第3話 賢人現る

 鋭い牙が迫る。

 

 冗談じゃない。わたしの血を守ると言った当人が襲って来るなんて!


 今やなぎは、ただ血を求めて牙を剝くコウモリの怪物となり果てていた。


「があっ!」


 わたしの喉笛を狙う凪。


 しかし素早く身をかわすと、彼女は悔しそうにこちらを睨みかえしたのだ。


 それはお門違いというものでしょう!


「自分のやっていることが分かってんの、凪?」


 がるるるるる!


 駄目だ。完全に我を失っている。このままじゃ本当に血を吸うために喰われてしまう。どうしよう!


 二メートル近い凪の身体が、威嚇のために胸を張った。背中の翼がバサバサと羽ばたき、全身が青く輝やく。これが魔物たちが恐れていた、荒くれの吸血娘が放つ殺気というものなんだろうか。半端ない圧力がわたしを襲い脚がすくんだ。

 

 覚悟を決めてわたしは目を閉じる。

 

 その時、トントンとわたしの肩が叩かれた。


「無理、無理、無理!」


 わたしは絶叫した。やっぱり、喰われるなんて嫌だ!


「おい、おい。お嬢ちゃん」


 パニックになったわたしの耳元で声がする。


「落ち着きなさい。お嬢ちゃん」


「はっ?」


 目を開けて声のする方へ視線を移すと、そこに立っていたのは、白髪、髭もじゃの老人だった。


「あ、あの……」


「怖がる必要はない。わしは吸血娘の後見人だ」


「後見人?」


「早い話が、お目つけ役だな」


 こうしている間にも、地中から新たな魔物たちが姿を現そうとしていた。老人は天に腕を突き上げて円を描いた。さっき凪が結界を解いたのと同じ仕草だ。


「よし。結界を張りなおした。雑魚どもには完璧に有効だから安心していい。それにしても、情けない吸血鬼だ」


 白髪の老人は、牙をむいたまま固まる凪を指さした。


「こ奴は折り紙つきの問題児でな。好戦的で欲深く、怠惰で不遜。狡猾で粗暴、自分本位、身勝手、冷血漢、風呂は嫌いだわ、歯磨きはせんわ……」


「あの、どこまでひどいんですか?」


「いや……ここまでにしておこう」


「凪の動きはなんで止まっているの?」


「わしの念力よ。こうでもせんと、何をしでかすかわからん乱暴者だからな。ちゃんと管理しておるのだ」


 ちょん。


 老人の指先が凪の鼻を突く。


「ぷっは!」


 凪が復活した。一瞬、わが身に起こったことを確認するように周囲を見渡したが、すぐに目の前の老人を見つけると形相を変えた。


「くそジジイ。 勝手に身体の自由を奪いやがったな!」


「この大バカ者! 守るべき相手に牙を向けるとは。与えられた任務を忘れるからこうなるのだ」


「うるせえな! ちょっと本能に惑わされちまっただけだろが。本気で血をいただくつもりなんかないよ」


「たわけ! 我を失っておったくせに小ざかしい! もしも、このお嬢ちゃんの血を一滴でも口にしてみろ、お前は魂ごと八つ裂きにされて無間地獄に落とされるところだぞ」


「ふん。そうなれば、あたしは無限力の血を吸って、無敵の吸血鬼になってんだよ。逆にてめえらを地獄に送ることになるかもしれないね!」


「減らず口を。ならばそうなる前に無間地獄に落すしかないな」


「おいおい、冗談じゃないわよ。あたしは一生懸命やってんじゃん。吸血鬼が極上の血を前にしても、与えられた任務を全うしようと頑張ってんだぜ!」


 どうやら、凪は自分を取り戻したようだ。彼女の言う通り、吸血鬼である凪に、血を吸ってはならないという任務はつらすぎる気が。


「信用できるか!」


「なんだと!」


 わたしは両手をあげて、ふたりの間に割って入った。


「ストップ、ストップ! これ以上、無駄な争いはやめて!」


「うるせー!」


 凪の巨大な翼が、わたしの身体を薙ぎ払った。全身に衝撃が走る。


 呆然とするわたしの目と、凪の目がぶつかった。


 あ、やばい。あたし何てことをしたの! って目を凪がした――ような気がする。


 ドン!


 わたしは地面にしこたま身体を打ちつけて、苦しみの余り咳込んだ。


「お嬢ちゃん!」


 老人が駆け寄って来る。


「おい、どこが痛い? どこが苦しい?」


 意識ははっきりしていたが、身体に力が入らなかった。自分でもどこまでのダメージを受けたのか理解できないのだった。


「このタワケ!」


 老人が手にした杖を掲げて、『ふん』と唸った。すると、天空にわかに掻き曇りではないけれど、ちょうど凪の頭上にだけ、墨を流したような雲が湧きだした。そして、とぐろを巻く雲の中から可愛らしい幼子が、にゅうっと顔を出したのだ。


「あ、あれは……」


「うむ。あれは天使じゃ」

 

 その言葉通り、雲から出したその顔は、公園の噴水によくある天使の像と同じものだった。白い肌と張りついたような笑顔。いや、笑顔というよりは半笑いという方が正しく、よく見れば、あまり可愛いとは言えないかもしれない。


「くそ、この! あっちへ行け!」


 半笑いで見下ろしてくる天使に向かって、悪態の限りを尽くす凪。彼女の身に何が起ころうとしているのか想像もつかないが、わたしに暴力を振るった凪への罰。そう。老人は彼女に罰を与えようとしているのだ。


 半笑いの天使の顔が、突如として怒りで歪んだ。その変貌ぶりは、周囲の空気を凍らせるには十分な迫力があった。


 いや。違う。凍りついたのは空気であって、凪にとっては地獄の業火。天使が口から吐き出したのは、灼熱の光線なのだ。


「あつうううううう!」


 凪の苦しむ姿は、吸血鬼映画で何度も観た事のある光景だった。


 闇の住人ドラキュラが太陽の光を浴びると、体内から炎が噴き出して灰となって消滅する。これが老人が言っていた、無間地獄に落ちるということなんだろうか。


「や、やめて!」


 わたしは力の入らない身体を承知で、立ち上がろうと試みる。


「お嬢ちゃん、無理をしちゃいかん!」


「凪を、彼女を許してやってください! わたしはこの通り、何でもありませんから。彼女を無間地獄に落さないで!」


 わたしは立ち上がっていた。


 全身から黒煙を噴き上げる凪が、驚いている――ように思う。


 そして。


 わたしの意識はブラックアウトした。


 ◇◇◇


 ふわふわと捉えどころのない空間。


 あらゆる音が反響する中で、人の声も混じっているのが分かるけど、くぐもった会話の内容は頭に入って来ない。


 わたしは……どうなっているの?


 ――大丈夫。ケガはないよ。


 えっ……誰?


 ――かなりの衝撃だったからね。脳震盪を起こしていたんだ。


 その声だけがクリアに聞こえてくる。


 誰なの!


 視界が、突然開けた。


 白い霧で満ちる空間の奥から、ゆっくりと姿を現す影がある。


 最初に見えたのは、白のデニムパンツにスニーカー。そして、胸に『lucky』のロゴがついたパーカーへと続き、最後にぼさぼさ頭の少年の顔が現れた。


「やあ。間宮来夢まみやらいむさん」


 色白の少年がほほ笑んだ。


「あなたは……?」


「そうだな。みなは、ぼくのことをワイズマンと呼ぶけど」


「……ワイズマン」


 つまり、賢人けんじんということね。


「ちょっと大層なんで、賢人けんとでいいよ」


「それ、賢人けんじんと書いてってことよね?」


「う、うん。そうだね」


「もしかして、そこ笑うとこ?」


「え、いや。そんなつもりは」


 少年は頬を赤くしている。本当にそんなつもりはないようだ。


「ごめんなさい、来夢さん。混乱させるつもりはないんだけど、この機会に伝えたいことがあって」


「伝えるって……」


「今、そこにある危機について」


 それって、ハリソン・フォードの映画よね?


 突っ込みを入れた途端、わたしは二度目のブラックアウトを経験した。

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