第15話 神の村

「この子達を助けてくださって、本当にありがとうございます」

 一通りの挨拶のあと、村巫女である乃依は、まずそれを言ってきた。そんな大それたことをしたつもりはなかったのだが、乃依はぺこぺこと頭を何度も下げて感謝するので、藍達の方が恐縮してしまった。

 乃依が母に似ていることと、同じ巫女だということもあって、藍にしては珍しく、彼女と会話を交わす回数が多かった。正確には、交わざるを得なかったのだが。昴はそれを常時不思議そうに眺めていた。

 いくつか言葉を交わした後、やはりこういう展開になるのか――という程ありきたりな状況、すなわち、御礼に村に泊まっていってくれということになり、夜叉のことを考え、藍は一、二もなく承知した。

 この間までは泊めてもらうことを体全体で拒絶していたのに、またもや、今までと正反対の行動を取っている藍を見て、昴は、

「一体全体どうなっているんだ?」

 と、一人でぶつぶつと呟いていたが、説明するのも面倒なので、ほうっておいた。考えてみると、彼の扱いに藍も随分慣れてきたものである。

 乃依と徨来を藍の馬に、鈴を昴の馬に乗せ、馬の持ち主二人は徒歩で馬を引きながら、すぐそこにあるという村まで行くことにした。

「本当に申し訳ありません……。二人を助けていただいたうえに、こんな――」

「私どもは慣れていますゆえ、お気になさらず」

 巫女である藍に対して、女人や家臣が使っていた言葉を思い出しながら、藍は丁寧に言う。

「何か不自由がありましたら、申し付けください」

「まあ!とんでもありません!不自由など……たかが村巫女ごときに、ここまでして下さるなんて、喬殿は気前が良すぎます」

 男装時の偽名である喬の名を、なんの疑いもなく呼ぶ乃依。藍は思わず苦笑する。しかし、それを照れだと見て取ったのか、乃依はおもしろそうに藍を見遣って、続いて抱き抱えている徨来ともう一方――すなわち、昴の馬に乗っている鈴を見た。

「それにしてもあなたたち、どうして村を出たりしたの?」

 藍も乃依の言葉に同感した。何故こんなにも幼い二人が、村から遠く離れた草村に転がっていたのか。藍達が見つけられたから良かったものの、もし二人に気付くことができなければ、誰かに連れ去られ、そのままどこかに売り飛ばされてしまうということだってありえるのだ。この世にはそういう輩はいくらでも存在する。

「鈴が徨来を連れていったの?」

「はい。徨来と一緒にお花摘もうとして……」

「花?」

「はい。乃依様にあげるお花です」

 おずおずと答えた鈴は、少し不安そうに乃依を見上げる。

「あの……いけないことだった……?」

 鈴の言葉に、乃依はその瞳をじっと見て、仕方な無さそうに笑む。

「そんなことないわ。私を驚かせようと思って黙っていたのでしょう?」

「……うん」

「それなら私は怒ることは出来ません。けれどね鈴、あなたや徨来はまだ小さいの。何も言わないでどこかに行ってしまったら、皆心配するわ」

「はい」

「次からは大人に付き添ってもらうこと。その足の怪我だって痛くないはずないのだから。懲りたでしょう?」

「うん……」

「なら、次からはそうならないようにね」

 はぁい、と元気良く返事した鈴。

 二人の会話を黙って聞いていた藍は、自分の引く馬に乗っている乃依を、ぼんやりと見上げた。

 ――やっぱり母上に似ている……。

 物静かで、けれどしっかりしていて優しくて。周りにいる人間までをも穏やかにさせてしまうような雰囲気。なんとなく口調もかぶっているし、乃依は巫女。そして瀬那も藍がその役目を継ぐまでは巫女だった。

 ふと、視線に気付いたのか、乃依は藍を見下ろした。

「どうかしましたか?」

 と、柔らかく笑んで見つめてくれるのが嬉しくて、藍も無意識のうちに笑顔を返そうとした。だが――。  突如として脳裏を過ぎったのは――暗い部屋。切り刻まれた体。乱れた髪。そして朱い――。

「!」

 急に力が抜けて、藍は地面に膝をつけた。そのまま倒れることだけはかろうじて堪えたが、両手をついたため四つん這いの状態で、体の震えを必死に抑えようとする。

「喬!?」

「喬殿!」

 二人の驚いたような声と、地面を蹴る音が耳に入った。藍の視界に広がるのは、尖った石や砂のある地面だけだから、彼等の表情を窺い知ることは出来ない。

「かはっ……」

 胃が焼けるように痛かった。右手でその部分の袍を握りしめるが、何も変わらない。変わらないどころか、息は荒くなるし、冷や汗も流れてくる。

 ――莫迦……こんな時に……。

 はぁはぁ、と息切れに近い状態で呼吸しながら、藍は自分自身に言い聞かせる。

 ――この人は母じゃない……。

「おいっ!喬!」

 聞き慣れた声の主は、藍の肩を掴み、強く揺すった。

「大丈夫かっ!?どこか――」

 この震えるをなんとかしようと、藍は唇を強く噛み、拳をにぎりしめ、体に力を入れた。

「なんでもない……ちょっと――」

 肩にある昴の手を掴み、無理やり自分から離して、藍は下を向いたまま呟く。

「思い出して……」

 こんな情けない様子を見せたくなかったし、心配されるのも釈だったから、今更ながらだったがなんでもない風を装うため、藍は顔をあげ、昴を真正面から見据えた。

「すまない……なんでもないから」

「なんでもないはずあるか!急いで村に――」

「やめろ!」

 ギッと睨み付けると、昴は無表情のまま藍を見た。

 しかし、驚いたことに、怖いと思ったのは藍の方だった。思いもよらぬほど強い疑問の色を含む瞳で昴に貫かれ、体がわずかに温度を失った。昴に対して恐怖心を抱いたのは初めてだったから、自分の心情に酷く戸惑ったが、それも一瞬だけ。力の入らない足を叱咤し、急いで立ち上がって言葉を加える。

「本当になんでもない。余計なことをしないでくれ」

「喬……」

「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました――乃依様」

 未だ冷めぬ強い眼差しを向ける昴を視界から外し、乃依の首から上を極力見ないよう努めながら、藍は静かに言った。

 ――まだ……心の整理がついてないのか……。

 彼女のように、母の面影を持つ者を見ただけで、あの時の場景が浮かぶ。苦しくなる。――怖くなる。

――どうして……。

 以前、昴と出会った村で血を見た時も、藍は我を忘れ、取り乱していた。血まみれで立っていたとはいえ、昴が藍の父母を殺したはずはないのに、彼が血を纏っていたという事実を目の当たりにしただけで、全ては――父母を含め、喬や琴音が死んだのも、碧の国が滅亡したのも、昴のせいだと思い込んだ。

 だから、藍は真偽を確かめようともせず、剣を振るった。あのときの藍にとってしてみれば、昴が村の人々を殺していようがいまいが、本当はどうでもよかったのだ。藍の家族を殺したと思ったから、剣を振るっただけ。今では、その時の自分は過去の記憶に捕われ、受け入れた現実とそれとを重ねて見ていたのだ、と理解している。『克羅藍』という人間が、己の私欲のままに生きる、堕ちた人間だということも。

 精神的外傷――とでも呼べば良いか。

「行きましょう。馬に――」

 乃依を急かしながら、藍は拳を握る。

 ――受け入れたはずなのに……。

 蓋を開き、藍は彼等の死と己の欲のままに生きるということを受け入れた。だから喜瀬村を倒そうと強く思うのだし、出会った人々を駒として使い、捨てながら、こうして白西国に助力を求めようとしている。

 乃依は何も言わず再び馬に跨がり、喬も無言のまま手綱を握った。重い沈黙の中で、のろのろと一行は再び足を踏み出し始めた。

 そしてふと、藍の頭の中に一つの言葉が浮かんだ。もしかしたら自分はこうではないのか。掠める程度に突拍子もなく現れた言葉だったから、一瞬自分でも意味が分からなかった。

 ――違う……。

 慌ててその言葉を否定するが、一度現れた言葉はしつこく――雨のようにまとわりつく。

 ――そんなはずない。私は……。

 急に、隣を歩いていた昴が足を止めた。それに気付くのに遅れた藍は、彼よりも数歩先に進んでしまい、振り向く形で昴を見る羽目になった。

「見えた」

「え?」

「村だ」

 言われて彼の視線の先を追えば、なるほど、道の果てに小さな三角の藁屋根が見える。そういえば、道を挟んで周りは丈の高い草村だったはずなのに、いつの間にか、稲刈りをすませ茶色く固まった土が剥き出しになっている田が広がっていた。

 ――私は……。

 殺風景な、この視界に広がる景色にも、確かに色はあった。

 今にも泣き出しそうな空の色。

 渇きの悲鳴をあげてひび割れている土の色。

 固い風に揺らされ、折れて死んだ花の色。

 ――弱くない。

 全てが悲哀の色に映る理由は、分かっている。


 やはりというべきか、それとも当然のことと言うべきか。村は巫女大捜索という状態で、半ば危機的混乱に陥っていた。あたりまえだ、と言って賛同しない者はいないだろう。例え村巫女といえど巫女は巫女。神の意思を少なからず読み取る、もしくは神の言葉を聞くその存在は、その立場に信頼を置かれる場合が多い。その巫女が一人、共も付けずに誰にも知られないままふらふらと出歩くということは、村人からしてみれば、緊急事態で「巫女様が掻き消えてしまった」、又は「巫女様は掠われた」、などと勘違いしてしまってもおかしくないのだ。

 帰って来た乃依を見て、村の人々は嬉々として、わらわらと寄って来た。

 口々に、

「乃依様!ご無事でしたか!」

 とか、

「どこにいらっしゃったのですか?心配いたしましたぞ」

 とか、

「ああー、良かった……」

 とか、無事な姿を見て喜んだり、安堵の溜息をついたり、声をかけたりと、反応はそれぞれだったが、乃依を取り囲んだ全員が、満面の笑みを浮かべていた。

「ご心配をおかけしました」

 乃依の開口第一声はそれだった。

「何も言わずにいなくなってごめんなさいね。鈴と徨来の――」

「乃依様あぁぁあぁああぁあああああ!」

 突然、高音の音がその場に響いたかと思うと、人垣の向こうから、何かが突然飛び出して来て、乃依に引っ付いた。その「引っ付いた」のを見た村人の一人が、

「復活してやがる……」

 と呟いたのを藍は聞いた。

「乃依様……巫女さまぁ!一体何処にいらしてたんですかぁ!」

そして一際大きな声をあげたと思ったら、いきなり乃依に縋り、おいおいと泣き出した。

弥生月やなづきは……弥生月は心配で心配で……」

 彼女――藍より二、三年上かという年齢であろう女は、乃依と同じく裳を着用していた。彼女はそこで言葉を切ってしまったが、代わりにまた別の村人が、

「心配のあまりさっきまで、泡吹いてぶっ倒れてたんだぜ。いくら頬叩いてもピクリともしなかったのに、乃依様の声聞いた途端黄泉から帰ってきやがった」

 と、隣の村人に話しているのが聞こえた。

「あら、そんなに時間をかけたつもりはなかったのだけれど……」

 慣れた様子の乃依は、女を見下ろしてたんと言った。しかし、乃依に縋ったままの女は乃依が見下ろしていることに気がつかない。

「少し風に当たってくると言ったきり乃依様は消えてしまい……弥生月は乃依様がとんでもない目にあわれたのかといてもたってもいられなくて……」

「ごめんなさいね。心配かけて」

「はい……はい!本当に心配したんですっ!まだ見習中の弥生月は一人では何も出来ないし、乃依様程のお力がないと、村の方達も心細いでしょうから、こうしていつもおそばに付いて片時も離れず、乃依様から少しでも多くのことを学ぼうと日々努力しております。この弥生月……乃依様を尊敬しておりますと同時に憧れているのでございます。ですから今回のように短時間でもお姿を消されてしまいますと、弥生月は不安で不安でもう乃依――」

「皆さん紹介するわね。喬殿と昴殿よ」

「って無視ですか!?」

 のほほん、と笑って藍と昴を紹介する乃依の後ろで、延々との言葉を並べていたその女は、ひどいっ!と言って打ちひしがれている。

 旅に慣れているはずの昴でさえ、この異例な出迎えには呆然としていた。藍に至っては口までポカンと開けていたから、間抜け面としか言いようがなかっただろう。

「鈴と徨来を助けといただいたうえ、私どもをここまで送ってくださったのです。感謝の意を示したく、こうして村に呼んだので、皆様もどうかよろしくお願いいたします」

 藍と昴、二人揃って明らかに頼りない間抜け面をしているにも関わらず、乃依の言葉に反対する者は一人としていなかった。そこにいた村人全員が返事一つで承知し、念のためか、乃依に怪我がないことを確認してから、自分達の仕事に戻って行った。

 その場に残ったのは、乃依と、乃依にピッタリと張り付いた女と、鈴、徨来、昴、藍、いくらかのやじ馬、そして一人の老人のみだった。その老人は乃依に一度頭を下げ、藍と昴に向き直った。

「わしはこの村の村長むらおさです。どうぞお二方はうちに泊まって下さい。乃依様や徨来を助けていただいたのですからな。ささ、こちらに――」

 にこにこと人の良い笑みを浮かべて、村長は言った。

 二人は顔を見合わせたが、山脈を越え、白西国に入って一度も村や街で休みを取っていなかったので、すぐに、

「それじゃあ……」

 と言って、二人とも馬を引いて老人の方へ歩み寄った。静かに悲鳴をあげる体には、藍の屈強な意思も一段下りざるをえない。

 二人の背中に向かって、乃依が、

「また後ほど正式な御礼をさせてください」

 と声をかけてきた。

「尊敬されているのですね」

 弥生月を宥めてから徨来を抱き上げ、鈴の手を取り反対方向へと歩いて行く乃依を振り返りながら、昴がポツリと言った。その言葉に、藍も心の内で同調する。弥生月とかいう少女は例外として置いておいても、村人の彼女への信頼と尊敬は、初めてこの村に来た藍でも分かるぐらい強い。元来、巫女というのは信用されるのが当たり前だが、ここまで村人を率いることが出来る程となれば、忠誠を誓われていると言っても過言じゃないだろう。

「あぁ、乃依様ですかな?」

 その言葉を聞いた村長は、嬉しそうにというよりは自慢げに、ふぉっふぉっふぉと笑った。曲がっていた腰が少し伸びたように見えたのも、多分気のせいじゃないだろう。

「彼女はこの辺り一帯の神々に祈りを捧げておるのじゃ。白西国の東ではちょいと有名なんじゃよ」

「高貴な方なのですか?」

「高貴も高貴。本来ならわしらみたいな下の者なんかとは、話すことも許されん」

「仁多の血を持つとか?」

「そういう類ではないのう」

 昴が間違いの言葉を言う度、老人の腰はむくむくと地面に垂直になっていった。

「白西国の王族関係ではないのか……」

 う~ん――と、考え込んでいる昴だったが、藍も藍でまた考えていた。

 ――高貴な人なんだ……。

 正直、誰とも彼女の話をしたくなかったし、顔も見たくなかった。あの優しい空気に包まれれば、自分と母と重ねて見てしまう。彼女は母に似ているが、母ではない。それだけで、彼女が嫌なものに思えてくる。

「あの方の先祖は天竜てんりゅうなんじゃよ」

 頭に浮かぶ彼女の残像を消そうと一人苛立ちをむんむんと募らせていた藍だったが、右耳から入って左耳に抜けようとしていた村長の言葉が妙に引っ掛かり、無意識に顔をあげた。

「なんですって?」

 これでもかという程顔をしかめている自分がいることを認識していたから、その姿を興味本意で想像してみたが、ありえないくらいの醜女だったのでやめた。

「天竜……」

 隣で昴が呆然として、復唱していた。村長を穴の開くほど見つめている。

「天……っ!?」

 驚きのあまり、後半は声にならなかった。

 昴が穴の開くほど村長を見ているように、藍もなぜか昴を凝視していた。

「天竜って……あの天竜ですよね?」

 金縛りにあっているかのように、身動き一つしない藍には目もくれず、昴は村長に詰め寄った。

「なんじゃ。お前さん、知っておるのか」

 途端、地面に垂直だった村長の腰の角度が、カクンッと下がった。そのまま村長は、今度は期待を込めた目で藍を見た。相変わらずぼけーっと昴を見ていたが、その視線を感じて、ゆっくりと彼を見ると、すかさず、

「ほんっとうに天竜の血を引いてるのですか?あの伝説の?」

 と聞いた。

 ついに村長の腰は曲がり、地面と平行になった。

「お前さんもか……」

 村長は残念そうに呟き、ややあって、

「そうじゃよ」

 と、寂しそうに呟いた。

 天竜――。その昔、まだ善と悪になる前の二人の神に道案内をしたとされる、伝説上の男神だ。二つの神が道に迷っていたところを助け、同時に彼等に教えを説いたと言われている。天竜の言葉を悟った二人の神は、己の行く先を捜し当てた。だが結果として、二人の神は善と悪、相違する立場にそれぞれ進んでしまう。

 それが藍が知っている天竜に纏わる伝説だ。この世界の始まりを語るにはかかせない、善の神と悪の神の伝説の中でも、この天竜の話は最も良く知られている。

「お前さんたち……博識なんじゃのぅ……」

 沈みきっている村長だったが、藍はもちろんのこと、昴でさえも彼を気遣う余裕はなかった。村長はおそらく天竜と善悪両神に纏わる話を、延々と聞かせたかったのだろう。だが、村巫女である乃依に隠された秘密の方が、藍には重要すぎた。

 ――天竜だって?

 冗談だろう、と心の中で呟くが、そんなことでは、驚愕と同時に生まれた衝撃のわだかまりは拭えはしなかった。藍にとって、「天竜」などという言葉は、古文書の中に住むものでしかない。善の神とか、悪の神などもそうだ。第一、神などというものは、とうの昔にこの世界から姿を消している。

 天神と地祇が争い、結果として両方とも生を失い、地祇が生み出した夜叉と善悪と化した二人の神、そして無数の人間が、世界に取り残されたのだ。残った神は二人だけ。克羅の祖先の善の神と、柳瀬の祖先の悪の神だけだ。

「……失礼ですが、証拠はあるのですか?」

 藍は隣に立つ昴を驚いて見た。今までの昴からは考えられないような真剣な表情と冷たく尖った声が、空気に交じって消える。握りしめた拳が、神経質にピクリと動いたのを藍は見た。

「ああ。もちろんじゃとも」

 しかし村長は嬉々として、昴が纏う空気が変わったのにも気付かず、再び腰をぐいっとあげた。

「仁多の王にその存在を認められておられる。それに乃依様の先見が外れたことは、ないに等しいのじゃよ」

 なんせわしは彼女が生まれた時から見守って来たからの、と、もはや垂直どころか、背中を反らせて豪快に笑って言う老人を、昴は半眼で見ていた。

「……喬。具合は?」

「え?は、はい。大丈夫です」

 見たことのない昴を立ちすくんで見ていた藍だったが、突然言葉の矛先を自分に向けられ、反射的に返事を返し――途端本当に具合が悪くなった。

 ――なんで返事なんかしてるんだ私……。

 いわゆる条件反射とかいうやつだ。突然誰かに呼ばれると、悪いことをしているのがばれたような気になってしまい、思わず答える。克羅邸で、よく琴音に唐突に名前を呼ばれ、驚きあわてふためいていたのと同じだ。

 見るからにがっくりと肩を藍は落とし、うなだれていただろうしかし、昴は大して興味がないようだった。彼にとってしてみれば、今の藍は恰好のからかいの餌であろうに。藍にかけられた言葉も、間を繋ぐための音に過ぎなかったのかもしれない。現に声をかけてきた本人は、眉根に皺を寄せ、顎をさすりながら、あらぬ方向を見ている。

 ――いや、そんなことより……。

 藍は昴から視線を離し、地面を見た。もちろん、目には映っていない。思いもよらぬ言葉を聞いたものだ。天竜とは。まさか自分の先祖であると言われる善の神に関わった者の子孫と会えるとは、偶然という言葉では片付けられない気がする。偶然と必然の違いは紙一重だと、誰かが言っていたような気がするけれど、これはどう受け取ればいいのだろう?

 天竜の血を引く者――乃依の姿が再び頭に浮かんで、藍は顔をしかめた。

 藍の母瀬那は、善と悪の二つの神が復活したから紅南国は戦をしかけている、と言っていた。その二つの神を殺すか奪うかしようとしている――と。もしかしたら、天竜の血を引く乃依は、それに関する事柄を知っているかもしれない。彼女のことだ。知っているならば、藍の要求に応え、喜瀬村を倒すための有力な情報を、教えてくれるだろう。

 しかし、そんな淡い期待とは裏腹に、彼女に再び会わなくてはならないという小さな畏怖が、藍の心の半分以上を占めていた。おそらく――もう二度と彼女を直視することは出来ないだろう。すれば母の最期の姿が感化されて浮かんでくるのだから。母の最期が浮かべば琴音の最期も、琴音の最期が浮かべば、際には見ていない喬の最期も想像出来るし、同じ様に、父も、人々も、都も、そして、碧の国の最期でさえも、容易に思い浮かべることができるのだ。

 ――そして卑怯で卑屈な自分の姿も……。

 全てに対しての悲しみと恐怖と怒りが混ざり合って、そのごちゃまぜの感情を何と呼ぶべきなのかさえ、分からなくなる。

 だから、乃依には会えない。


 村長の家に着き、彼の孫だろうか、少年が慣れた手つきで嬉しそうに、藍と昴の握っていた手綱を握った。村長曰く、その少年が、馬に餌と水を与え、手入れもしてくれるのだという。上の空で藍は手綱を少年に渡し、今晩泊まる部屋に案内してくれる村長の袍の背中の染みだけを見つめて、布靴と鞋を脱ぎ、春ならば満開であろう桜のある庭の縁側を通って、奥に入り――と、民家にしては大きなその家の奥の方まで来て、ようやく、

「ごゆっくりおくつろぎください」

 と、声をかけられた。藍も昴も頭だけさげて、荷物を降ろした。無言でいたのを、村長は疲れているとでも思ったのだろう。

「夕食はこちらにお持ちしましょう」

 とだけ言って、そのままもと来た廊下を戻って行った。角を曲がり、染みが見えなくなるまで藍は背中を眺め続けていた。

 ――疲れた。

 人から離れたことで、ドッと疲労が押し寄せて来た。

 昨日の夜までは、まだ山の中で冷たく痛い風を身に受けながらも、薪の炎が意外に温かかったりして、それが嬉しかったりもした。あまり人と関わりを持ちたくなかったから、昴しかいない分精神的には楽だったし、全く人に会わない日々はいろいろと勉強になった。だからこそ、今日は本当に疲れた。ようやく白西国に入れたと思ったら、夜叉の気配、迷子の子供、大切だった人と瓜二つの人との遭遇、そして天竜の子孫ときたものだ。

「あーあ」

 バッタリと背中から倒れて、藍は部屋のど真ん中で大の字になって天井を見つめた。頭に巻き付けた布が緩くなり、落ちてきそうだったが、気にはならなかった。どうせこの場には昴しかいない。長い髪が露になっても困る事はない。

「お前、天竜を知っているのか」

 相変わらず天井を見つめ続けていたのだが、昴が部屋の角で、背中を壁に預け、腕を組んで床を見つめていることを知っていたので、藍は声をかけた。

「ちょっと……な」

 水面に波を起たせないような、静かな物言いで昴は答えた。

「聞いたことがあるだけだ。善と悪の神と関わりがあったと」

「天竜は神だったんだよな?」

「男のな。善悪の二人が、神になる前の話だったと思う。確か天竜は道を説いて――」

 藍は上半身の体を起こした。

「それで?」

「二つは道を悟ったけど、それからしばらくして、二人が出した結論が異なっていることに気がついたんだ。天竜は」

「……へぇ」

「で、自分のせいで結局は天神も地祇も消えてしまったことを悔やんだ天竜は善の神に仕え、世界が元に戻るべく力を尽くしたらしい」

「そうなんだ……」

藍は再び体の力を抜いて、床に寝転んだ。心なしか先程より天井が古くなったように見えた。

――なんでこいつがそんなことを知っているんだ?

彼は自分の失態に気付かず、今も考えに耽っている。藍は首を傾けて昴を見た。真剣な、赤に近い茶色の双眸は、この部屋のものを見ていなかった。どこか遠くの――何かの記憶を探っているような、そんな様子。

 白西国の生まれだ、と昴は言っていた。それを聞いて、どこか地方の豪族の息子か何かかと勝手に藍は思い込んでいたけれど、そんなものでは片付けられないほど、彼の知識は藍に劣らぬ程豊富だし、馬も御せる。一頭ポンと買えてしまう程の銭も持っている。――初めて出会った時、刃を交えたが、藍が女であることにさえ気を取られなければ、互角か、それ以上かの強さで、藍の方がやられていただろう。

 これでも藍はそれなりの教育を受けているのに、それに匹敵するほどの能力を昴は携えている。

 ――白西国か……。

 四大国――いや、今ではもう三大国と呼ぶべきなのだろうか。三大国で最期に完成した国が、西の白虎を崇める白西国だ。完成してから三百年余りしか経ってない。だが、その治世力と、高い技術を駆使して創られた陶器や織物などの産物は、他の国々でもよく使われている。国が出来てから短い期時間しか経っていないため、肥えた大地は営めない。故に、この技術力の高さは、白西国を救い、今も国の大事な産業となっているのだ。

 国を治めるのは王。姓は仁多にた。数年前まで、仁多尋命にたひつより が国を治めていたが、昨年、王妃の死と共に、その位を息子に譲った。今では王院として、現在の王である仁多莢生にたさやきの補佐をしているという。

「……」

 ゴロンと、藍は昴に背を向けて横になった。

 ――白西国は助けてくれるだろうか……。

 藍の唯一の頼みの綱がそれだけなために、自分の存在を否定されたらどうしよう、という不安は、白西国に助けを求めると決めたときから、常に存在している。

 いつの間にかうとうとと瞼がまどろんできて、視界を除々に狭めていた。それに抵抗する気が起きない辺り、自分の体はよっぽど疲れているのだろう。

 ――本当に……助けて……。

 視界全体が暗闇で染まったと同時に、藍は規則正しい呼吸を始めていた。

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