第9話 記憶の蓋

二日間は粥汁しか飲み込めなかった。

 『粥』ではない。『粥汁』なのだ。

 阿古は食べやすい物をと考え、消化しやすい粥を作ってくれるのだが、藍はその汁を飲み込むので精一杯だった。

 それほどまでに体力を消耗していることに、藍自身かなり驚いたが、何も食べていなかったのだ。当然と言ってしまえばそれまでだろう。

 藍の怪我については、とりあえず彼等の知識で補える最大限のことをしてくれた。例えば、傷口は化膿しないよう汚れを拭き取って――捻挫した場所には水に浸した布をあてて――と、それで藍は、彼等に薬草の知識がないことを知った。

 ――おかしいな……。

 三日目、ようやく粥を食べられるようになった藍は、阿古と阿斗、二人の様子を見つめながら考える。

 ――普通、最低限の薬草の知識は、誰でも持っているはずなんだけど……。

 藍がこんな状態だから、詳しい話は聞けていないが、あの二人の兄弟は、何かが変だ。生活様式もままならないというか、あまり知識がないというか。

 六日目には、足の怪我は治っていないものの、他はすっかり良くなり、藍は久しぶりに床を出た。我ながら、治りが早い。まぁ、元々はピンピンしていた人間だ。元に戻っただけとも言える。

 ただ、心の内については、完全に蓋をしてしまってあった。体調が良くなるにつれて、疲れは取れ、眠りは浅くなり、夢が続いて、あの時の場景がそっくりそのまま夢に現れるからだ。落ち着きは大分取り戻していたので、此処に来た初日のときのように、震えが止まらない――などということはないし、思い出さないよう気をつけるようになってからは、唇を噛んで血を流すこともなくなった。時々、油断した隙に、怒涛のごとく映像がなだれ込んでくることはあるが、それを受け流せるくらいまでにはなっている。

 いや、無視している――と言った方が正しい。

「あ、なんだよお前。もういいのか?」

 入口の向こうから入って来た阿古が、床を出て立ち上がっている藍を見て、少し驚いた声をあげた。

「おかげさまで足以外はすっかり良くなりました」

 藍はにっこり笑い、頭を下げる。

「本当にありがとうございます」

「いや、気にしなくていいさ。それより、どうするんだ?」

「?」

 阿古の言うことがよく分からなくて、藍は首を傾げる。

「どう……とは?」

「起きたってことは何かしたいんだろ?どうする?なんか食うか?それとも表に出たいか?」

 ああ、そういうことか――と、納得して、藍は阿古を見上げる。

「湯浴みをさせていただきたいのですが……近場に良い場所はありますか?」

 女の自分が男に向かって堂々言う台詞でないことは分かっていたので、自然、苦笑が浮かぶ。

 案の定、阿古も少し困ったように藍から視線を反らした。そして、しばらくたってからようやく、ポンッと拳で掌を叩いた。

「だったら向かいのおばさんに頼もう。この家じゃあさすがに男ばっかりだから、藍もやりにくいだろう」

 藍は頷かず、笑って肯定する。

「そうと決まれば頼んでくる。なに、気前の良い人だから大丈夫さ。なんとかなる」

「阿古さん!」

 部屋を出て行こうとする阿古を、藍は急いで呼び止めた。呼ばれて阿古は振り返る。藍はその表情を見て少し戸惑った。何故か仏張面なのだ。呼び止めたのがまずかっただろうか――と、キョトンとする藍を見て、阿古は溜息をつく。

「お前、俺のこと『さん』付けで呼んでたっけ?」

「は?」

「改まったりなんかして……」

 ぶつぶつと文句を言い始めた阿古をしばらく見て、藍は納得した。つまり、阿古はもっと藍に懐かれてほしいわけだ。そういえば、床の中にいる間、藍は夢と混同して彼に甘えていたような気がする。藍からしてみれば、もうそんな必要はないのだが、 阿古からしてみれば、何でいきなり他人行儀――といったところだろう。

 ――あまり気にすることでもないだろうな……。

 一人その問題を心の内で解決させて、藍は言いたかったことを言う。

「いらない服ってありますか?」

「服?」

「はい。この服……ボロボロなので……」

「あるけど、分装服しかない。一衣服ならそのおばさんが貸してくれ――」

「分装服がいいんです。いらないのがあるなら頂きます。それと――」

 藍は表情を改める。強い眼差しを受けて、阿古は驚いていた。自分の覇気に圧倒されているのが手に取るようにわかった。

「聞きたいことがあるんです。湯浴みがすんだらお時間を頂きたいのですが」

「……藍?」

 答えなかったが、あえてそれを無視し、藍は笑む。

 呆然としている阿古を尻目に、藍はその場を去った。


 『向かいのおばさん』は気丈な人だった。

「何まぁ阿古のやつ!こんなべっぴんさんを隠しておくだなんて人が悪いわねぇ!」

 藍を見て大喜びし――子供がいないかららしい――藍が湯浴みをするのをせわしなく手伝っていた。立場上、誰かの世話を受けながら、着替えたり、禊をしたりするのには慣れているが、さすがに、

「肌白いじゃない!」

 とか、

「すべすべね~」

 とか言われると、恥ずかしくなるのは当たり前で。着替えの服でも、分装か一衣かで一悶着あったし、全てが終わった時には藍は心底疲れていた。髪を整えるというおばさんの言葉を断り、渋々彼女が了解したのを見て取ると、藍は急いで阿古達のいる家に戻った。

 その時になってようやく、藍は村の様子が少しおかしいことに気が付いた。

 人の気配が少ないのだ。

 大きな村なのに、奇妙なほど静まり返っている。その不気味な静けさを漂わせる村をぼんやりと立ち尽くして見ていた藍は、袖をぐいっと引かれて振り返った。

「猫さん?」

 聞き慣れた高い声が少し低い位置から聞こえて、藍は振り返る。

「やっぱり猫さんだ。綺麗になったから分からなかったよ」

 にこにこと笑いながら見上げてくる阿斗。そんなに泥だらけだったのだろうかと思いつつも、藍もつられてふんわりと笑った。膝を折って、視線を合わせてみる。

「阿斗はどうして私のことを猫と呼ぶんだ?」

「んっとねー、兄ちゃんがお姉ちゃんつれてきたとき、小猫拾ってきたぞって言ったから!」

 確かに言われてみれば、藍は阿古に拾われた――いや、助けてもらった時、「小猫みたいだな」というようなことを言っていたような気がする。疲れきっていた藍は、それを否定しなかったけれど。逆に言えば、だからこそ阿斗に「猫だ」と言ったのだろう。

 ――おもしろい人。

 阿古の顔を思い浮かべながら藍は思った。

「……もしかしてお姉ちゃんの名前は猫じゃないの?そーいえば……兄ちゃん、『あい』とか言ってたかもしれない……」

 うーん――と、小さな眉をへの字に曲げて唸り始めた阿斗は、とても可愛かった。彼の頭に、ぽんっと手をおき、藍は言う。

「これからも猫さんって呼んでくれる?」

 それを聞くなり、阿斗の唇がにっこりと横に伸びる。ついでに目も細くなる。

「うん!」

 それから、にこにこ状態の阿斗と藍、二人は家に戻った。

 阿古は既に座って待っていた。藍は曖昧に笑んで、彼の向かい側に座る。

「……服、ありがとうございます」

 しばらく沈黙が続いて、先に口を開いたのは藍だった。阿斗はなぜか藍の横に座り、お行儀よくしている。どうやら懐かれてしまったらしい。

「その服ね、兄ちゃんのなんだよ」

 事もなげにいうその姿がほほえましい。

「阿備兄ちゃんのなんだ。阿古兄ちゃんと僕との真ん中の兄ちゃん。この間、『こーなんこく』との『いくさ』に巻き込まれて、父ちゃんと母ちゃんと一緒に死んじゃったけど」

 しかし、言葉の内容は、驚くべき事実だった。藍は目を見開いて阿斗を見る。

――兄ちゃんって……阿古のことじゃない……?

阿備兄ちゃん、と阿斗は言った。その人が亡くなっていると――。阿斗はこんなに簡単に口にしているが、意味が分かっているのだろうか。悲しいとか、苦しいとか、そういう感情は一切表にだしていない。隠しているわけではないだろう。阿斗は、自分で言った言葉の意味を理解していないのだ。

戸惑いを隠せず、藍は本能的に阿古を見た。分かっていたかのように苦笑を面に浮かべている。人懐こい柔らかい瞳が彼の象徴のようなものなのに、今は何もない。

「すまんな。お前に合う服っつったらそれしかなくて……。気持ち悪かったかな?」

「いや……」

 藍は自分の着ていた服を見下ろした。そんなこと、ちっとも思わない。むしろ、藍が思うのは、私にくれてもいいのか――ということだ。言ってしまえば、藍の今着ている服は、阿備という少年の遺品なのだろう。なのに――。

 それを問うと、阿古は、

「いいんだ」

 と、笑って答えた。

「そろそろここを出なくちゃならないから、邪魔な荷物は置いていかなきゃならない。阿備達には悪いが、生きていくために、親父とお袋三人分の服は邪魔だった。それを捨てるんじゃなくお前にやれるんだったら、むしろこっちが礼を言わなきゃな」

「ここを出る?」

「……お袋と親父がいなくなってから、手が回らなくて、もともと古いこの家も一気に痛んだから。捨てなくちゃならないのは嫌だが、先のことを考えると……」

 話の内容が噛み合わっていないような気がした。彼等が薬草の知識がないことや、二人家族としてどこか変だと藍が思ったのは、それらを担っていた家族が消えたからだと予測がつく。しかし、『ここを出る』という言葉の意味がよく分からない。『先のことを考えると』とはどういうことなのだろうか。

「阿古?私よく……」

「……都が滅びたというのは知っているか?」

 ドクン――と、心臓が大きく鳴ったのが分かった。サッと視線をそらし、藍は俯く。自分の表情に緊張が走ったことに、彼は気が付いただろうか――?

「……知っています」

 声の調子が変わらないよう気をつけながら、いかにも――悲しい出来事です。きっとたくさんの人が亡くなったのでしょう――と、悲運に打ちのめされている風を装って、藍は言う。

「だったら分かるだろう?碧の国は滅んだんだ。国長くにおさは戦の先で刺客に、妃と長姫は邸内でそれぞれ殺されたとのこと」

「なんだって!?」

 あまりに衝撃的な言葉を聞き、藍は大声と共に勢いよく立ち上がった。隣で阿斗がひっくり返った。

「長が?……芝韋様が?」

「知らなかったのか?まぁ、この村にその情報が来たのは、七日前だからな……。お前がまだ道に転がっている時の話だから」

 仕方ないだろ、と、阿古が言う言葉も、藍の耳には入らない。

 ――長が……?

 ――父上までもが……?

 ストンと、藍は再び腰を降ろした。

 母が殺されたのは見た。守将の喬も、その最後こそは見ていないものの、あの状況の中、助かったという可能性は――ない。

 あの時の彼の表情。あれは全てを悟っている表情だった。自分が死ぬことを分かっている表情だった――。

 ――みんな死んだ。

 蓋が外れかけている。思い出さないようにしていた場景が、せきをきって脳裏を染めている。

「……む……村をで……るのですか?」

「いや、国を出る」

 震える声を抑え、濡れる瞳を隠し、藍は呟くように言う。「聞きたいこと」は、こちらからではなく、阿古が言ってくれた。藍は父親の情報が欲しかったのだ。その情報は得られたが、それがこの結果――。

「紅南国の兵が来るかもしれないからな。この村は克羅の都から近くもないし、遠くもない。だが、運のいいことに、位置は都の真北だから、俺と阿斗は北上して、緑北国に入るつもりでいる。もう村の半分以上のやつらが出発してるんだ」

 しかし、阿古はそんな藍については何も言わず、今ある状況を淡々と説明している。藍の異変に気付いていないだけかもしれないし、あえて言わないでいてくれるのかもしれない。はてまた、それ以外の理由であるかもしれないが、いずれにせよ、今の藍にとってはありがたいことこの上なかった。

「そんな時、お前を拾った」

 その言葉に、藍は顔をあげる。

「家を捨てるのはまだしも、さすがに人を放っておくわけにはいかないからな」

 にっ、と、悪戯っぽく笑う阿古の瞳には、色が戻っている。

「阿斗がとても寂しがっていたから、お前が現れたのは、気持ち的にありがたかった」

「寂しがってなんかないもん!」

 阿斗が隣でふくれている。そんな阿斗を藍はじっと見てから、今度は阿古に視線を戻した。

「あの……」

「藍」

 言いかけた言葉を遮り、阿古は言う。

「俺達と一緒に来るか?」

「え?」

「紅の軍は都に入っているらしいし、このままここに留まれば、命はないも同然だ」

 藍を見つめる目に、裏はない。

 ――一緒に行く?阿古と阿斗と?

 それは酷く暖かいことのように思えた。

 無くしたものが大きすぎて、藍の心は、冷たく、氷のように冷え切っている。そんな心に、『一緒』という言葉は、心地良い。

「……一緒に?」

「ああ」

「猫さん一緒に来るの!?」

 二人の包み込むような声を聞いて、なぜか胸が締め付けられる。

 もしかしたら、ただの同情かもしれない。

 もしかしたら、阿備という人の代わりなのかもしれない。

 けれど――。

「行かせてください」

 冷たい氷を溶かすには、暖かい太陽の光がいると思う。


 藍が彼等と一緒に行くことが決まったと同時に、その日のうちに出発することが決まった。善は急げということらしい。考えてみれば、紅南国が碧の国を滅ぼしてから丁度十日たつのだ。おちおち村に留まってなどいられない。

 村に残っている人達は、阿古、阿斗、藍を含め、二十三名だと阿古が教えてくれた。そのうち二人はまだ生まれて半年もたたない子供で、六人が六十をすぎる老人らしい。

 今回、この二十三人という大所帯で緑北国に向かうとのことだった。道中、人数は多い方が協力して色々と出来るからだろう。

「だが、俺達はこの村で最後の団体だから、体の弱い残り者が多い。生まれ故郷を捨てたくないと駄々をこねる、叱咤しなければならないようなやつもいる。士気も低いから、いろいろ大変だと思うが、藍も頑張ってくれ」

 と、先程阿古に言われた。この言葉に、藍は大きく頷き、多分自分が転がり込んでこなければもっと早く出発していただろうにな――と、迷惑をかけた分、自分に出来る限りのことをしようと考えていたのである。

 出発は、当日の昼過ぎだった。必要な分だけ荷物を持って、二十三人の群は、ぞろぞろと移動を始めた。藍は、もともと持っていた剣、月華を携え、阿古に任された荷物をしょって、徒歩(かち)で道を進んでいた。傍らには阿古が、少し後ろには、これまた荷物をしょって歩く阿斗がいる。阿古は荷車を引く馬の手綱を引き、なおかつ、藍のしょう荷物より一回りも二回りも大きなものを持っていた。

団体は、二度の休憩を除いて、一日中歩き詰めだった。

老人や、幼子は、馬が引く荷車に乗せてもらったりして、何とか全員無事に一日目を終えることが出来た。

 そして夜、北へと続く道から少しずれた空き場で、団体は家族でまとまって眠りにつく準備を始めた。

 藍は、阿古と共に火を起こし、寝る場所を確保して、食事の準備をしていた。

「阿斗は疲れたのかな?」

 馬に水を与え、荷車から夜具を取ってきた藍は、すでに眠りに入っている阿斗を見て、苦笑いしながら阿古に言った。阿古も、同じように笑って、藍から受け取った夜具をかけてやった。

「なんだかんだ言っても、まだ六歳だからな」

 そのまま隣に腰を降ろす阿古は、目に入れても痛くないという様子で阿斗を見つめ、その頭を撫でている。その二人の姿が、なぜか胸に響いて、父上や母上も私の頭をあんな風に撫でてくれたのだろうか――と、考えてみたりした。

 思ったら、虚無な感覚だけが残った。

「それより藍、お前の方こそ大丈夫か?」

「何が?」

「足だよ。治っていないんだろう?」

「ああ……うん」

 藍の怪我は大分癒えて、ほとんどが治っているが、足だけはまだだった。

 阿古に言わせると、「多分骨は折れてない」らしいので、藍は布で適当に固定して、痛みをあまり感じないよう意識を背けていた。

「見せてみな」

 言うので、藍は布靴を取り払う。

 助けてもらった当日は、目も当てられないほど色が悪く腫れていたが、今はそうでもない。まだ腫れはひいていないが、肌の色を取り戻している。

「うーん。良くなっているが……歩く時痛いだろう?」

「少し……ね」

「無理はするなよ?」

 本当に心配そうに気遣ってくれるのが嬉しかった。

 翌日も、そのまた翌日も、炎天日の中、一行はただひたすらに歩き続けた。日がたつにつれて、老人や子供達の体力が持たなくなり、自然、足並みが遅くなってくる。一日に進む距離は除々に短くなり、休憩時間は多く長くなり――と、体力的にも気持ち的にも、二十三人は揃っていない。

 苦しそうなその表情を見ていると、刺されたように、藍の胸は痛む。

 ――国が滅んだから……。

 こんな目に合っているのは、どう考えても自分達のせいだ。藍を含む、父、母、そして四将。もっと早く事態に気付いていれば、この人達は足の裏にまめを作ってまで歩かなくても良かったはず。それに、国から逃げ出そうとしてしるのはこの者達だけではない。きっと、万単位の人々が緑北国目指して移動しているのだろう。

 そんな苦労をかけさせて、何が長だろう、姫だろう、将だろう。自分達がもっとしっかりしていれば、と今更ながらに後悔の念が浮かぶ。

 ――でも。

 藍は思う。

『自分達』と言っても、結局は藍一人の問題でしかない。藍だけが生き残ってしまった。だから責められるべきは自分で、責任を負うのも自分。

 ――どうしたらいいのだろう……。

 芝韋は年長だったから、藍が国を継がなければならない日も近かった。故に、国のまつりごとや、国々との関係、文化、地名などの必要最低限は頭に叩き込まれている。しかし、国が滅びた場合のことなど教えられたこともなかったし、考えたことがない。教える方も、そんなところまで用意周到というわけにはいかなかったのだろう。予測すらしていなかったのかもしれないし、何より、今になっても藍自身に碧が滅びたとい実感があまりない。『国』という大きなものよりも、『家族』や『親しい者』という身近な存在の方が胸にのしかかっているのだ。

 ――どうしたらいいのだろう……。

 返答がない問いを、藍は再び心の中で呟いた。

 なんとなく分かる。こういう時、藍は仇を討たなくてはならないのだ。そして国を再び起こし、克羅の政権を取り戻す。道に反しているのは明らかに紅南国だから、それこそが仁。

 酷く異質なことに思えた。

 父の仇、母の仇、邸の、都の、国の仇。言葉で言うのは簡単だろう。けれどそれを実際に行うのとでは、違いが大きすぎるのではないか。仇をとるということはすなわち戦を引き起こすということで――それは殺し合いを始めるということだ。例え藍だけでなく、それを碧の国の人々が望んでいたとしても――躊躇してしまう。自分から戦を起こして相手を殺す――ということと、戦に巻き込まれ殺される――ということ。どちらの方がいいのだろうか。やはり、仇を取る事を渋っている自分がおかしいのだろうか――。

 歩き続けた十日間、藍は自問自答を繰り返し続けた。

 朝早く橙色の旭光を浴びて、日の高い昼は汗だくなり、夜は月がてっぺんに出るまで考える。が、答えは見つけられなかった。

 十一日目の朝になっても、それは変わらず、またもやあの時の悪夢にうなされて目が覚めた。

 ――またか……。

 嫌な汗が纏わり付いている。いまいましく、額を拭った。もう慣れた日常だ。夜、あの時の場景を考えながら眠り、夢に見て、気分が悪くなって誰よりも先に目が覚める。震えることなどもうない。泣きそうになっていたことも、遠い昔の記憶のような気がする。

「私はおかしいのだろうか……」

 ついには声にまで出してみるが、何も変わらなかった。

 父のことも、母のことも大好きだった。喬だって琴音だって――国の人々のことだって好きだった。もちろん、全員を全員好いていたわけではない。殴り合いの喧嘩をするほど仲の悪いやつもいたし、二度と口を聞きたくないやつだっていたけれど、それでも、『消えろ』と思ったことは一度もない。その者達を消した――命じたのは多分紅南国の王だろう――やつらに対する『憎しみ』が、藍の中に沸いて来ない。

 藍は、すぐ横で寝ている阿斗を起こさないよう立ち上がった。生温い風が髪をもてあそんで、くすぐったい。少し伸びをして、藍は剣を持ってその場を離れた。剣は一時も手元から離さないで置いている。月華だけが藍が克羅の都から持ってくることができた物であると同時に、自分の存在と過去の出来事が本当にあったという証拠となるものでもあるからだ。

 時々、あれは夢じゃなかったのかと、記憶が混沌としているときに、これは役にたってくれる。

「我らを守りし青き竜――」

 一日に一度は音にしていたそれを、藍は無意識のうちに呟いていた。

「古より伝わりし剣と共に、碧き月の国を守りたもう」

 風が頬を撫でる。微かな香りが鼻につく。

「北に在りしは淡麗なる八重の木々、深き緑に覆われし大地は麗しを表す」

 仇である紅南国の者を憎まなければならない。怨まなければならない。――そうしたい。

「南に在りしは赤き陽の光、熱く強き刃は守護信念の要」

 なぜ出来ないのだろうか?

「東に在りしは清き水の流れ、青の光を放ちし月を称し、輝くは運命なり」

 だって怖いから。

「西に在りしは智恵の矢、色なき空を裂きて行くは白き尊い教えなり」

 どうして怖いんだ?

「それぞれ立ち、力集う時、四神の名のもと、剣の名のもと、闘わんことここに誓う――」

 人殺しの汚名を着たくないから――。

「……」

 無意識に浮かんだ自分自身の言葉に、藍は口を止め茫然自失した。

「汚名を着たくない……?」

 気付いて愕然とする。その言葉の意味と、自分の意図。それが『汚名を着たくない』という言葉。

「なんて……」

 身勝手――。そうとしか言いようがない。

 人殺しになりたくない、血を纏いたくない、自分を守りたいから、藍は何もしたくないのだろうか。愛しい者達を殺されたのに、『憎しみ』や『怨み』といった感情が湧いてこないのだろうか――。

「……卑怯者」

 逃げている。怖がっている。そして藍は父達を――国を裏切っている。

 冗談じゃないと思った。

 一人生き残っておいて、国を捨てて逃げようとしておいて、身分を隠して阿古達の優しさに甘えて――それだけでも一国の姫として許されぬというのに、心まで腑抜けになっている。そんな卑怯な行動を誰よりも嫌っていたのは、外ならぬ藍自身ではなかったか。

「目を覚ませ……」

 頭をかかえて、藍はうずくまった。

 卑怯なままでいいのか。

 逃げていいのか。

 大切な者を裏切っていいのか。

「目を覚ますんだ……」

 蓋を、思い出した。

 思い出したくない記憶に、藍は蓋をした。考えてみると、この蓋こそが、藍を堕落させていたのではないかと思う。蓋をしてからというもの、藍は阿古らに暖かさを求めていたような気がする。

 そんな資格、ありはしないのに。

「……」

藍は深く息をした。周りの音が消え、目の前に映像が浮かぶ。燃える都、崩れ落ちる宮に、喬の肩から流れる色、そして――血まみれの床に横たわる母と琴音の姿。今まで何度も夢の中で見た光景だった。思い出にしたくないのに見てしまう夢。けれど、今現在藍自身の中に浮かんでいる光景は、現実のものだった。夢を見ているのではない。現実を受け入れているのだ。それも故意的に。

「っ!」

 突然視界が揺れ、藍は地面に手をついて吐瀉した。

 混乱の中であの姿を見た時は、ただ怖かっただけで、事態が中々理解できなかった。

 けれど、夢ではない、受け入れた記憶は現実で。藍の身体はそれを強烈に拒んだ。

「……ちくしょうっ!」

 荒い呼吸の合間をぬって、藍は毒づく。掻いた地面の土が爪に入った。

 ――そうだ……。

 しまっておいた現実。それを受け入れようとすると、身体が拒絶する。

 ――憎みたいという思いを湧かせないようにしていただけだ。

 汚されたくないという思いは、多分藍の本音だろう。しかしまた、受け入れる事を吐いてしまうほど身体が拒むのもまた事実。

 ――憎くないわけがない。

 家族を殺されているのだ。

 ――怨まずにいられるものか。

 藍自身でもある国を奪われたのだから。

「……嘉瀬村を討てば――」

 仇討あだうちという名の元、碧の国を滅ぼした紅南国の王を討てば、救われる者も多いかもしれない。

「……違う」

 東の空が赤く染まり始める。

「仇討ちなんて……そんな綺麗な言葉で片付けられるようなものじゃない」

 生温い腑抜けた感情は吐瀉したと同時に身体の外へ吐き出してしまったのだろう。生まれ変わったような気分だった。良い意味でか悪い意味でか分からないけれど、今までのように、どうしたら良いのか――などというくだらない疑問は浮かばない。そう、自分に言い聞かせる。

「これは不倶戴天の……私の呪だ」

 藍は術者じゃないから、呪いのかけかたなど知らないが、この強い気持ちはそれに勝るとも劣らないはず。

 太陽の半分が顔を出している。皆が起きるまで、そう時間はかからないだろう。藍はふわりと笑って、天を仰ぐ。

「殺してやる」

 もう無視したりしない。無理やり閉じ込めたりしない。夢と現実とを混同して、違えてしまったりしない。藍は弱くない。頭の中にあるのこの現実を、夢のままで終わらせたりするつもりは微塵もない。

「私は生き残った」

 だからここにいる。

「善の神の血を引く力を知るといい」

 言葉に魂が宿っているようだった。

――成さなくちゃならないんだ。

「碧の宝として」

 音にした瞬間、風が唸り、日は明るさを増して登ってくる。長かった自分の影が、速い速度で縮んでゆく。

 そして――。

 近くで悲鳴があがった。

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