像もできなかったし、かと言って、凪の心からの絶叫を噓だと決めつけることも無理だった。そう。今のわたしにはちゃんと判断するまでの情報がないのだ。


 ならば――この身で試すしかない!


 わたしは自らの右腕に噛みついた。


「な、何を?」


 賢人くんが叫ぶ。


 しかし、噛みついたものの、そこから肉に歯を立てるには想像以上の勇気が必要だった。


 ――痛いだろうな……。


 心の中で呟いた途端、わたしを取り巻く風景が変化した。光の帯が弾けて灰色の空間が現れる。気がつけば、わたしはその中心で両手両足を拘束されたまま宙を漂っていたのだ。


「え、どう言うこと? 何よこれは!」


 わたしの足下に、わだかまる闇が染みのように拡がっていた。闇からは無数の呟きが聞こえてくる。


 ――腕を噛みきって、血が滴り落ちる!


 ――無限力の血が飛び散ったぞ!


 ――俺にもよこせ!


 ――わたしにも飲ませて!


 その声は陰鬱な響きを帯びて、わたしの耳を侵食していく。


「勘違いするな!」


 ひときわ厳とした言葉が魔物たちに放たれた。

「彼女が腕を噛んだのは空間でのイメージであって本物ではない。見ろ。彼女はこの通り手足の自由を奪われ我が手中にある!」


 声の主は賢人くんである。彼は少年のあどけなさを保ちつつも、声色は老獪な大人のものだった。


 意気消沈する魔物たち。その空気を打ち破る賢人くんの言葉がさらに重ねられた。


「心配はいらない。お前たちが邪昡じゃくらのためでなく、ぼくのために働けばこの女の血はくれてやると言うことだ!」


 そう言った賢人くんの表情が醜く歪む。


 四肢を縛りあげ、わたしに流れる血と引き換えに魔物たちを思うままに操ろうとする賢人くん。――これが、今のわたしの現実か。


「だから言ったろ? 目を覚ませって!」


 暗黒の空間に現れたのは、凪だ。これは過去の……それとも現在いまの……。


「当然、現在いまの凪さまだよ!」


 彼女は、背中にコウモリの翼を広げてこちらへやって来る。その姿は、わたしの血を狙ったことへの罰である、天使からの熱線で黒焦げになっていた。


 あの時の、凪だ。現実の凪に間違いない。


 しかし、わたしと凪の間に見えない壁が立ち塞がり、彼女はその場で足止めをくらうことになった。


「ちっ。姑息な真似を!」


 凪が言った。


「おい、時渡ときわたり。てめえごときが邪眩じゃくらを出し抜いて魔物を自由にするなんて未来永劫無理だわ!」


「うるさい!」


 賢人くんが右指を突き出すと、凪の眼前で火花が散った。


「あつうううう!」


 両目を襲った熱の痛みに、彼女は大きく後退した。


 間髪を入れず、賢人くんは魔物たちをけしかける。


「魔物ども! あの吸血娘を殺せ! 一番最初に殺した奴に、無限力の血をくれてやるぞ!」


 闇が動いた。


 暗黒の空間にバチバチと光が爆ぜて、無数の魔物たちが凪への攻撃を開始する。


 わたしの全身に戦慄が走った。魔討空間はどうしたの? 凪の仲間たちは常に結界を張りつつ、必要とあれば魔討空間を作って、守りと攻撃の場を分けていたはずだ。でも、ここは……。


「その通りだよ来夢ちゃん」


 見えない壁の向こうで凪が言った。さっきもだが、凪は確実にわたしの心の声をキャッチしている。


「あんたの言う通り、ここは魔討空間でも、通常空間でもない。時渡りの持ち場である次元断層の一部だ」


 次元断層? これまた聞きなれない言葉が頭を混乱させる。


「ついこの間までこの時渡りは、時空担当としてあたしたちの仲間だったんだが、何が気にくわないのか裏切りやがってさ。で、奴が思うままにできるこの空間には結界も張らず、魔物たちに開放しているってわけだ」


 賢人くんが裏切者。


 わたしは、横に浮かぶ賢人くんに視線を向けた。


「なぜなの。なぜあなたはみんなを裏切ることに……?」


「あんたのせいだよ」


「え、わたし?」


「無限力の血かなんだか知らないが、時を思うままにできるぼくほどの存在に、君を守るためだけに時空を管理せよとは、もう我慢の限界さ。自慢じゃないが時を渡る我々一族は、自在に過去や未来に飛んで多くの知識を身につけることができるんだ。ワイズマンと呼ばれる所以もそこにある。その一族のぼくに、こんな小さな役割しか与えない天狼星のやり方に我慢できなかったんだよ!」


「はい、はい、はい」


 凪が手を打った。


「高慢なお坊ちゃんによるお坊ちゃんのためのご高説……痛すぎて笑うわ!」


「黙れ、クソ吸血鬼が!」


「ああ、そうだよな。そのクソ吸血鬼が言うんだから、間違いない」


 凪はわたしにウインクした。


「こいつは相当に根性のねじ曲がった、クズ野郎だってね!」


 四方八方から襲いかかる魔物たちが、嵐となって凪の身体を取り巻いた。


「来やがれ! みんなまとめて地獄へ送ってやる!」


 吹き荒れる肉弾の旋風。


 血しぶきが次元断層の闇を赤く染めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る