第7話 家族

苓の話によると、昴がお邪魔していた家は姉夫婦のものらしい。秋英と柳楽の友人同士、二人が畑や村の男達何人かで狩りに行っている間、一人ではつまらないので、苓は夏奈美の家にいつも遊びに行っているのだという。夕食も四人一緒だし、私と柳楽が自宅にいるのは寝るときぐらいよ、と苓は苦笑しながら昴に言った。

 馬を苓に案内してもらった納屋に置き、再び秋英夫婦の家に戻って来て、昴はお昼をご馳走になった。柳楽の取って来た茄子の料理――と言ってもなんのことはない。茄子を炉で焼いただけの焼き茄子を、庶民にとっては一般的な調味料である塩を付けて食べた。――かなりの絶品だった。

「今晩泊まっていけよ」

 それからまたしばらく五人で色々と語った後、唐突に秋英からそう言われた。夏奈美と苓は、昼の後片付けと、既に夕食の準備に取り掛かっている。柳楽は、畑が気になると言って、さっき出て行った。雨宿りさせてもらったお礼に何か手伝いたいと昴が申し立て、じゃぁ鞋を作ってくれ、との夏奈美の言葉通り、わらじを作っていた昴だったが、秋英の言葉に、手を止めて顔をあげた。

「雨も止みそうにない上、この辺は山や森が多いからな。今此処を出れば土砂崩れに巻き込まれかねないしそれに、野宿ばかりの人間には人肌が恋しいだろう」

「……そうですね。人里を見ると、体がそっちの方に向かってしまいます」

 少し照れくさかったが、昴は正直に答えた。秋英は満足そうに笑って、そういえば、と声をあげる。

「食料も調達しなきゃならんのだろう。足りているのか?」

乾飯かれいいが少し――」

「乾飯!?しかも少しって……お前若いのに、そんなのでもつのかよ」

「軽いから楽なんです。それに、今は秋だから、森に入れば木の実がありますし、川に行けば魚を採るんであんまり食には困りません」

 昴が笑って言うと、秋英は、へぇ~っと、尊敬の念を混じらせた声をあげた。

「まぁとにかく、必要な物があったら言ってくれよ。そりゃ珠の首飾りを出せなんて言われちゃぁお手上げだが、お前のお気に入りらしい乾飯ぐらいなら用意出来るぜ」

 にっと笑う秋英を、昴は一度見て、作りかけの鞋に視線を戻した。本当に、なんと親切な人達――いや、苓の言葉を借りるなら、『お人好し』――な人達なのだろうか。普通、今日会ったばかりの人間に、ここまでの親切ぶりを炸裂させるか。泊まっていけ、欲しいものがあれば言え。この調子だと夕食も頂けるのだろう。至れり尽くせり状態だ。

 と、昴はふとあることに気がついた。この、尋ね人受け入れ体勢とでも呼ぶべき状態を修正しようとしないところを見る辺り、実は苓もその『お人好し』の一人なのではないだろうか。口では、あーだこーだ言っているが、昴を追い出す気配すら見せないし、実際、今現在調理場で鼻唄混じりに薪を焼べている。

 ――いい家族だな。

 姉と妹は『おしゃべり』で、二人のそれぞれの夫が『間抜け』だとしても。

「秋英様、これ、頂いてもよろしいですか?」

「あ?」

 昴は藁の束を指差した。先程の苓の話によると、今年は豊作。米は碧の人々におすそわけしたせいで減っているかもしれないが、さすがに藁までは食べれまい。そして案の定――。

「おー。もちろんだ。好きなだけ持ってけ!……でも何に使うんだ?」

「――馬の餌です」

 一つ忘れていた。

 おまけに此処では、尋ね人受け入れ体勢が成立している。

「そうか。じゃあついでに柳楽の様子を見て来てくれねぇか。畑は納屋の向かい側の川の先にあるから」

「分かりました」

 言って昴は藁を腕いっぱいに抱え、外へ出た。途端、どしゃ――っと、まるで滝にあたっているかのような雨が、勢いよく襲ってきた。上から下まで一気に濡れ、これでは、地上で溺れたという摩訶不思議な言葉が成立してしまう。

 ――ありえないな。

 寒くて体が震えた。全く、今日はついてるんだかいないんだか、さっぱり分からない日である。

 ふと、腕に抱えている藁が重くなったことに、昴は気がついた。ハッとして目を向けてみると、薄い黄の色をしているはずの藁が、茶色くなっていた。

「げっ!嘘だろ!?」

 藁まで水につからなくてもいいだろう。しかし、文句をつけて叫んでいる短い間にも、束の奥まで雨は染み込んで、重くなっていくし、腕がだんだんと下がってくる。

「だぁー!くそー!」

 ――雨の時って、絶対ろくなことないんだよ……ったく。

 これ以上重くならぬうちに、と、昴は走り出した。規則正しい雨音の音色の中に、泥に浸かる自分の足音が、なんとも不細工だった。と言っても、その音色自体限りなく雑音に近いのだが、昴が足を踏み出すごとに耳に入る、ベチャッ――という音は、完全なる雑音だった。

馬の置いてある納屋に行って藁を与えてから、昴は秋英に言われた、向かい側にある川のむこうの畑に行こうと、またまた雨の中を走り出した。泥が撥ねる中走り、川に着くなり、昴は思わず溜息混じりに呟いた。

「すごいな……」

 轟々という音を立てて流れている川の水。幅はあまり大きくなくて、どちらかというと、小川と言った方がしっくりくるだろう。しかし、水かさは普段の数倍はあるらしく、岸の草が流れる水にもまれていた。昴は思わず立ち止まり、濁って茶色くなった小川を見つめる。

 ――溢れても村には支障ないと思うが……。

 村にはなくとも、小川の周りにある畑や田には被害が及ぶに違いない。季節が季節なだけに、今現在使われている土地は少ないが、それでも作物があるのは確か。柳楽もそれを心配して見に行ったのだろう。

 昴は、川の水に押されて壊れそうな橋を、恐る恐る渡り、その先にあるという畑まで一気に走った。

 程なくして、雨の霧が白く見える靄の中、屈んでいる人影が見えた。――柳楽に間違いない。

「柳楽様!」

 昴が呼ぶと、その人物は顔をあげてこちらを見た。姿を目に留めて、ややあって笑った。

「どうした?」

「秋英様が様子を見てきてくれと……。戻った方が良いです。川の橋があのままでは壊れます」

「なんだってー?」

 勢いよく流れる川の音とがすごく、大粒の雨音とで、昴と柳楽は近くにいるのに、まるで大きな田の端と端にいるかのような声量で、ほとんど怒鳴り合っていた。

「橋が壊れます!急いで戻りましょう!」

 もう一度昴は繰り返し、橋を指差した。柳楽はその先を見て、何か呟いた。昴には聞こえなかったが、口の動きからすると、たぶん、――本当だ――とでも言ったのだろう。

「分かった。すぐ戻る……と、そうだ、昴。そこの水路を閉めてくれ!それ閉めたら終わりなんだ!」

 言われて、昴は川から引いている水路を見た。

 こちらの場合、川より酷く、すでに濁り切った水がボコボコという音をたてて溢れていた。昴は思わず、

「うわー……」

 と、眉根に皺を寄せて唸った。

 対し、柳楽は、懸命にもう一つの水路を流れる水に手を突っ込み、板をはめ込もうとしている。それも勢いに押されてなかなか上手くいかないようで、何度も何度も繰り返していた。見よう見真似、昴も水路脇に置いてある板を手に取り、しゃがんで、板をはめる場所に突っ込もうと試みるが、なかなか思うように入らない。

 ――なんだよ。

 少しむきになって、昴は力任せに勢いよく板を縦に突っ込んだ。袍の袖が水に浸かって冷たい。――だが、そんな苦労した思いをさせているというのに、板は定位置についてくれない。

「意外と難しいだろー?」

 柳楽が茶化すように遠くで笑った。

「水の流れに逆らわないように、斜めに滑らすようにしてはめ込め」

「斜めですね?」

 言われた通り、昴は板を斜めにしてみる。実際やってみると、勢い任せにやるより、こちらの方が明らかに手早く出来そうだった。冷たい水の中に腕もろとも突っ込み、力をいれたところで――。

「……」

 昴は手を離した。板は流れに呑まれ、すぐに見えなくなる。それも気にならない。

 ――今の音……。

 耳に入るか入らないかという程度の微かな音が聞こえた。雨に交じっている、軽いが重く、弱々しいが力強く、機敏だがゆったりとした――そう、足音。

「おい、昴!板!流れ止めの板!」

「……」

 昴が板を流してしまったのを見たのだろう、柳楽は大声で言った。しかし、昴は無視して立ち上がる。額にピッタリとはりついた前髪を、無意識のうちに掻きあげていた。耳を雨音以外のものに集中させ、足の指爪から髪の毛一本一本に至るまでの動きを止める。

 ――なんだ……?

 心臓が一回り大きくなって鳴っているようだった。物音を聞き分けたいのに、その音が何よりも鮮明に、強烈に耳に入って、気味が悪い。

「昴!」

 強い口調で昴の名前を呼びながら、大股で歩いてくる柳楽。昴の視線は、彼を透かしてその向こうを見ていた。

「何してるんだよ!あの板は、水路の幅ピッタリになるよう作ってあるんだぞ!あれを流しちまったらお前――」

「!――伏せろ!」

 言うより体が先に動いていた。柳楽の元に駆け寄り、頭を手で押さえ付けて地面に伏せさせる。次いで自分も、勢いよく伏せた。泥の中に顔を突っ込み、口の中にもドロドロとした感触が漂った。頭の上で風を切る音がして、昴はその音が離れるのを待ってから、一気に腕に力を入れて立ち上がり、辺りを見回した。

 そして、目に入る。

 ――夜叉だ。

 茶色い体と、長く鋭い爪。皮と骨だけで出来ているかのような四肢。牙は汚れて黄色く、だが先は槍の切っ先ほど尖っていて、それが、人の肉を食いちぎるには適し過ぎている。

 ――犬妖。

 犬の型をしていて、階級的に言えば、人型の次に強い夜叉のことを、その言葉は指す。夜叉の種類がどれだけあるのかという正確な数は、昴も知らない。見たこところ、または聞いたところで言えば、人妖、犬妖、鳥妖、猿妖――といったところが妥当で、どれも姿形は普通の動物と似ている。犬妖は犬。鳥妖は鳥など。

 しかし、そこには違いがある。まずは見た目。動物であったら死んでいるはずであろう細い手足と、尋常ではない力の強さ。どんな夜叉でも、長く鋭い爪を持ち、必ず茶色い体をしている。そして、理由なく人間を襲う――これこそまさに動物と夜叉の決定的な違いだった。

 従って、今目の前にいるそれは、動物ではない。

 昴は袖で顔を拭い、口に入った泥を吐き出した。目の前にいる夜叉は、低い唸り声をあげて、昴を睨み付けている。間合いを取ってはいるが、その距離だって、やつにとっては短すぎて、後ろ脚に少し力を入れて跳ぶだけで、簡単に昴の間近に寄ることが出来るのだ。

 ――探っている……。

 そんな短い距離ならば、すぐにでも飛び掛かってくればいいものを、犬妖はそうしない。威嚇するように牙を見せ付けて、昴の目を真っ直ぐに見ているだけ。

「……動けますか?」

 背後にいる柳楽に、昴は問い掛けた。

 犬妖との視線が合った今、こちらからそれ離すことは不可能だ。外したが最後、この夜叉は昴の喉元を狙って飛び掛かってくる。避けられる自信はないでもないが、柳楽を昴の背後にいさせたままでは、避けた瞬間、彼が犠牲となってしまう。

「柳楽様」

「あ……ああ……」

 柳楽の様子は伺えない。声の感じからして、たぶん落ち着いているのだろう――と、昴にとってはそう願うしかない。ここで混乱されても更に事態を悪くするだけで、何の解決にもならないのだから。

「……俺がこいつをなんとかしますから、柳楽様は村外れに逃げてください」

「村外れだって?」

 犬妖と視線をぶつけた状態のまま、昴はその言葉を肯定する。頬を伝うのが、雨なのか冷や汗なのか、よく分からなかった。

「……犬妖は必ず群れで動きます。村には他の犬妖がいるはず……今向かえば殺されます」

「……」

 昴の言葉に、柳楽は言葉を失っていた。背中から感じる気配が、衝撃と驚愕を表している。

「苓……」

 妻の名前を呟く小さな声が、昴の耳に入った――と同時に、柳楽がバシャバシャという大きな音をたてて、走り出す音が聞こえた。

「柳楽様!駄目です!」

 彼が何をしようとしているのかが分かって、昴は思わず振り返り、彼を止めようとして――そして気が付く。

 ――しまった……!

 再び前を見た瞬間、目に映ったのは宙にある夜叉だった。恐るべき跳躍力で、昴目掛けて飛び掛かってくる。

「くっそ!」

 本能的に自分の腰元に手をのばした。が、どうしたことか。いつも定位置にあるはずの剣の柄が掴めない。なぜ、と思う間もなく、犬妖は昴の胸に頭突きを食らわした。息が出来なくなるほどの衝撃が走り、足元がふらついてよろよろと後退する。

「……っ」

 肋骨が折れた――と思う程の痛み。しかし、犬妖の狙いが運良くずれ、喉元を爪で抉られなかっただけマシというもの。昴は咳き込みながらも、なんとか夜叉の動きを目に収めようと、顔をあげて辺りを見回す。犬妖は次の攻撃体勢をとっていた。低く構えて、昴を睨み付けている。

 ――どこに……。

 武器がない。考えて、昴は先程、秋英夫婦の家にいたときの情景を思い出す。

 ――笑って携えていた剣を見せる昴。

 ――秋英、柳楽、夏奈美、苓の四人は感心したようにそれを見る。

 ――見せてもらって良いか、と聞く柳楽。

 ――そして、手渡しているのは……自分。

「……嘘だろ?」

家に置いてきたままだ。いつもなら手放さない、己の命を守るための道具を、こんなときに忘れてくるなんて、油断もいいところだ。

 ――どうする……。

 このままではこの犬妖を倒すことが出来ない。それはつまり、昴の死を意味している。こんなところで、などと考えているうちにも、犬妖は唸り声を更に大きくしながら、間合いを少しずつ縮めている。

 と、視界の端に、置きっぱなしにされた鍬が目に入った。遠目に見ているからよく分からないが、おそらく木製のもの。半分泥に浸かってはいて、見た目太くて頑丈そうではあった。

 ――あれしかない……。

 再び夜叉は襲い掛かって来た。今度は息の根を止めるつもりなのだろう、牙の向かう先は確実に昴の喉元だった。しかし、昴とて莫迦ではない。二度同じ事をされようとも、引っかかるわけがないし、三年間を一人旅して過ごしてきて、夜叉と遭遇しなかったなんてことがあるわけがなかった。運動神経だって、そこら辺の若い者に比べれば確実に上。それに昴には経験がある。これは何よりも強い自分の武器だ。

 目前に迫る夜叉から逃れる為に、昴はまたもや伏せた。先程まで自分の頭があった辺りで、ガチッと、歯と歯が噛み合わさる音がした。――夜叉が昴をかみ砕こうとして、すかした音だった。昴は、そのまま地面をゴロゴロと転がり、夜叉との間に長めの間合いを取ると、立ち上がって鍬をつかみ取った。泥が全身にまとわりついて重い。左耳に泥が入ったのか、ボウッとした耳障りな音が頭の中で響いている。

 そして。

「……」

 持った瞬間昴は声を失った。鍬は腐りかけてボロボロだったのだ。

 なんという勘違いだろう。朽ちていて、握っただけでみしみしという音をたてる、今にも折れそうな鍬だというのに、いくら遠目とはいえ、それを夜叉が倒せそうなほど頑丈そうな物だと間違えるなんて。しかし、冷静に考えてみると、そんなのは当たり前のことだった。頑丈な鍬を、何故雨の中放っておくのか――もちろん、もう使わないからだ。

 昴は苦笑を通り越して、失笑した。ついでに自信も喪失した。気持ち的にはあった余裕が、今では皆無だった。

 ――本気で……これはまずい……。

 昴に攻撃の意図があることに気がついたのか、夜叉は三度目の攻撃に入った。後がない昴は、唇を噛み締める。

「あー!もう!こうなったら自棄やけだ!来い!」

 こんな状況で、どうしたらこの夜叉を倒すことが出来るのか、昴には分からない。

 ――負けて死ぬかもしれない。

 ――だったら、絶対負けない。

 昴はその鍬を、剣を持つように構え、勢いよく夜叉の頭に鍬を振り下ろした。ドガッ――という鍬がぶつかった音と、バキッ――という鍬の折れる音が、ほぼ同時に耳に入った。夜叉のうめき声が辺りに響き、それを聞いた昴は、今ではただの棒に成り果てた鍬の柄を投げ捨てて、その場から逃げ出す。夜叉にとどめをさすには、心臓を貫くか、胴と頭を切り離すしかない。今この状況で最も賢明な行動は逃げる事。

 後ろを振り返ることもせず、昴は走った。夜叉のうめき声がだんだん遠くなる。この調子なら引き離せる。

 川まで行き、橋を渡って、昴は初めて振り向いた。夜叉は追ってきていない。

「やっぱり俺は、運だけはいいらしい」

思わず呟くがしかし、運の良さに浸っている暇もなかった。まだ村に夜叉がいるはずだ。先程柳楽に言ったように、奴らは群れで行動する。――村が襲われる。

 安心の息つく間もなく、昴は再び走り出した。段々と村に近付くにつれて、大きくなる悲鳴と物音。ガラガラと何かが崩れる音や、何かが裂けるような音。更には唸り声まで昴の耳に入ってくる。

 村に入り、秋英の家に向かいながら、昴は辺りをさっと見回した。既にやられている家は多かった。一つの場所に留まってないところを見ると、夜叉は人間を狩りにきたらしい。その場合、骸は荒らされないが、生存者のいる可能性は薄い。

 ――なんでこんな時に……。

 雨が降っていなければ、風の中に混じる臭いや、辺りの気配で、夜叉が来ることが分かったはずだ。昴は己の身を守るうち、その気配を感じるようになったし、最初こそは慣れなかったものの、今ではほとんど確実に分かるようになった。

 だが今日は雨。風は湿って、気配も雫に紛れて分からない。

「くそっ!」

 声に出して昴は毒づいた。この憤りをどこに持っていけばよいのか。どうしてこんな時に限って――というやるせない思いが昴に纏わり付く。

 が、走り走るうちに、昴の面には自分に対する嘲笑が広がっていった。

 雨が降っていた。だから夜叉の襲撃が分からなかった――そんなのは、ただの屁理屈にすぎない。雨だろうが雪だろうが嵐だろうが、昴が気付くことが出来なかったという事実が真実で、それは昴自身の責任なのだ。憤りを感じる相手は自分で、他の誰でもない。そして、そう思うならその分、夜叉を倒して、少しでも多くの人を助け、命を救うのが筋というものだと思う。

『出来ることはしなければなりません』

 今は亡き母の口癖のような言葉。

『人には必ず出来ることと出来ないことが必ず存在します。あなたが出来ないことは、きっと他の誰かがしてくれます。あなたは、他の誰もが出来ないことをしてあげなさい』

 そしてこの場合――夜叉が村を襲っている時に、自分が出来ることは何か。その答えは、あまりにも単純すぎる。

「斬ればいい」

 夜叉を殺せばいい。

 殺戮の場に相応しい、単純明快な思いが、ふつふつと沸き上がるのを、昴は感じた。


「夏奈美様!?」

 秋英の家の前に来るまでに、一体いくつの亡骸を見ただろう。逃げ出そうとして背中を掻き切られた人もいたし、戦おうとしたのか、槍を持ったまま血を流している人もいた。幼子を抱えたまま息絶えた母親もいたが、その幼子だって、既に息がない。骸だけではなく、夜叉も見た。数は十ないとは思うが、それだって全部を見たわけじゃないから、これからどうすれば良いかという明確な筋道がたてにくい。――つまり、計画性のないまま、今現在昴は動いていることになる。危険なことだとは分かっていた。戦場や闘いの場で最も大切なのは、状況判断で、決して個人的なものではない。そのような余計な感情は、油断を招くだけだから、持っていてはいけないのだ。だが、その『余計な感情』は、悪いことに、何よりも意思が強い。

 昴の場合もまたそうだった。昴が今思う『余計な感情』、それはつまり、『あの四人だけでも助けたい』だった。

 幸せが満ちていたあの家。見返りがないのは分かっているはずなのに、何の頓着もなく昴の為にいろいろとしてくれた。

 本当に嬉しかった。

 旅というものは決して楽なものではなく、常に死と隣り合わせだから、彼等のような温かい者達に出会えると、冷たい闇の中でほのかなともしびに辿り着けたような、そんな気分になる。

「なぜ……」

 しかし、その灯は消えていた。それはすなわち、彼等の死を示していて――。

 横たわるのは夏奈美だった。家の外の軒下に、俯けで動かないでいる。

「……」

 近寄って、既に息がないのが見て取ることが出来た。瞬きも、呼吸もしない。首筋には爪痕と、赤い液体。頬には雨で跳ね返った泥が点々とついていた。それを拭ってやりたかった。彼女の綺麗な頬に、泥は不似合い。先程のような笑顔が一番似合っているというのに、そんなに驚愕した表情をして――。

 ――まだ中にいる……。

 家の中から気配が取れた。物音はないけれど、空気の乱れが、夜叉が家中を物色しているのを感じさせる。

 ――剣はどこにある……?

 柳楽に渡した。彼がそれを脇に置いたのを覚えている。おそらく、昴に気を使って邪魔にならないようにしたのだろうが、それが徒となった。

 ――柳楽は……向かって右側の奥に座っていた。

 ならば剣があるのはそこだ。間違いない。

 スゥーっと息を吸い、昴は戸を横に開くのではなく、肩をぶつけて前に倒した。戸は外れ、派手な音をたてる。その上で、体の流れるまま、転がって上手い具合に立ち上がった。剣と夜叉はすぐに目に入った。距離的には夜叉との方が近い。しかし、突然の奇襲に面食らったのか、犬妖は動かなかった。その幸運を心の内で感じながら、昴は飛び付くようにして剣を掴み取る。

「さぁ来い!」

 こうなればもう恐いものはない。抜き取った鞘が床に落ち、透った音が響くと同時に、夜叉は絶命していた。心臓に突き刺さり、背中から飛び出している刃先を見つめて、昴は微笑を浮かべる。生温いヌルヌルした液体が、指先から肘までを染めていた。

 もう慣れた感触に、別段何かを思うこともなく、剣を抜き取る。返り血が飛び散ったが、どうでも良かった。床に倒れている犬妖を冷たい目で一度見て、そして部屋を見渡す。

「……」

 夏奈美を差し引いた分の三人は、ほとんど一塊になって横たわっていた。

 ――会えたのか。

 思うと、なんだか虚しかった。柳楽は苓のすぐ近くにいた。畑で妻の名を呼び、駆けて行った背中を見たときは、会えずにすぐ殺されると思ったのだが。

 昴は鞘を掴み取ると踵を返し、家の外に飛び出した。

 ――だったらまだ良かったのかもしれない。

 表にいたのは三頭。それとはなしに予測していた範囲内の数だったから、動じる事なく剣をふるった。一頭は心臓を貫き、二頭は胴と頭部を切り離して。

 血をどっぷりと浴びた衣が朱色に染まっているのも気にならない。体が勝手に相手の急所を突いてくれるから、頭では他のことを考えることが出来た。

 ――夜叉の現れる率が……上がっている?

 ザッ――っと、物影から突如として現れたもう一頭の犬妖の攻撃を、ヒラリとかわしながら、昴は眉根に皺を寄せる。

 碧の国が死んでからというもの、夜叉が現れた、という噂は後をたたない。現に昴も、この三ヶ月間で三度も遭遇している。今回で四度目だ。

「……怖いな」

 ズブッ――という、生々しい感触が剣を伝って、昴に届いた。急所であるはずの心臓を突いたつもりだったのだが、少し逸れたらしい。呻き声をあげてもがいている。それをじっと見ながら、昴は続けた。

「禍の世と言われはじめてから百年たつが、お前達は何を企んでるんだ?」

 ぐっと力を入れて、刃の位置をずらし、そのまま剣を抜く。赤い露が落ちて雨に紛れた。

 夜叉が息絶えるのも待たずに、昴は辺りをうかがう。今斬ったのが、おそらく畑で出くわしたやつで、合わせて五頭。群を成すには兆度いい数字だ。辺りの気配も探り、もういないだろうことを確認した昴は、深く息をついた。

「三ヶ月で四度だぞ」

 返答するものがないのは分かっている。

「国々で、落ちる村は増え続ける一方だ……」

 もしかすると事態は昴が思っている以上に深刻なのかもしれない。

 三年間旅をして、一年に三度遭遇するだけでも多いというのに、たった三ヶ月で四度目。しかも、そのうち一回は、滅多に現れることがない、猿妖の群れだった。猿妖は、強さこそは犬妖と同等だが、数が半端じゃない。十を超すのは当たり前。昴が遭遇した群は、二十一頭だった。

 あの時は、本気で死ぬかもと覚悟したのだが、村を助けに近場の国兵が駆け付けたのでなんとか難を免れた。

 今、この村が終わりを継げたことだって、緑北国の王は知らないだろう。知れば、せめてもの情け、彼等の為に墓でも作ってやるだろうが、報告する者がない限りそれは成しえない。

 ――全ては紅南国が悪い。

 悪の血を引く柳瀬の一族。その中で、もっとも権力を持つ、喜瀬村王。彼が何を求めているのか、昴は知らない。しかし、他の者の為に何かをするような人物ではないことだけは分かる。その私欲に駆られ動く様を、昴は近くで何度も見ていたのだから。

 ――克羅の姫……。

 そしてまた、彼女が碧の民のみならず、国々の民にどう思われているのかも、昴は同様に知っている。

 自分と同じ年頃の、青き髪を持つという少女。生まれると同時に国を潤し、近い将来、その期待のままに太古から続く国を治めるはずだった。

 ――助けなければ。

 生きているなら。生きて助けを求めているなら。手を差し延べなければならないのは、自分以外の誰でもない。なぜ急に、そんなことにこだわり出したのか、昴には分からない。今更――本当に今更、そんな人物に、固執してもしょうがないだろうに。

 バシャッ。

 背後で響いた音に、昴はハッとして顔をあげた。

 ――まだいたのか。

 そう思い、振り向いて構えを取る。いきなり飛び掛かられても、万全な状態だった。しかし。

「え……?」

 目の前にいたのは、小柄な少年だった。

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