第4話 血の守り人

 ざわざわざわざわ。


 周囲の雑音が意識にのぼる。それは耳障りなものではなく、どちらかと言えば心の落ち着く音だった。


 甲高い笑い声。どたばたと走る者がいて、その振動が身体に伝わってくる。時折、キュッと鳴るのは上履きが床をこする音だった。


 視界がぱっと開けた。


 そこは、見慣れた教室の風景。クラスメートがふざけあい、黒板に悪戯書きをする男子や、三人一組の女子がスマホの動画を見ながら、アイドルの振り付けを真似ていたりする、いつもの日常だった。


「ねーねー、来夢らいむさ!」


 クラスメートの夏樹が声をかけてきた。


「今日はどうしたの? なんか元気なくない?」


「あ、いや。そんなことないよ」


「ほんと? さっきから話しかけているのに上の空だからさ。悩みごとでもあるのかって心配しちゃった」


「違う、違う。悩みごとなんてないよ!」


 異常事態に頭が混乱しているけど……そんなことは言えない。


 夏樹はお構いなしに話を続けていた。


 わたしは適当に相槌を打ちつつ、周囲の状況を確認する。


 一体どうなっているの。さっきまで、ワイズマンと名乗る少年と一緒にいたはずなのに。その前には、わたしを守ると言っていた凪が襲って来たし、暴れる凪を止めるために変なお爺さんも現れた。でも、そんな痕跡はひとつも残っていない。慌てて制服も確認したが、蜘蛛の体液をかぶったはずの制服は綺麗なままだった。


 開け放たれた教室の窓から、爽やかな風が吹き込んでいた。明るい陽射しに包まれたクラスメートたちの姿が眩しく輝いている。いつの間にか、そんな光景にホッとしている自分がいた。


 夢なら醒めて、と思ったけれど……あれって本当に夢だったのかもしれない。そうだ――白昼夢はくちゅうむというやつだ。きっと、そうに違いない。


「これが、来夢さんの日常なんですね」


 わたしの左隣で声がした。


「えっ?」


 隣でわたしに微笑みかけるのは、ワイズマン――賢人けんとくんだった。


「賢人くん!」


 驚いて立ち上がったわたしに、夏樹が不審げな表情をする。


「なに? どうしちゃったの突然」


「あ、ごめん。この子とは、なんでもないんだけど……その」


「この子?」


 夏樹が首を傾げる。


 賢人くんの方は焦るようすもなく微笑んでいた。


「まずいよ、賢人くん。あなたは部外者なのよ」


「ちょっと、部外者って……」


 夏樹が青くなった。


「隣に誰かいるの?」


 あれ……まさか、見えていない? 


 わたしは助けを求めて賢人くんに視線を向ける。


 彼はゆっくりと頷いた。


「信じられないだろうけど、友達にぼくの姿は見えていないよ。当然、彼女だけではなく、ここに居るみなもね」


「どういうことなの?」


「ここはね、来夢さんにとって、少し時間を巻き戻した過去の風景なんだよ」


 この子は何を言っているのだろう。その心境を察したのか、賢人くんがわたしの肩に手を置いて囁く。


「試しに、ちょっと自分の席を離れてみて」


 言われるままに、わたしは席を離れる。


「あっ!」


 離れたはずなのに、わたしの姿が席に残っていた。不安げに眉をひそめ、納得がいかない時に見せる、口を尖らせる仕草もそこにある。わたしは自分の身体を探った。大丈夫だ。ちゃんと肉体は存在している。まさにそれは、自分が自分を見ているというあり得ない状況だったのだ。


「これって……幽体離脱?」


「ははは。違うよ。ここでは、席を離れた方が現在の来夢さん。残った方が過去の来夢さんなんだ。どちらも本物だけど、時間的な違いがあるんだよ」


「……タイムスリップ?」


「ちょっと違うなあ」


 賢人くんの話によれば、今のわたしは意識だけの存在で、過去の時間を俯瞰して眺めている状態だという。精神だけを過去に戻しているわけだから、タイムスリップと言うよりは退行催眠に近い現象だそうだ。席を離れたわたしを、夏樹はもう認識していない。試しに夏樹の目の前で手を振ってみたが、やはり見えていなかった。


「さっきは、現在の来夢さんの精神が過去とうまくシンクロしたんだね。この退行現象にはまだまだ分からないことが多いから、興味深い体験をした」


賢人けんじんなのに、知らないことがあるの?」


「世界は複雑なんだよ。全部は無理さ」


 賢人くんの口調が、子供が言い訳をするみたいになった。


 考えてみれば賢人けんじんなんて言うけど、明らかに小学生の男の子じゃないか。そんなのに子供扱いされている状況を考えると、ちょっとムカついた。それに、まだ分からないことの多い退行現象にわたしを連れ出すなんて、実験台じゃないいんだよ!


「ちょっと。なんでその……退行なんてする必要があるの? 勝手に人を過去に戻して何をさせようっていうのかな?」


「来夢さんを取り巻く現実を知ってもらうためさ」


 わりとキツメの口調だったはずなのに、賢人くんは平然と受け止めた。


「さ、行くよ!」


 突然、賢人くんがわたしの手を取った。大人とは違う小さめの手は、柔らかく温かい。胸がキュンとした。でも、異性に対する感情じゃない。なに、なに、これは。まさか……母性? えっ、母性?


 母性なのか!


 ◇◇◇


 教室を出るわたしの視界に、まだ話し続ける夏樹と呆然と立ち尽くす過去のわたしの姿が残った。この後、過去のわたしは夏樹に散々にいじられるんだろうな。ああして、この世界の時間は流れていく。そんなことを考えつつも、賢人くんのスピードについていく行くのに必死になった。


「そんなに急いでどこに行くの?」


 階段を降り、校庭へと走り出たわたしの目の前に歪む空間が出現した。サッカーゴールほどの大きさで、そこだけがさざ波のようにキラキラと揺れている。


「あれは?」


「この世界に現れた魔物を退治するためのフィールド、魔討空間まとうくうかんだよ」


「ま、まとう……なに? ぜんぜん意味不明!」


「飛び込むよ!」


 そのまま、わたしたちはさざ波の空間に飛び込んだ。


 にゅるっ!


 ゼリーの膜を通り抜ける感触。呼吸を止めたのも一瞬だった。


 突如、広がった鉛色の世界。すべての色が抜け落ちて、街の形も人の気配もなく、空や山さえ存在しない空間にわたしたちは足を踏み入れていたのだ。


 あまりにも生気のない光景に、わたしは身震いする。


「ここは結界を破って出現する魔物を、人知れず葬るために作られた空間なんだ。ほら、彼らがやって来る」


 賢人くんが指さす場所に、現れた黒衣姿の三人。みんなフードを眼深に被っているので表情が分からない。


 ――そして。


 彼らの前に立ちはだかるのは、ふたつの鎌を振り上げて威嚇する巨大なカマキリだった。


 唐突に姿を現したように見えたのは、カマキリが鉛色の空間に同化して体色を変えていたからだ。そう。カマキリは鉛色なのだ。


 黒衣の三人が、カマキリを取り囲むために散る。


「彼らこそ、血の守り人」


 賢人くんが言った。


「魔物たちから、あなたを守る者たちだよ」


 バサッと、羽根を広げてカマキリが威嚇した。

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