第2話 その血、いただきます

 大地から現れたのは、人間の姿をした白うさぎだった。


 着ぐるみではない。大きな耳を立てて、顔の両サイドに離れた目と、もぐもぐ鼻を動かすリアルなうさぎだった。ただ、やたらと背が高くスマートなのだ。


「なに、これ」


来夢らいむちゃんの血を欲する魔物だよ」


 荒屋敷あらやしき なぎが言った。


「でも、うさぎの姿をしているからと言って油断は禁物」


「凶暴なの?」


「身長百九十センチのうさぎなんているか?」


 わたしは首を振った。


「物わかりがいいね。じゃ、ここはさっきのステーキ代で勘弁してやる」


「はぁ? 意味がわからない」


「用心棒代よ。ちょっと割に合わないけどね」


 凪はわたしを庇うようにして立った。彼女の背中の向こうで、白うさぎが笑う。


「おやおや。吸血娘がしゃしゃり出てなにをするつもりですか?」


「残念だけど、この娘には指一本触れさせないよ」


 白うさぎは首をかしげる。


「これは面妖な。吸血鬼の一族が人間を守るとは。ああ、その娘の血を独り占めしょうという魂胆ですか」


「うるせえ!」


 凪が動く。その素早い身のこなしは一陣の風のように、わたしの髪を吹き乱した。


 宙を飛ぶ凪の右脚が美しい弧を描き、白うさぎの首に叩き込まれる。


「うぎゃあ!」


 強烈な蹴りをくらって、白うさぎの身体が粉砕した。まるで、砂で作られたモニュメントみたいに。


「気を緩めんじゃないよ!」


 凪の言葉に、わたしは周囲の異変に気がついた。


 ――なに、なに、なに? わたしの周りが魔物だらけになっちゃってる! しかも、アスファルトからは続々と新しい魔物たちが出現しているのだ。タコの脚が頭から生えてる者や、巨大ムカデ。半透明のアメーバーに目玉に手足のついた生き物。それこそ数えきれないくらいの魔物たちが跋扈している。


「……そ、そんな」


「どうだい? これがあんたを取り巻く現実。実相ってやつだよ」


「じっそう?」


 凪の瞳が青く輝いた。その全身にも瞳と同じ青い色の炎が揺らめく。


 わたしに襲いかかろうとしていた魔物たちが動きを止めて、息をのんだ。


 ――青いぞ!


 ――青い炎を纏っている。


 ――青い奴は危険だ!


 魔物たちの囁きは、やがて大きな合唱となって空気を震わせた。


 ――青い炎の吸血鬼!


 ――知ってるぞ。知ってるぞ!


 ――こいつは、荒くれの吸血娘だ!


 見慣れた街の風景が灰色に染まる。澱んだ空気に腐敗臭が混じりこみ、地面からは絶えず亡者のうめき声が響く。


 この状況はわたしの認識の範疇はんちゅうをはるかに超えていた。もう一歩も動けず、気が遠くなりそうだった。


間宮来夢まみやらいむ! 喰われたくなけりゃしっかりしろ!」


 凪の怒声に、わたしは我を取り戻した。


「そ、そうだ。わたし喰われたくない!」


「大丈夫かよ! 動転してんじゃねえぞ!」


 凪は青い炎となって、魔物たちを次々と焼き尽くしている。その姿は吹き荒れる嵐のように、魔物たちの間を吹き抜けた。


「あんたもボーッするな」


 一陣の風となって凪の声が届く。


「後ろから魔物が来るぞ!」


「はあ……?」


 振り向くと、巨大な蜘蛛が脚を広げて今にも飛びかからんとしていたのだ。


「わわわわわわわ!」


 わたしの反応を察知したのか、蜘蛛は動きを止めた。


「気持ち悪い! しっしっ! あっちに行け!」


 バタバタと体を動かしたが、それに効果があるのかわからない。しかし、何もしないよりはましだろう。


 蜘蛛は膨れた尻先から糸を吐き出した。こちらの動きを封じて、ゆっくり襲うという方針に変更したらしい。ねばねばとした蜘蛛の糸がわたしの身体を絡めとる。


「うぷっ!」


 蜘蛛の巣に捕らわれた蝶々の気持ちがわかった。でも、わたしは人間だよ。こんなの現実にあっていいことじゃないからさ! 夢ならもうそろそろ醒めてもいいころだよね! ああ、醒めて、醒めて、醒めて、このくそ夢が!


 意に反して、目の前に迫るのは巨大な蜘蛛の鋭い牙。


 絶望の悲鳴をあげた瞬間、蜘蛛の体が真っ二つに裂けた。


 大量の体液と内臓が飛び散り、わたしの全身はずぶ濡れとなった。


「ばか。現実逃避してる場合か!」


 いつの間にか凪の背中が目の前にあった。


 彼女も同じく蜘蛛の体液に塗れている。


「あ、ありがとう……凪さん」


 振り向いた凪の、顔半分しか見えない瞳の奥に戸惑いの色が浮かんだ――ように思う。


 すでに、彼女から青い炎は消えていた。その嵐の如き攻撃でかなりの数の魔物が灰となったが、魔物は次から次へ湧いてきている。


「やっぱりキリがないね。そろそろ仕上げといきますか」


 それはまるで、料理の仕上げのような軽いノリだった。


 バキバキバキ!


 凪の背中が音をたてた。凄まじい勢いで学生服のブラウスが裂ける。盛りあがる筋肉の塊。スカートも弾け飛んで、ストッキングの破片が脚に纏わりついた。背中の肩甲骨けんこうこつがせり出し肉を突き破ると、それはみるみる成長して、ついには巨大な翼へと変貌した。


 人型のコウモリ。


 凪は、コウモリ女へと変身したのだ。


 ◇◇◇


「な……凪」


 それが荒屋敷 凪の姿だなんて。


 変身を遂げた凪がわたしを振り向いた。


「どうよ? あたしのこの姿。怖い?」


「怖いもなにも。……あなたは何者なの?」

 凪は鼻を鳴らした。


 そして、膝を折ってわたしの顔を覗き込んだ。膝を折ってさえ凪の目線はわたしと同じだ。変身後の彼女は二メートルほどの大きさがあった。


「あたしは吸血鬼の一族だ。だからって怖がらなくてもいい。言っただろ。あたしはあんたを守るために来たって」


 魔物の一匹がわたしを狙って襲いかかる。


 凪は広げた翼を翻して、魔物を跳ね飛ばした。


「見てろ」


 凪は空へ飛んだ。


 狂乱する魔物たちの上空を高く飛行したかと思うと、翼をいっぱいに張って急降下をはじめた。そして勢いのままに、翼の部分で魔物たちの首を刎ねていくのだ。


 アスファルトから湧き出る魔物のことごとくを葬っていく凪。


 その光景がしばらく続いた。


 どのくらい時間がたったのか。


 立ち尽くすわたしの前に、凪が戻った。


 肩で息をする彼女がわたしを見下ろす。


 長い沈黙。


 あまりに無言の凪に不安を感じてわたしは言った。


「あの、これから……どうする?」


「はあ、はあ、はあ」


 凪の口から荒い息が漏れる。


「……あの」


「はあ、はあ、はあ……は、腹が減った」


「え?」


「が、我慢できない!」


 コウモリ人間の凪が牙を剝いた。


「その血、いただきます!」


 わたしに、鋭い牙が迫る。


 なにそれ。話がちがうよね!

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