第8話 虚無
消えてしまいたかった。
生きたかったと言ったら嘘になるし、死にたかったと言ったら、それは違うと思う。藍はただいなくなりたかったのだ。始めからこの世に存在しなければよかった、そう思う。そして――そう願う。
馬は一晩中走り続けた。その疲労と怪我の為か、走り方は酷く、雑で、乗馬している藍の疲労もまた大きかった。暗闇の中で、どこを走っているのかも検討がつかなかったが、どうでもよかった。燃え続ける都の炎は段々と小さくなっていったし、物音は雨に紛れて聞こえなくなっていった――その現実が、藍を現実から引き離していた。
馬は走って走って走り続け、もうすぐ夜明けが来るのではないか――と、頭の隅でそう考えていたとき、藍は唐突に宙に投げ飛ばされた。馬の温かさが太腿から消え――寒いことしか分からない。
幼い頃、空を自由に飛び回る鳥を見て、自分もああなりたいと思い、廊から飛び降りたことがあった。もちろん、そんなことが出来るはずもなく、頭を打ち付けて怪我をし、父親に叱られ、喬に笑われ、琴音に心配され――と、藍の中では大事(おおごと)だったのだが、大人にとっては笑い話だったらしい。大きくなってからも藍はよくからかわれたし、姫の可愛いらしい一面ということで、将達にも知られていた。
そのことが一瞬頭に浮かんで、なぜか笑みがこぼれた。
地面にぶつかり、そのまま、ザザザッという音をたてて滑った。頬に痛みが走り、口の中で血の味がして、足腰が麻痺したように動かない。
――痛い……。
景色が歪んでいた。それが雨のせいじゃないと気付くまでに、そう時間はかからなかった。
藍はその場から動くことも出来ずに、ただ呆然としていた。馬は暫くしてからどこかへ消えたし、動いても何をしたらいいのか、分からなかった。死ぬかもしれないという考えは何度も頭を掠めたが、そのつど、だからなんだ、と自身が答えている。
死を恐れていた自分が懐かしい。
悲しみと怒りを感じていた自分が懐かしい。
思うままに動いていた自分が懐かしい。
誰かの死にいたっては、思い出すほどに時間が経っていないためか、頭に浮かぶこともなかった。諦めの意思は固まり、死を覚悟することも、自分で計り知ることの出来ない程の絶望の中ではたやすかった。
だが、その絶望が心身的な苦しみへと形を変えていくのに、そう時間はかからなかった。二日間身動き一つせずその場にいた。口にしたのは雨水のみ。服も泥の中に浸かりっぱなしで、冷たい。そして何よりも、経験したことのない空腹が、藍を襲っていた。
三日目の朝になって、藍ははじめて体を起こした。正直、横たわったままの体勢が辛かったというのもあるし、空腹の限界が近付いていたというのもあった。
雨は消え、雲の隙間から光の筋が差し込んでいるのを見遣って、藍は笑んだ。景色が美しすぎて、腹がたった。
「……」
自分の体に繋がっているのを疑うほど固まっている足に、無理やり力を入れて、藍は立ち上がって一歩進み、そのままぐにゃりと倒れる。本当に硬直していた。湿って、体に纏わり付く衣よりも、泥で絡まった髪よりも、それが一番うっとおしい。
剣を――落馬した際にも握りしめていたのかと、今更ながら気が付いて藍は驚いた――杖がわりにして、 もう一度、時間をかけて立ち上がる。足の代わりに丸太がついているようで、その上に自分が乗っているような気分だった。
右肩が痛い。足にも感覚がない。骨が折れているのか、それともただの捻挫か。それすら分からないくらい全身ガタガタだった。
「……っつ」
一歩右足を踏み出し、体重をかけた途端、突き刺さるような感覚が藍を襲った。踵から膝にかけてが熱い。炎の中にほうり込まれたようなものでも、たぎる湯につけられたようなものでもない。足自体が炎で、湯で、熱さの根元だった。
「……ここは何処なんだ」
結局、歩くのは諦めた。
冷たい地面に転がって、雲がまだ残る空を見上げながら、藍は呟いた。大きく息を吸うと、雨上がりの冷たい空気が体内に入り込んでくるのが分かる。これが食べ物であればいいものを、と、考えてもどうしようもないことを藍は思った。
――どうなるんだろう。
三日間此処にいて、誰も通らなかった。山の中にいるわけでも、野原の真ん中にいるわけでもなく、ちゃんと道の真ん中にいるのだから、一人ぐらい通ってもいいだろうと思う。
「……紅南国の兵が来るよりましか」
声に出すのは、自分が生きているかどうか確かめる為。思ったことに偽りはなかったが、まだ声が出せる程の体力があることを実感すると、飛び上がりたいほど嬉しく、自分を殴りたいほど頭にきた。生きているのも、死ぬのも嫌だった。
暁がすぎ、昼餉が来ようかという熱い日差しの中、未だ動かず横になっていた藍の耳に、ふと音が入ってきた。テクテクというなんでもないはずの音なのに、なぜか耳に大きく入る。間隔はずれることなく、その音は除々に大きくなって唐突に止まった、と思ったら、タッタッタッと、今度は駆けるような音に変わった。
「おい」
閉じていた目を藍は開いた。誰かが自分を覗き込んでいる。
「……生きてるか?」
しかし、太陽の影になってその顔色はよく伺えない。
「生きてるな?」
「……うん」
声を聞き、この人物が男であることを頭の隅に書き置く。説明する気は起きなかったから、藍は黙っていた。男は少し首を傾げて、
「どれぐらい此処にいる?」
と聞いた。
「……三日」
「三日!?」
じゃあその間何も食ってないのか、という言葉に、雨水があった、と簡潔に答えると、聞いた男は呆れたのか、溜息をついた。そして、なぜかしゃがみこんで、藍に背中を見せる。
「何?」
「おぶされ」
「……」
「早くしろよ。村まで連れてってやるから」
――村。
その言葉を聞いて、藍は初めて近場に村があることを知った。
――だったら無理してでも行けば良かった……。
思ったがしかし、今の自分では出来なかったに違いない。半分鬱状態な人間が、体中に走る痛みを抑えて動くなど、そんなことが出来る可能性は皆無に近い。もしこの男が来なくて、ずっと道端に放りっぱなしなっていたら、極限の空腹で動こうという意思が働いたかもしれないが、その頃にはきっと体がついてこなかっただろう。――幸運だった。
「……ったくしょうがないな」
黙り込んでいた藍を見かねてか、男は藍の背中と地面との間に手を入れて、ゆっくりと状態を起こした。まるで藍のことを、小動物か何かのように、そっと扱う。
「痛かったら言えよ」
と呟いて、今度は藍の目の前に出てくる。そしてそのまま、ひょいっといとも簡単に藍を背中におぶった。 三日間地面に張り付いていた自分の体が、急に離れ、しかもどこにも接点がなくなったためか、少し頭がふらふらした。慌てて目の前にあった服をぎゅっと掴むと、男は満足そうに、
「そうそう。そうやって捕まっていろ」
と笑んだ。
「待って。剣が……」
「お前のか?」
男は不思議そうに月華の剣を拾い上げた。
「うん」
この剣は目立つ。後で柄に布でも巻いておこうと思った。
「分かった。持って行ってやるから、そんなに慌てるな」
別に藍には慌てているつもりはなく、むしろ人肌の温もりを感じながらぼんやりと言っただけなのに、どうやらこの男は藍が言葉を発するだけで嬉しいらしい。
背負われているから顔は見ることが出来ないが、それは言葉に交じる雰囲気で分かった。
「お前、名前は?」
剣を取り、彼がもとから持っていた荷物を持って、男は歩きはじめた。ゆらゆらと揺れる心地良い背中を嬉しく感じていた藍は、その質問にすぐに答えた。
「藍」
「あい?藍色の藍か?」
「そうだけど……」
言って藍は気が付いた。
こんなに簡単に自分の名前を言ってしまっていいのだろうか。こういう場合――相手が何者か分からぬ場合は、偽名を使うのが普通ではないか。一応自分は、一人落ち延びた国の姫で、その身一つに大きな意味があるのだから。
この人が助けてくれる、と、無意識のうちに考えていたことに藍は気付き、半分閉じていた瞼を開いた。
――まずかっただろうか……?
藍は深窓の姫君というわけではないから、都のどこにでもいきなり現れていたし、
「藍か……いい名前だな」
しかし、男は気付いていない。呑気そのものの様子で笑い、
「俺の名前は
と、頼んでもいないのに自己紹介をした。安心して、藍はその背中に頬を寄せた。怪我の傷が痛かったが、それを庇うように、人の温かさが伝わってくる。
「阿古」
呟くと、阿古は立ち止まった。藍の様子を見る為、首をねじっている。きらきらした人懐こい瞳と自分の瞳とが合って、藍はにわかに微笑んだ。頬が痛くてあまり動かせなかったが、それでも、阿古には伝わったらしい。
「小猫みたいだな。お前」
そう呟くと、再び歩を踏み出す。
――なにが小猫だ。
言おうとしたが、はたして声になったかどうか。
ゆらゆらと揺れる背中が気持ち良くて、それからのことは、あまり覚えていない。
ふと意識が覚醒したのを感じて、藍はもぞもぞと動いた。体には布の感触。
――寝てたんだ……。
疲れが溜まっているのだろう。まだ眠い。再び眠りつこうと、布を口元まで持って行くが、そこで疑問が生じた。
――どこに寝てるんだ?
ぼんやりとしている頭を回転させて、藍は答えを見出だそうとする。
――そうだ……馬に吹っ飛ばされて地面に……。
しかし、だったらなぜ藍は布を掛けられているのだろう。それに、明らかに背中にある感触は土ではない――。
状況が理解出来ず、急に恐ろしくなった藍は、バチッと目を開いた。目に入ったのは、藍を覗き込んでいる誰かだった。くりくりの瞳で瞬き一つせず見ているので、ぎょっとして跳び起きた。
「いっ……」
それと同時に、体に痛みが走り、藍は呻く。
「あっ、動いちゃだめだよ」
少し高い声色で言うのはその大きな瞳を持つ少年だった。歳は見た目、六、七歳といったところだろう。上の前歯が抜けているのも気にせず、藍を見て嬉しそうに笑うのが、かわいかった。
「猫さん目が覚めたんだね!良かった!」
――猫さん?
わけがわからず、その少年をポカンと見ていると、何を勘違いしたのか、ああ!と一人何かを納得し、水瓶で水を湯飲みに注ぐと、すぐに戻って来た。
「喉が乾いたんでしょう?はい。何か食べたい?」
藍に湯飲みを押し付け、瞳をじっとみるその姿が、ころころと小犬が駆け回る仕種を思わせる。
「……名は?」
「なわ?うーん……縄は食べ物じゃないと思うんだけどなぁ。あ、でもほしいなら持ってきてあげる!」
「ちがうちがう!」
慌てて藍は、すでにどこかに向かおうとしている少年を呼び留めた。『縄』と『名は』を間違えるとは、おっちょこちょいなのか、鈍臭いだけなのか。普段なら笑ってしまうだろうがしかし、今は笑えるような、そんな気分ではない。身体じゅうがガクガクだし、全く見知らぬ所にいるのだ。警戒心もわくというもの。
「君の名前は?」
先程は鋭い言い方だったから、今度は優しい姉を思わせるよう朗らかに――藍なりにはだが――言うと、キョトンとしていた少年は、にーっこり笑った。その時になって、少年の下前歯まで抜けていることに藍は気が付いた。
「
ご丁寧に歳まで教えてくれて――邪気のない、かわいい子だ――と、藍は考える。
もともと藍は、小さい子が好きだし、昔から弟や妹がいる者が羨ましかった。克羅邸で働く者の子供とも、幼い頃よく遊んでいたから、弟妹を持っている兄弟を見ている。藍が――羨ましいなぁ、と言うと、必ず彼等は――藍ちゃんには喬様と琴音ちゃんがいるでしょ!と言い返していた。
――喬と琴音は兄と姉だろ。実際血は繋がってないし……私は弟と妹が……。
思って、藍は凍り付いた。
喬と琴音。
何故二人の名前が軽々しく呟くことが出来るのだろう。心の内でとはいえ、楽観視しすぎではないか。
自身を叱り飛ばしたくなるようなことを、平然と思うなんて。
二人はもういないのだ。
殺されたのだ。
不意に背筋の震えるような悪寒が走った。同時に吐き気が伴う。
――覚えている。
藍は覚えている。あの惨状、悲劇、殺戮。忘れられるわけがない。多分、死ぬまで忘れずにいるだろう。瞼の裏に焼き付いているのは――血と炎と、紅南国の国色である紅い色だけだ。
今の今まで考えずにいられたことが、不思議で仕方なかった。いや、無意識のうちに、あの時のことを考えずにすむよう、自分で制御していたのかもしれない。
水脈を掘り当て、こんこんと湧き出る水のように、藍の記憶もざくざくと掘り出されてくる。
ガシャンッ――。
持っていた湯飲みが手から滑り落ちて、派手な音をたてて割れた。
「お姉ちゃん……?」
ガタガタと、自分で自分を抱きしめて震え出した藍を見て、阿斗は半ば悲鳴に近い声をあげた。
「……お、お兄ちゃん呼んでくる!」
賢い子供だな、と、意識の外で妙に納得してしまう。自分で対処しようとしないところが偉い。手に負えないことを理解したのか、それともおっちょこちょいな上に弱虫なのかは分からないけれど。傍にいれば、混乱した自分は、太刀に手をかけかねないのだから、かなり賢明な判断と言って良いだろう。
「……嫌だ」
駄々をこねる幼子のように、藍は呟いた。
――思い出したくない。
――こんな記憶消えてしまえ。
小さくなり、心の中で呟く。
――忘れろ……消えろ……。
「藍!」
戸口から誰かが入って来て、藍の両肩をすごい力で掴み、ガタガタと揺すった。藍が怪我人だということも忘れているらしい。
両肩を含めた身体全部が痛くて、藍の集中する先は、頭の中にある映像から目の前に見える映像へと変わる。
「……阿古?」
「大丈夫か?」
記憶に新しい、人懐こい瞳を見て、藍は呟いた。先程は笑みで細くなっていたその目は、今は心配と驚きのため、大きく開かれている。自分のせいなのに、笑っている方がこの人に合っていていいと思った。
「阿斗が血相変えて俺の所に来たんだ。猫さんが……って」
――なんで猫?
という疑問がまた浮かんだが、あえて突っ込まなかった。知っている人に――しかも助けられた人に会えて、藍は心底ほっとした。
克羅邸の場景はまだ頭の中を漂っているが、目に見えている阿古がいるという謎の方が今は気になる。
「俺の家……って言っていいのかな。とりあえず、住んではいる」
見上げて見ている藍の視線に気付いた阿古は、言いたいことが分かったのか、笑って言う。その笑顔に安心して、笑うまではいかなかったが、藍の震えも止まった。
「何か食うか?」
「……」
頷きたかったが、出来なかった。既に空腹を通り越して、お腹が痛い。固形物どころか、これではほとんどの食べ物を受け付けないだろう。
「いらない……」
「――と言おうが俺は食わせるからな」
藍が落ち着きを取り戻したのを確認すると、阿古は阿斗に、粥を作るからお前見てろ、と言うと、スタスタと部屋を出て行った。
それではなんのために聞いたのか分からないではないか――という藍の言葉は、行き場をなくし、仕方なく飲み込む。
その場を任された阿斗は、キリリと表情を引き締めて、藍に横になるように言った。上体を起こしているのもいたく辛かったし、嫌がる理由もないので、藍はその言葉に従った。
「寒くない?」
藍が割ってしまった湯飲みを片付けながら言う。
「この家ボロボロだから。夏だけ住むには涼しいから丁度いいんだけど……」
言われて周りを見回すと、阿斗の言う通り、確かに家の壁は黒ずんで、所々に開いている穴が、隙間風を生んでいる。屋根は雨漏りこそしていないものの、かなり危ない状態と言って良いだろう。
「平気」
答えて藍は目を閉じる。
阿斗はそれ以上何も言わず、ただ静かに湯飲みを片付けていた。
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