第10話 対峙

静かで情緒ある雰囲気を持っていた早朝は、突如として混乱の渦に巻き込まれた。まだ幼い子供を連れた母親があげた悲鳴は、緑北国に向かっていた全員を、夢の中から現実に引き戻した。

 藍も驚いて声のした方に顔を向け、そして剣をつかみ取る。不穏な空気が辺りを覆っているのに気がついた。

 ――これは……。

 感じたことのある気配だ。ついこの間――藍にとっては、千年も前の出来事のように思えるが――大きな群れの気配を藍は感じている。ドクドクと、異常な速さで血が廻っているような気がした。心臓は早鐘をうち、喉元の辺りがじんじんする。ピクリと指先が神経質に動いたのがまるで合図だったかのように、藍は駆け出した。

 ――こんなに早く遭遇することになろうとは……。

 夜叉の気配だった。

 どうしてこんなに近付かれるまで気付かなかったのだろうかという疑問が、ふと浮かんだが、それよりも、初めて見ることになるであろうそれに、興味を抱いている自分の方が気になった。

 夜叉だ、人妖だ、という悲鳴と叫び声が、美しい光を生んでいる太陽の元で往来している。ただの自然の摂理だというのに、人を莫迦にしているように藍の目には映った。

 ――残酷だな……。

 藍は柄に手をのばし、鞘から太刀を抜き取る。

 ――たくさんの人が殺されてから、日もそんなに経っていないというのに。

 茶色い物体が目に入った。女の人に爪を向けて、刺してやろうかというその状況。決心はついた。藍は紅南国の王の命を頂く。そのために、夜叉で試し斬りをしておくというのも悪くないだろう。

 躊躇うことなく、藍は腕を延ばして、人妖の首元を狙って、ふわりと流し斬った。聞いたことのない音が耳に入る。

 ――重い……。

 初めて生きているものを斬った時の感覚が、それだった。怖いとも、恐ろしいとも思わない自分はすごい――と、単純に誉めてやれる。返り血を浴びることを予測して、目をつむった。

 そして。

「!?」

 いきなりの出来事に、藍は驚いて飛びすさった。斬ったはずの夜叉の身体が、傷跡からボロボロと崩れてゆくのだ。決心を固めたはずの藍も、あまりに不可思議な現象に唖然とする。

「こいつら……」

 夜叉は血を流さないのだろうか。そう考えて、一人で勝手に納得した。悪の塊と言ってもいい物の怪だ。死んでいるも同じ。生命の象徴とも言える血を、体内に持っていないのも当然と言ってしまえばそれまでかもしれない。

「……」

 体中を恐怖と憎悪が駆け巡った。そんな体だというのに、人より素早く動けることが怖かったし、そんな存在でしかないのに人を狩って生きているというのが疎ましかった。人間がこの世で一番偉いとは思っていない。だからといって、むざむざやられるのを傍観しているつもりもなかった。

 返り血を浴びないなら、服が汚れなくていい――と、藍の調子は、先程よりも良くなっていた。――悪くなったとも言える。

 襲われそうになっていた女には目もくれず、藍は次の獲物に手をかける。気分が高揚して、何がどうなっているのかよく分からなかった。心に強くある感情は、『殺されてやるものか』という、莫迦みたいな矜持。今一緒にいる者達の為などではなく、自分の為に、藍は夜叉を斬っていた。剣術の腕は、国一番の使い手に教えてもらっていただけあってかなり長けているから、こちらが危なくなるという心配もない。殺されるかも――などという恐怖もなかったし、むしろあったのは、奇妙な高揚感。そんな自分に初めて会ったような気がした。

 一、二、三と、倒れてはボロボロと崩れてゆく人妖の数は増えてゆく。

 七体目を斬って、ようやく藍は動きを止めた。

「なんだ……」

 ――もういないのか。

 辺りを見渡して見えたのは、恐怖の表情で藍を見ている村の人々だけだった。人の血が流れていないのと、夜叉がいないのを確認して、藍は初めて剣を見た。随分と綺麗な剣だった。

 月華は、碧の国が出来た当初からあると聞いているが、全く錆びていない。鞘を取った姿を今まで見たことはなかったし、どうせ刃こぼれしているのだろう、と勝手に決め付けていたものだから、これにはかなり驚いた。

 少し小振りなそれは、吸い付くように藍の掌中に収まっている。以前、市で自分の為の剣を探していたことを思い出して、苦笑した。

 ――こんなに近くにあったんじゃないか……。

 何もわざわざ市に赴くことはなかったのだ。巫女の仕事を行っていたあの宮で、毎日見ていたこれが、こんなに扱いやすいものだったとは。

「運の良い……」

 ポツリと呟いて、汚れ一つ傷一つつかなかった剣を鞘に収める。カチンッという音が耳に頼もしかった。

 そして今更ながらに、誰も怪我する事なく無事だったということに気が付く。自棄になっていたような部分もあったし、八つ当たりのような気がする場面もあったが、今の状況は、悪いものと取るには不具合だった。藍は大きく息をついて、振り返った。もう大丈夫だ。言おうとして、その言葉を飲み込む。恐怖に打ちのめされた顔が並んでいた。それが夜叉に対するものではなく、自分に対するものであることはすぐに分かり、藍の顔から表情が消えた。

 ――そうか……。

 なんだか妙に納得出来て、藍は彼等を見つめる。

 ――怖いのか。

 躊躇なく刃を振るった藍が。

 藍はゆっくりと彼等の側に歩み寄った。先頭には阿古、傍らに阿斗が隠れるようにして、頭だけ出してこちらを見ている。その有様が、阿呆らしくて仕方なかった。

 ――死んでいたかもしれないのに。

 藍のおかげとまでは言わない。けれど、藍がいなければ、少なくともあの女性は怪我をしていただろうというのに。

 藍は足を止めた。

 実際に間にある彼等との距離と、藍との心の距離はきっと変わらない。昨日までは一歩も離れていなかったはずなのに、藍が夜叉を斬っただけで、溝が出来てしまうなんて。

 ――生温い。

 今まで彼等と共にいて、『暖かい』などと思っていた自分だから、口に出しては言えないけれど、暖かいとはすなわち、生温いのいうことで、それは腑抜けていて甘ったれた場所だということ。こんな場所に藍は合わない。藍は決めたのだ。殺すと。だったら――。

「すまなかった」

 態度が自然と冷たくなってしまうが、相手もただ黙っているだけで同じだから気にしない。

「世話になった」

 言うと、阿古が何かを呟いた。しかし、藍の耳にはボソボソという雑音にしかならず、だからと言って、聞き返すつもりもない。

 踵を返し、藍は走り去ろうと、足を踏み出す。

「待て!」

 今度はしっかりした声だった。足を止め、藍は振り向く。阿古は藍の方に一歩踏み出していたが、それ以上近寄りたくないらしい。足の裏が根づいたように、寸分たりとも動かなかった。

「藍……何で……」

 ――何で?

 ――そんなことを聞くのか。

 ――私を恐れておいて?

 冷たく笑えば更に恐れられるのを分かっていてなお、藍は唇の端だけ角度を上にする。気分が悪く、口の中がすっぱかった。

「まだ、言ってないことがあった」

「……」

 答えがないことに、別に期待はしてない。

「克羅の姫、克羅藍って、私のことだよ」

 今度は返答させなかった。正確には、返答を待たずに走り出したのだが。

 何が正しくて、何が正しくなのだろう。誰が偉くて、誰が愚かなのだろう。どうして生きている人がいて、どうして死んでゆく人がいるのだろう。

 分かれば楽になれると思った。


       ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


 小さい。

 真っ先に思い浮かんだ言葉はそれだった。分装服を着ているのを見て、昴は目の前に立つのが少年だと思ったのだが、色が白く、身体の線が細い。

 ――女……じゃないか。

 確認の為胸元に目をやるが、それで女でないことが分かった。随分華奢な――でも生きている者がいたのか、と、ぼんやりと見つめて、昴は駆け寄る。

 だが、それも数歩で終わった。

 向こうから伝わる空気が冷たい。雨のせいでないことはすぐに分かった。突き刺さるような圧迫感――。

「お前が――!」

 瞳に怒りをあらわにし、少年は腰元に手をやる。いきなり浴びせられた怒声に、昴は驚いて凝視した。

 ――何だこいつ……。

 小柄なその少年は、目に怒りの色を滲ませている。頭には布を巻き、体に合わない大きめの袍を着て、その袖口を捲くり上げているその様子が、ただでさえ小さな体を、ますます小さく見せていた。

 しかし、回りに漂う覇気が尋常ではない。鋭く、下手をすれば完全に呑まれてしまうであろう空気。その中に、殺気が交じっていることが分かって、昴はますますわけがわからなくなった。

 タンッ――と、少年は軽やかに地を踏んだ。

 その優雅さに、一瞬気を抜いたが、すぐに体に緊張が走った。――少年は攻撃するつもりでいる。わけのわからぬまま攻撃を食らうつもりは、毛頭なかったのだが、小鹿を思わせるようなその様子が、昴を油断させていた。

 一歩出遅れたのだ。

 その瞬間を逃さなかったのが、その『小鹿』だった。

 抜刀した剣と、それを躊躇せず向けてくる少年は、驚愕以外の何ものでもなく。

「なにをっ――」

 思わず声に出すが、体が勝手に動いた。さすがに慣れている。見事な半弧を描いて空を切った刃先を、反射的に避け、後方へ下がった。

 それでようやく全ての事態を把握する。この態度を見る限り、昴が村を襲ったのだと誤解しているのだろう。助けてはいないからなんとも言えないが、昴にとってはかなり不本意だし、自己中心的な考えだと思った。

 思わず溜息をつこうとした矢先、雨音に交じって、少年が何か呟いた。

「お前が……」

 バシャッ――っと、少年が水溜まりへ足を一歩踏み出す。

「お前がこの村を……父と母を……」

 バシャッ――っと、昴が一歩下がった音が耳に入る。

 再び動き出した少年は、右腕を昴に向かって突き出してきたが、なんとか紙一重でかわした。型が良い――と、こんな時であるにもかかわらず、昴は少年の振るう剣の流れを見ながら思う。

 ――長けているな……。

 かなりの強者と見ていいだろう。無駄な動きがない。全ての動きが繋がっていて、それが水の流れを思わせた。だが、冷静でないから、相手の――つまり昴のことだが――動きをよめていない。それに対応した動きが出来ていない。

「待つんだ!お前は――」

「うるさい!」

 声をかけてみるが、こう返されては、こちらも対応するのが難しい。しかも下手に腕がいいから、事態を収拾するのに時間がかかりそうだ。昴が落ち着いて考えているうちにも、少年は剣を振るってくる。確実に昴の額をねらって振り下ろされてくる太刀に、昴は仕方なく自分の剣をもって防いだ。

「お前……この村の者か……?」

 一瞬火花を散らし、鋭い音が響く。受け止めた剣から腕に、衝撃が伝わった。

「……」

 昴の問いに、少年は答えず、驚いたように昴との間に距離を置いた。互いに黙ったまま、相手の目を見て様子を探る。

 ――ん……?

 ふと、昴は少年の様子がおかしいことに気がついた。目が朧で、ゆらゆらと揺れているのだ。集中出来ていない――いや、下手をすると、景色が霞んで見えているはずだ。焦点が合っていないような――。

「おい……」

 大丈夫か――と言おうとして、昴は一歩踏み出した。ビュッと、耳元で風を切る音が響いた。ギリギリで避けた刃が、右目だけに映る。

「……わざと外したのか」

「ただの脅しだ」

 その言葉に、昴も神妙に太刀を構えた。

 ――これじゃ話にならない……。

 適当に剣を叩き落として、無理矢理事の次第を言い聞かすしか方法はないようだ。

「来い……」

 小さく一人呟いて、昴は相手を睨み付ける。昴と少年の実力はほぼ互角だろう。しかし、昴の方が手慣れているだろうから、勝敗の確率で言えば、こちらの方が高い。互いに睨み合っていたが、同時に動き始め、そして刃を交え始めた。鋼同士がぶつかる音と、それと同じくして飛び散る火花。緊張した空気がしばらく辺りを覆い、しばらくしてから、どちらからともなく間を置いた。少年の息が上がっているのが見てとれる。

 ――こいつ……。

 やっぱり変だ。ふらついている足元と、霞んでいるであろう、焦点の合っていない瞳。

 ――何かの病か。

「……やりにくいな」

 声に出してから、仕方なく昴は少年の手元を払うことを決めた。これだけの腕を持つ者相手には危険だが、彼の具合の悪そうな様子を見ると、少し困ってしまう。サッと近寄ると、相手は反応する――が、遅い。

 ――やった。

 思った瞬間、昴の視界に笑った姿が映った。いきなりのことに、昴の伸ばした手が止まる。そうすることを分かっていたのか、少年は頭に巻いていた布を、サッと解いた。

 ふわりと――流れるような漆黒の線。

 絹のような滑らかな光沢を持つそれが、少年の髪だと気付くのには、昴にとっては長すぎる時間を要した。同時に、少女だったのか――という疑問と、そんなはず――という思いが交差して、混乱する。

「女っ!?」

 思わず声をあげると、少年――いや、少女は、にっこり笑って、昴の懐に飛び込んでくる。

「!」

 驚いて剣を構えようとするが、飛び込んできた少女と目が合う。珠のような肌、黒真珠のような綺麗な瞳、薄く形の良い唇。あとで思い返すと、この時の昴はとんでもなく間抜けな面をしていた――と、かなり途方にくれることになるのだが、もちろん、今の当人はそんなこと知る由もない。

「だったらどうする」

 という透った声色で言う言葉を聞いたその時には、背は地に、剣は遠くに、そして首元には鋭い鋼が突き付けられていた。灰色の空を背景に、自分を負かした人物の表情が見える。その時になって初めて、その笑みが、ただの冷笑であることに気が付いた。

「莫迦なやつ」

 襟元を左手で押さえ付けられ、身動きがとれない。なのに、自分の頬に当たる少女の髪の方が気になった。

「女だと分かった途端気を抜くとは。男というのは随分と甘い生き物だ。な?」

「……」

「返す言葉もないか」

 違う。何も言わないのは、目の前にいる少女が気になるからだ。やはりどこかおかしい。息が荒いし、心臓が脈打つ音が、昴の耳にまで入ってくる。しかも、大きくて早い。近くで見ると分かるが、顔全体がほんのり赤かった。

 チラリと彼女が持っている剣に目をやると、やはり――と、思わず唸る。震えているのだ。これで少女の手元がくるったら、昴は一環の終わりだ。

 ――冗談じゃない……。

 慌てて昴は身体に力を入れるが、少女は敏感にそれを察知した。襟元にある手の力を強め、剣の刃を首筋にピタリと当てる。――冷たい。

「動くな」

言う少女の声は鋭かった。

――どうしたものかこの状況……。

鳩尾に拳でも食らわせてやろうかと考えてみるが、女に――まして明らかに体調が悪いと分かっている者を殴るなど、さすがにそれは男としてやってはいけないことのような気がする。甘い生き物――と言った少女の言葉は的を射ているのかもしれない。

「動けば斬る」

「……動かなくても斬りそうな勢いだが?」

「そうかもしれないな」

 莫迦にしたように、少女は鼻で笑った。だが、すぐに表情を引き締め、昴をギッと睨み付けた。

「こいつがやった」

 少女が少女自身に言い聞かせているような口振りだった。

「……村の人を殺した」

 否定することを忘れて、昴は少女の頬に伝う雨の雫を追った。

「こいつが!」

 頭上に振り上げられた剣。それを見て初めて、昴は本気で慌てた。

 ――殺され……。

 瞬間、チリッと頬が痛んで、胸に重いものが乗ったのを昴は感じだ。思っていたような衝撃が来なくて、一瞬ほうけた後、バッと体を起こした。昴に体を預けるようにして目を閉じている少女。少し警戒しながらも頬をペシペシと叩いて見るが、反応はない。

 ――気絶した?

 痛みが走った頬に手をやると、案の定、切れていた。さっきまで少女が昴に向けていた剣が地面に突き刺さっているのを見て、振り上げた瞬間に意識が飛んだのであろうことが分かった。

「……嘘だろ?」

 下手すれば、剣は昴の顔面を直撃したかもしれない。振り上げた瞬間意識をなくすなんて、こちらも突っ込みを入れたくなるというもの。

 深く溜息をついて、昴は、自分の腕の中に収まっている少女をぼんやりと見た。先程までの強い覇気は消え去り、今はふんわりとした空気を纏っている。それが少しばかり昴に疑問を抱かせた。どちらが彼女の持つ本当の空気なのだろう。単純に考えたら、気絶している今が自然な状態なのだろうが、先程まで昴に向けられていた殺気は、尋常ではなかった。

 尋常でないと言えば、剣の腕も軒並み外れていた。具合が悪そうだったにも関わらず、紅南国でも名の知れた剣術士を師に持っていた昴と、対等にやり合うとは、ただ者ではない。手加減していたとはいえ、昴が気を抜いた瞬間を突いて地面に叩き付けたのにも、心底驚いた。

 ――さて。

 雨で滑るので、昴は少女を抱え直し、立ち上がる。

 ――どうするか……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る