第1章 〜雨の雫〜
第6話 旅人
昴が宛てのない旅人になったのは、十三歳の時だった。
戦ばかり起こす郷国が嫌で、母が死んだのを機に、遺してくれた金を持って夜中にこっそりと家を出た。
一夫多妻制の自分の国で、昴の父親は妻を六人娶っていた。
国を抜け出したいと常々から思っていた昴にとって、この事実は好都合以外の何ものでもでもなかったが、ただ当時は、同じく放っておかれている母が可哀相でならなかった。今でも時々思い出す母の横顔に笑顔はない。父の存在が、母を苦しめていたのだと分かったのは、旅を続けていくうちのことだから、もう少し後になる。
家を出て後、昴は馬屋で馬を頂戴して、都を出た。頂戴と言っても、ちゃんとその分の銭は置いておいたし、書き置きもしておいたから問題ない――と、幼心ながらに考えたのだが、今思うととんでもない話だ。
それから、一人で様々な国を回ってみた。碧、白、緑、そして紅。国々を一周してみて、一度自国に戻った時、自分の捜索願が出されていることを、都の古びた立て札で初めて知ったが、あまり気にならなかった。国を出て二年経っていたし、身長も伸び、貼ってある古い人相書きでは、今の自分と異なる部分が多すぎていた。
十三歳で国を出て二年、一度国に戻り、再び旅に出てから一年立ち、十六歳になった青年が、今の昴だった。
「――すまない。誰かいないか」
「はいはーい?あらぁ!」
季節は秋。山々が黄金色に染まり、空気が澄んで夕焼けが美しく見える、少し肌寒い涼秋の頃、昴は緑北国の小さな村に来ていた。藁屋根で出来た家が二十ほど集まった簡素なその村は、元碧の国側の国境付近にある。たまたま近くを通りかかっただけの昴だったが、急に空が暗くなったかと思うと、いきなり大粒の雨が降って来た。自然の冷たい仕打ちを全身で受けた昴は、急いで馬をとばし、この村にやってきたというわけだ。もちろん目的は雨宿り。
「うわぁ。かわいい男の子!姉さん、来て来て!ほら!ねぇ、あなた旅人さん?」
「……か、かわっ!?」
「なになに?……んまっ。本当だわ」
しかし、訪ねた家にいた女二人は、かなり元気がよろしいようで……良く言えば明朗、悪く言えば無遠慮。最もやじ馬になりやすい柄と言えばよいか。昴を見るなりいきなり『かわいい』などと、まるで幼児を見ているかのような言葉を本人の目の前で明るく言い放つ。悪い気はしないが、良い気もしない。むしろ昴は困惑し、思わず首をかしげた。
そんな昴を、女二人は見続けながら語り合う。よく動く、おしゃべりな二人の口の形が、よく似ていることに昴は気がついた。
「ほら見てよー。目とか綺麗だし肌もすべすべ~。触ってみたぁい」
「なに色声使ってるのよ。でも本当に整った顔してるわ。健康的に焼けた肌もいい感じ」
「あっ、私もそれ思った!」
キャハハだのホホホだの、まさに女の人らしい高い笑い声を響かせながら、二人は昴を観察している。
――訪ねる家、絶対間違えた。
昴は口には出さずに心の中で呟いた。
別に昴を観察するのはいい。『かわいい』にはさすがに驚いたが、旅人である昴を、
「何処の国のものか分からぬやつなど、わしの家に入れんわっ!さっさと立ち去れい!」
と言って、鼻先で扉をピシャリと閉められるよりかはずっと良い。実際に経験したことがあるだけに、それは確実に言える。だが、二人が楽しくおしゃべりしている間、昴は冷たい雨の中、一人立っているのだ。出来ればそのことに気付いてほしい。しかし。
「姉さんの好みなんじゃないのー?この人」
「いやぁね。ちょっと若すぎるわよ」
「きゃー、歳なんか平気なくせに!」
気付く気配無し。
たまらず溜息をついたが、昴はすぐに気を入れ替えた。やはりここは礼儀を尊重して――実際の本音を言えば、ただ単にこの雨ざらしの状況から開放されたいと、そう願っているだけなのだが――自分から言葉をかけてみる。
「あの、軒下を貸してもらえます?」
『え?』
姉と妹――会話からしてそうであろう、二人は、同じきょとんとした表情で昴を見上げた。
「軒下ぁ?」
「なんでまた?」
「いや、雨宿りさせてもらえないかと……」
ザーザー降りの雨の存在を二人に知らせようと、昴は空を指差す。
「ちょっとの間だけでいいんです。雨が止んだらすぐに立ち退きますから……駄目ですか?」
二人が黙り込んで昴を見続けているので、最後の言葉を付け加えて聞いてみる。が、反応がない。
――駄目か……まぁ、もうとっくに全身びしょ濡れだし、別に今更雨宿りしたって……。
「ご、ごめんなさい!」
「私達はなんてことを!」
ありがとう、と礼を言って立ち去ろうとした昴の耳元で、二人は突然大声をあげた。あまりの大音量に、耳の鼓膜がじんじんと揺れたような気がした。
「ささ、こちらへどうぞ」
「いや、俺は軒下を貸してほしく――」
「何言ってるの。こんな辺鄙な場所へせっかくいらして下さったのに、お茶の一つもお出ししないなんて、私達そこまで腐ってないわ!」
腐ってるって――という昴の言葉は自然流れた。勢いまかせに二人は家へ入れと急かすので、昴は馬の手綱を適当な場所に繋ぎ、荷物を持って家の中に入る。
「失礼します……」
中は広々としていて、清潔感が漂っていた。入ってすぐの室内には
「
「はーい」
「旅のお方はこちらへどうぞ」
妹らしき人は調理場へ、姉らしき人は、炉傍にある座へ昴を案内する。昴は出来るだけ服の水気をきって、そこに胡座をかいて座った。挨拶と礼を済ませ、昴は確認を取ってみる。
「お二人は姉妹ですか?」
「そうよ。私が
「二人暮らし?」
「いいえ。旦那が――」
という具合に始まったばかりの会話は、すぐに途切れた。バシャバシャという音が外から聞こえ、昴と夏奈美が、何だろう――と戸を見たその時。
「ぐえぇ~。びしょ濡れだー!夏奈美、何か拭く物くれよ」
「これ見ろよ、苓!いい茄子が取れたんだ。今日は焼き茄子……って、あれ?」
突如、外から体格の良い二人の男が家に飛び込んできた。昴はぎょっとして二人を見るが、昴に気が付いた二人は、より反応大きく、ぎょぎょぎょっと目を見開いて、まさに、誰だお前――と言わんばかり。
「おかえりなさいませ」
「はい。布。早く身体を拭いてください」
しかし、夏奈美と苓は、男三人の無言の探り合いには参加せず、微笑んで、入ってきた男達に布を渡す。
「風邪をひきますよ」
「んなこと言ったっておめぇ、男が……まさか浮気か!?」
「ぎぇぇ~!?苓!本当かよ!やい、てめぇ、よくも俺の妻に手を出しやがったな!」
「え……いや……」
「何言ってんのよ!こんなかわいい男の子が、人妻に手を出すわけないでしょう!」
「十代の初々しさを持つ若者に対して失礼だわ!」
――この女達にして、この男達有り。
いろんな意味で似た者最強夫婦だと、昴は呆れを通り越し、むしろ笑いを誘われたが、なんとか咳ばらいしてごまかした。その音に、四人はハッと振り向いた。と同時に、じゅぅ~、という音が響いた。
「きゃー!大変だわ!お湯が!」
慌てて調理場に走り込むのは、苓。夏奈美はヤレヤレと首を振り、炉の側に腰をおろす。
「ちょっと間抜けだけど――あれが私と苓の旦那よ」
「そうみたいですね」
昴がくっくっと笑いながら言うのを見て、夏奈美は少し頬を赤らめ、大きく溜息をついてみせた。
「髪が茶色くて背の高い方が、私の夫の
「お邪魔させていただいています」
昴が頭を下げると、二人は困惑したように顔を見合わせた。そしてすぐにおずおずと昴に頭を下げて返すその姿が、なぜか子供のようでおもしろい――が、今度は咳ばらいも何もせずに堪えた。
「あー……お前は……?」
「昴と申します。旅の途中で、急に雨が降ってきて難儀していたところを、ご丁寧にも夏奈美様と苓様があがらせてくださり――」
「旅?旅だって?お前みたいな若いもんが?」
秋英が炉の側に座りながら、驚いて聞く。昴は苦笑し、失礼ながらも彼等の反応を愉しみながら答えた。
「はい。十三歳の時に家を出ました」
「十三!?」
今度は柳楽の方が大声をあげた。我が目を疑うといった様子で昴を凝視し、そして同じように炉の傍に座る。
「なんでまた旅なんか……家族は――」
「母は病で亡くしました。父は……」
脳裏に幼い頃に何度か見ただけの、父の顔が浮かんだ。はっきりとしない、霧のようにもやもやとした曖昧な像。あまりよく覚えていないものの、どちらかというと、綺麗な顔付きだったと思う。だが、あまりに冷酷なその心の方が、昴の印象には強かった。
「父も亡くなりました。兄弟もいない独り者なので」
別に真実を語っても良かったが、父のたくさんの妻のことや、異腹の兄弟のことを話すと、たいていの人は、どんな身分の者だこいつ、と昴に不審の面を向ける。妻をたくさん持つということは、それなりの身分を示すからだ。例えそれがなかったとしても、妻が多数いると聞くだけで、厭な顔をする――の二つに一つしかない。
――楽しい雰囲気を壊すことはない。
そう思って、昴は適当に流した。
「そりゃ……難儀だったなぁ」
「一人で生きてくのは難しいからな。特に今の時代は――」
「禍の世……ですからね」
苓が盆に茶を乗せてやってきた。そっと差し出された昴は、ありがたく頂き、香りたつ茶をすすった。少しだけ苦かった。
「こんな時代に旅なんて……戦に巻き込まれたりしないのですか?追剥ぎだっているし、それに何よりも夜叉がうろついているでしょう。この国も大分被害にあっているし……。夜はどうしているの?」
「大体は野宿です」
「じゃぁやっぱり危ねぇじゃねーか」
「腕は多少たつので、人妖ぐらいだったら斬れますし、それ以外の夜叉に遭遇したら逃げます」
適当に斬って捨てる、とは言わない。
「逃げる?そんなこと出来るの?」
「死ぬ気で馬に鞭を打てばなんとか……俺、運は良い方なんですよ」
そう笑って、携えていた剣を見せる昴を、四人は関心したように見ていた。柳楽が、見せてもらって良いか、と聞くので、昴は頷いて手渡した。
「お国は何処なんですか?」
秋英と柳楽が剣を感嘆して眺めている間に、夏奈美がにこにこと笑いながら聞いてくる。
「――白西国です」
これも嘘だった。
国によって、それぞれが好む国と嫌う国があるのを、昴は旅に出る前から知っていた。例えば、白西国は緑北国や碧の国を好いているし、緑北国は碧の国を昔から尊敬している。碧の国の人達は、基本的に何処の国の者でも受け入れてくれるが、紅南国は国外の者については酷く警戒する――など、国交があるかないかの差も大きいし、何より昴の祖国である紅南国は、どの国にも好かれていない。当たり前と言ってしまえば当たり前だ。ここ何十年という長い間に、起こしたものといえば戦のみ。次々と標的を変えて、ついには三ヶ月前、とうとう碧の国が落とされてしまった。
そのことを思い、昴は拳を握った。
美しい国だった。碧の国を初めて訪れた当時、昴は十四歳だったが、その目で見ることが出来る全てのものに感動した。
畑や田は緑が覆い、川のせせらぎや、小鳥の唄う音色が美しく響く。空の様子までが他三国とは違っているようで、空は高く、雲は低く――と、まさに風光明媚。千紫万紅。そして何よりも、人々の顔付きが他の国の人々とは全く異なり、輝いていたように思う。
「白のもんか。……まぁ、今はどこの国にいようが、あんまり良い話題は聞かねえだろ」
明らかに碧の国の崩壊を示唆する言葉を吐く秋英に、昴は微かに頷いた。
否定のしようがない。四大国で最も歴史があり、尊敬を得ていた国が消えたという事実は、驚愕以外の何ものでもなかった。三ヶ月前の出来事とはいえ、その悲の余韻は今も大きく残っている。
「国を治めていた克羅の一族も根絶やしだというし、都はほとんどが焼き払われたって聞いたわ」
「惨いもんだぜ」
俺達は碧の国から逃げてきた人達を見てきているんだ、と柳楽が言う。
「この村はわりと国境近くにあるからな。身一つで逃げてきた碧の国の者が訪れるんだ」
「一週間程前にも三人の親子がいらして、泊めて差し上げたんだけど……」
どことなく沈んだ口調の夏奈美。
「まだ多くの民が国内に残されていると聞いて――」
「……こう思う私は最低かもしれないけど、本音を言えば、複雑よ」
苓は淡々と、しかし言葉は選んでいるようで、眉根に皺を寄せて夏奈美の言葉を遮った。
「碧の国の人々が哀れで仕方がない。けれど同時に、これ以上この村に――なんと言うのだったかしら?難民――?が押し寄せて来たら、私達の生活がままならないわ」
「苓」
柳楽が諌めるような声をあげたが、苓はかまわず続ける。
「だって事実よ。この村の人は、お人好しばかりだから、碧の国の人が逃げてきたのを見れば、すぐ匿うし、お世話する。碧の人々も私達のことを、天の助けだとかなんとか言いながら、最低でも三日間は滞在していくわ。その米の量だって馬鹿にならないのよ?現に、もう刈り入れを済ませたっていうのに、村の倉にある米俵なんか――今日見てきたけれど、去年と同じぐらいしかなかった。この意味分かるでしょう?去年は不作。今年は豊作だった」
しん、と、昴を含めた五人は黙り込んだ。苓の饒舌は次第に熱を帯びてきて、いつの間にか、冷静極まりない観察記を語るに到っている。その様子が、昴にはなんとも新鮮で、正確で、残酷だった。
「これからもたぶん碧の国の難民はたくさん訪れるわ。三ヶ月という短い期間じゃ、碧の国の人々全員が大きな山脈や谷を越えて、この国にやってくるというのは無理よね。おまけに碧の国は、紅南国と緑北国にしか面していない。自然、みんな北に位置する私達の国に逃げ込んでくる。碧の国の人々がどれぐらいいるか知ってる?」
「……百万だ」
昴が答えると、苓は大きく頷いた。
「その大群がこの国にやってくるのよ?そうしたら私達、食べるものだってなくなっちゃうわ」
全てを言い終えたのか、苓は、今まで語るのに夢中になりすぎて充分に出来ていなかった呼吸を、今初めてまともにした――ように昴には見えた。
――確かにそうだ。
苓の怒涛の如く繰り出される、的を射ている言葉を聞き、先を思うてか、秋英、柳楽、夏奈美の三人は、ただ静かに湯飲みを握りしめていた。その茶だって、もうぬるくなっているのだろう、湯気の白が見えない。
――このままでは、緑北国の負担が大きすぎる……。
もともと緑北国は、四大国の中でも財力や富がある方ではない。国自体が起ったのは、紅南国に次ぐ三番目だが、それだって碧の国の助力を得て起きた国だし、夜叉の出る率も高い。
――
暴君と名高い紅南国君主、嘉瀬村王。戦ばかり起こしているので、陰では「
昴の祖国である紅南国の、国を治める主君の姓は「
そう、昴が三年前に出た場所こそ、紅南国の国の首都、要である朱雀城だった。朱雀城には、国王、家臣とその家族、使用人を合わせただけでも、ざっと三千はいる。それだけでも人口密度は高すぎるというのに、守備のため、いたるところに兵士が突っ立っているから、実際の人数はもっと多い。
昴の父親は、そんな大勢の一人として、
「……紅南国はどうして戦ばかり引き起こすんだろうな」
今更のように秋英が言ったので、考えに耽っていた昴は、伏せていた顔をあげた。
「だってそうだろ?あの国は意外と平和だし、夜叉の出没も白西国や緑北国みたいに多くない。そりゃぁ確かに大昔の悪神の血を引く王が国を治めてるけどよ、神の一族であることに変わりはないはずだし……うぅん……俺達みたいな凡人にはわかんねえかなぁ?」
「碧の国が羨ましかったんだろ。善の神の血を引く一族が治めてるんだ。綺麗で、豊かで、安全で。それか、その富が欲しくて乗っとろうとした――とか」
「だがなぁ……まさか碧の国が滅びるとは思わなかったぜ」
「……何千年もの歴史を誇る国にしては、あっけなさすぎたわ」
様々な言葉が、名もない小さな村の片隅で繰り広げられているのを、碧の人々は知っているのだろうか。と、そうやって客観的に見ると、なんとも不思議な光景だな、と昴は思った。すると――。
「……私」
突然、じっと黙っていた夏奈美が、おずおずと声をあげた。
「噂を聞いたんだけど……克羅の姫についての……」
「克羅の姫?」
あまり話題に入らずにいた昴だったが、「克羅の姫」という言葉には、いち早く反応を示した。
紅南国に、しかも、柳瀬の都にある朱雀城に住んでいた昴にとって、克羅一族滅亡は他人事ではない。彼等――確か、王と妃と姫と三人いたはずだが、彼等は王族で、昴が見たことのある紅南国の
そんな真剣な昴の眼差しに、夏奈美は更に小さくなりながら、あくまでも噂なんだけど――と、細く言う。
「克羅の姫は……殺されてないって」
『え!?』
男三人は声をあげ、初耳とはこのこと、目を見開いて夏奈美を見る。そんな中、妹の苓だけは、なぜか苦笑していた。
「それ……私も聞いたことあるわ」
「苓様もですか?」
昴の声量が僅かに大きくなったのに、苓は気付いただろう。しかし、あえてそれを追求せずに、静かに頷いた。
「さっき話した、碧の国の難民から聞いたのよ。と言っても、それらしきことを――何かしら……まるで最後の望みのように一人呟く姿を見受けた、っていう程度なのだけど」
――最後の望み……。
苓が言った言葉を、昴は心内で復読した。噂というには、あまりに根拠がなさすぎる。だが。
――もしそれが本当ならば……。
償うことが出来るかもしれない。
宛てもなく自由気ままに国々を回ってきていた昴。しかし、今回の旅だけには目的があった。向かう国は碧。そしてその目的とは、碧の国の人々の救出。自分の体一つで何が出来よう――と、確かに現実というのはそんなもの。だが、太古から続く国が倒れ、大勢の人々が、食べるものも食べず、持つものも持たず、苦しみに呑まれているという現実は、昴にとって耐え難いものであり、同時に己自身の問題でもあるのだ。
――逃げたんだから……。
祖国を見捨てて逃げた自分。見捨てたからこそ、紅南国は誰の諌めも受け入れず、暴走して碧の国を倒したように思えてしょうがない。つまり、紅南国が碧の国を滅ぼし、破滅を迎え入れたのは、昴のせいなのだ。だから――償いたい。
「姫が生きている?んな阿呆な」
「だから噂だって言ってるじゃない。碧の人々が、絶望の淵から逃げ出したいが為に勝手に言っているだけかもしれ――」
柳楽が莫迦にしたように言うので、苓は少し怒って言う。そして、それを妙な音が遮った。ブシュッ――という、少し間抜けな物音。
「あ」
秋英、夏奈美、柳楽、苓の四人がポカンとする中で、昴だけがハッとして立ち上がった。この音と、この音を出してしまうような状況にいる、主に覚えがありすぎる。
「馬、放りっぱなしだった」
「今の馬のくしゃみかよ?」
呆れて溜息の混じる言葉を背中に受けて、昴は慌てて外へ出た。どしゃ振りの雨は止む気配を見せていなかった。雨期でもないんだけどなぁ、と口が勝手に動き、溜息を吐いているが、それで止んでくれれば苦労はしない。
雨の雫を浴びないよう、昴は軒下づたいに馬の傍へと寄った。
「――すまんな、雨ざらしにして。風邪でも引いたか?」
人間だったら確実に、てめぇよくもぬけぬけと!とでも言われるであろう。しかし、相手は馬。昴は意気揚々――とまではいかなくとも、笑って話し掛ける。
「話に夢中になりすぎたんだ。すぐ屋根の下に移すから……なんだよ」
しかし、鼻を撫でてやろうと手を伸ばすも、ふい、と避けられてしまった。
「おいおい、俺は謝って――うわっ!」
今度は体をはたいて水を飛ばしてきた。慌てて飛びのくが、もちろんお決まり通り、乾きかけていた袍は濡れて元通り。
「……この野郎」
人間に例えるなら、ざまぁみやがれ、へっ!といったところだろう。昴に向ける瞳までが、なんだか嘲笑っているようで、つぶらな瞳のかわいいお馬さんと呼ぶには、掛け離れ過ぎている。もちろん、昴は今まで一度もこの馬をそんな風に呼んだことは一度だってない。
「馬ってくしゃみもするし、言葉も理解するのねー。初めて知ったわ」
「れ、苓さ」
「ん、ん、んー。いいのよ続けて。とっても勉強になるから」
ひょっこり家の中から現れた苓は、興味深げに眉をひそめ、難しい顔をして――確実に、笑いを隠す為の結果だ――昴と馬を交互に見ている。
「……
それにケチはつけなかったが、その分、昴の眉には「本物」の皺が寄った。それを見た途端、苓は、もう我慢できないとばかりに吹き出した。
「あははっ。昴さんっておもしろいー!」
「……そりゃぁ良かったですね」
「だって、だって、馬がくしゃみして――それで気が付いて、け、喧嘩始めちゃって!あはははは!」
息も途切れ途切れに、腹を押さえて笑う苓。それを眺める昴。そして、二人を眺める馬。他人から見たら、おそらく理解すること不能な情景だろう。それを思うと、昴の眉はますます角度を急にした。
「あー、はー、おもしろかった。お腹痛いわ。ほら、そんなしかめっ面してたんじゃ、素敵な顔がだいなしよ?――で、何、厩?そんな立派なもの、この村にあるわけないでしょう」
「……ソウデスカ」
「あ、でも馬が休めればいいのよね?だったらうちの納屋を使うといいわ。古いけど――」
言うなり苓は、頭だけ扉の隙間から家の中に突っ込んで、
「ちょっとうちまで行ってくる。昴さんのお話相手がびしょ濡れで可哀相だから」
と明るく言い放ち、笑顔で手招きするなり、雨の中走り出した。
「……俺の話し相手は馬か」
一人苦笑いして、昴は横を見た。その目を見て思う。隣にいるのが人間なら絶対にこう言ったはずだ。
――なんでもいいからさっさと俺をそこに連れて行けよ。また水をぶっかけるぞ。
を
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