第5話 兄

長い時間そのままの状態で、半分放心していた藍は、扉を叩く音を聞いて、ハッと我に返った。

「誰だ」

 声をあげるがしかし、その音は急に止まる。

「……?」

 気のせいだったのだろうか。少し声を大きくして、

「何か用か」

 と問い掛けるが、反応がない。

 藍は立ち上がって、扉に近付いた。そういえば、外から聞こえる人の声が――何故だろう、先程までと何かが変わったような気がする。空気というか、気配というか――。

「……母上」

 正殿にいるはずの母と琴音はどうしただろうか。喬は。克羅邸の守備は。

 ――しまった……!

 意地を張って、自分に嫌気がさして、泣きそうになって逃げたが、こんな所に一人で閉じこもっていたら、何がどうなっているか分からないではないか。今更ながら気が付いて、藍は自分に対して毒づいた。外の様子を見るため、扉を開けようと手を延ばし――途端、その扉がガタガタと揺れた。

「!?」

 藍は驚いて延ばしていた手を引っ込め、後ずさった。

 ガタガタ――ガタンッ――。

 誰かが無理やり入ろうとしている。この宮に入る為の扉を開ける権があるのは藍だけだ。なのに無理矢理開けようとするのは、それを知らない者、つまり克羅邸の者ではないということになる。それに気付いた途端、急に心臓が早鐘を打って鳴り出した。一体扉の向こうにいるのは誰なのだ。まさかとは思うが、やはりそういうことだったら、と考えただけで足が震えた。

 しかし、戸はすぐに開かなかった。どうして、と考えて、先程勢いにまかせて戸を蹴ったおり、枠から外れてしまったのを思い出した。直すなどという考えは念頭になかったので、そのまま放置しておいたから、今も引っ掛かって動かないのだろう。その証拠に、一枚の板を境にして立っている見えない人物は、ガタガタと戸を揺らしている。

 だが、今はそんな悠長に物事を考えている場合ではない。

 ――出なきゃ……。

 ここを出なくてはならない。いや、むしろ出たい。

 ――でもどうやって……?

 東殿の出入口は、目の前にある扉一つしかない。だが、その扉から出ることが叶わないのは、目に見えて分かっている。

 どうすればいいかと焦る中、必死に思案し、部屋に唯一ある窓の存在を思い出した。空気の通りを良くする為だけに存在する、小さな窓。昨日、藍は立ち上る煙をその窓から見た。果たしてあの煙はどうなっただろうか、と考える余裕もない中で、藍は窓辺に走り寄ろうと足を一歩踏み出した。瞬間――。

 ドンッ――バタンッ!

 背後で何かが倒れた。それが何なのか、見なくとも藍には分かっていたが、目は確認を求めていた。振り返った藍の見たものは、逃げるという概念を根本から捨てるには充分だった。

 四角いかたの中に立つ、大きな身体からだ。背後にあがる炎の影になって、その表情は伺えない。だが、目の前に立つ人物が、藍の姿を認め、にやりと笑ったのが気配で分かった。歩を進め、宮の中に入ってくる。

「巫女姫だな?」

 低い、地鳴りを思わせる不気味な声。相手の立っている位置と、藍との距離はわずか五歩といったところか。うんともすんとも藍は答えていないのに、相手は藍の身分を理解しているようだった。宮の外に向かって、

「姫がいたぞ!」

 と叫ぶと、再び藍の方を振り向いた。

「……一人……か」

 一歩一歩踏み出してくるたびに、藍は恐怖にされて後退する。その時になってようやく、相手の手には剣が握られていて、その剣の所々に、液体がこびりついていることに気がついた。

「……ぅぁ」

 声にならない声をあげ――派手に転んだ。今の藍は、動きやすいよう袴を履いているため、服の裾を踏ん付けたなんてことはありえない。ただ単に、恐怖で足がすくみ、もつれただけだった。

「怖いか?」

 嘲笑が目に映った。炎の光の傾斜で、相手の表情と姿が初めて見て取れた。

 服は短白姿の白い布地だったのだろうが、今ではほとんどがどす黒い赤色に染まっていた。握る剣にも血が滴り、つたって床に落ちて血溜まりを作っている。だが、その血は確実に彼の者ではない。その事実だけは今の状況でも、異常なほど理解出来た。

「嫌だ……」

 恐怖で動かぬ足を無理に引きずり、藍は下がれるだけ下がって、トン、と背中をぶつけた。振り返ると、台と、その上に祭ってある剣が目に入った。

「安心しろ。一瞬だ」

 声を背後で聞いて、背筋が震えた。

 ――殺されたくない。

 その思いの一心で、台に手をのばし、剣のつかを握った。鞘がついていることも忘れて、振り向き、相手に向かって攻撃しようとした――が。

「そんなものが通用すると思うか!?」

 すでに振り上げられていた銀の刃が、藍の頭上に不気味に輝いていた。藍は息を飲み、月華の剣をぎゅっと握りしめた。目を閉じ、無駄ながらも、やってくるであろう痛みを堪えるため、歯を食いしばる。

 目をつむった時に覚悟したことではあったが、心の隙間にそれに反する気持ちもあったのだろう、やはり怖かった。血はどれぐらい流れるのだろうとか、自分が死んだら周りはどんな反応を示すだろうとか、殺されるくらいなら今のうちに舌を噛み切ってやったほうが良いのかとか、目まぐるしく頭が回転し、揚句の果てには、死んだら行くという黄泉の国は本当に存在するのだろうか――とも考えてみた。

 そんなことを死ぬ間際に考えている自分はおかしいのかもしれない。が、藍は一瞬の間に、脳を働かせるだけ働かし、最終的には酷く老けたような気分に陥った。

 そして文字通り、シュッ――と、空を切り裂いて刃が振り下ろされる音が耳に入った。

 ――もうだめだっ!

 藍は一層体を堅くした。

 ――まだ……死にたくない……。

 しかし、いつまでたっても痛みがやってこない。恐くてつむっていた目を、藍はおそるおそる開いた。相手の立ち方がおかしい。藍がそう思った次の瞬間、どう、と目の前の人物は横ざまに倒れた。

「……」

 相手はもう二度と動くことが出来ないないようだったが、あまりのことに、藍もまた腰が抜けて動けなかった。先程まで殺気に満ちていたその目は、すでに色を失っている。後頭部に突き刺さっている矢を見て、一瞬で事切れたのだと分かった。――分かったと同時に、恐怖が倍増し、吐き気がした。

「藍!」

 殺されそうになった恐怖と、今目の前で起きた出来事にすくみあがり、何も出来ない藍の耳へ、慣れた音が入った。ぼんやりと入口に目を移した途端、体中がビリビリし、急に力が入ったのを感じた。

「た……」

 藍はふらりと立ち上がり、そして駆け出した。

たか!」

 走って、転がるようにその胸に思いっきり飛び込んだ。温かくて、優しくて、今さっきまでの緊張が、ゆるゆると溶けていくのが分かった。顔をうずめると、そっと頭に手を置かれた。

「無事だったか……」

「……」

 歓喜と安心とが入り乱れて、言葉が出なかった。背中に――正確には、喬の腰に回した手で、ギュッと衣を掴んだ。

「怖かっただろう……大丈夫か?怪我は?」

「……ない」

「そうか……」

 安心したように吐く喬を、藍はぼんやりと見上げた。笑顔とまではいかないだろうが、微笑ぐらいは浮かべていると、そう思っていたのだが、実際に見たのは苦い表情だった。

「……喬?」

 名前を呼んでから、藍は初めて気が付いた。喬の右肩から腕にかけて、衣が濡れている。

「!」

 藍は驚いて目を見開いた。

「喬……血が……」

「え?あ、ああ……傷口が開いてな」

「大丈夫なの!?」

「弓矢を扱えるくらいだ。なんともない」

 なんともないわけがなかった。大怪我をしてからわずか二日しかたっていないのだ。立っているだけで精一杯のはず。

「一度休んで――」

「あの矢を放ったのは俺だ。一発で仕留められるぐらいなのだから、この傷も大したことない」

 言われてから、藍は自分を殺そうとしていた男を思い出した。頭に突き刺さった矢。色を失った目。

 ――矢を放ったのが喬……。

 思った瞬間、急に喬は藍の腕を掴み、走り出した。体がぐいと前に引っ張られ、思わずたたらを踏んだが、なんとか転ばずにはすんだ。

「ど、どうし……」

「……逃げるぞ」

 頷く間も与えずそう言い、喬は走り出した。東殿を出て、廊に出て、右に曲がって直進し、角を曲がったその時、藍は信じられない光景を目の当たりにした。

 轟々とあがる赤い炎。夜の闇よりも黒い煙。すでに形を留めることなく崩れ落ち、バチバチという音を立てている宮。そして目下、何万人という人々が暮らしている、克羅の都ほぼ全土から炎があがっている。炎がその色を空に映しているせいか、辺りは赤く、夕焼けを思い出させる。

 ――え……?

 にわかに信じられないような変わりよう。昨日までは、暗闇の中輝く月が、星が、美しく輝き放つその光だけが一つの色であったというのに。

 ――こんなの……嘘だ。

 悪夢の中でだって、ここまで恐ろしい光景など目にしたことがなかった。『戦』という、予想を遥かに上回る悲惨な言葉の意味が、たった今目を通して分かり、自然足が止まる。

「何をしている!来い!」

 喬が隣で怒鳴り、藍の手を更に引いた。されるがまま、半ば引きずられるような形で、階段元に進む。

と、藍はあることに気が付いた。

「母上は?」

 言った直後、藍の腕を掴んでいた力が強くなった。あまりの強さに痛みが生じ、思わず呻くと、喬は驚き振り返って、慌てて手を離した。

「……す、すまない」

「……それより母上は?琴音も……もう逃げたのか?」

「……」

 藍は聞くが、喬は黙ったまま。訝しんで喬を見続けているうちに、脳裏に『まさか』という考えが浮かんでくる。

「……に、逃げたんだよね……?」

 自分の声が震えていた。その声を聞いてか、喬の表情が歪む。隠していたのか、あるいは堪えていたのか。どちらにしても、藍が見た喬の変化は、良いものではなかった。

「……藍が飛び出した先は、紅の軍がいる方角とは逆だったから、危険はないと思って、俺は克羅邸守備の指揮を取りに一度戻った」

 唐突に話し始めるのはなんの為なのだろう?

「すぐに宮を壊しにかかろうとしたんだが、人手が足りなかった。場が混乱しているうちに炎は隣の院に移るし、兵はますます減るしで、俺もやむを得ず斬り合いに加わった。それで――」

 喬は口を閉ざした。藍は無言で先を促すよう訴えるが、喬は目を伏せたままだ。藍の貫くような視線をまじまじと感じているはずなのに、厭に思わないのか。

「……それで何?」

 あまりの沈黙の長さに耐え切れず、藍は低く、唸るように言う。

「怪我をしているのに戦いに加わって、無事でいてくれて私は嬉しい。それで……母上と琴音はどうしたんだ?」

「死んだ」

「――え?」

「すまない。間者が入り込んでいたのに気が付かなかった……最初から紅南国のやつらは国の主を狙っていたんだ。家族を含む……克羅の姓を持つ一族を」

「……」

「最初のうちは、琴音を姫だと勘違いしてたんだろう。でなきゃ、藍を助けるのに間に合わなかった」

「……まさかそん」

「間者は四人。全員俺が斬った」

 やっとのことで出た言葉も、喬に遮られ、藍は黙り込むことしか出来ない。いや、それ以前に、『死』という言葉が全く理解出来ない。

 ――死んだ?

 ――母上が?

 ――琴音が?

「……だってさっき――」

 さっきまで話をしていたではないか。藍の言葉を無視して、目の前にいる将と何やら相談して。そのせいで藍は身勝手ながらも怒り、正殿を飛び出したというのに。

 ――死ぬなんて……そんなばかな話……。

 ダダーンッ――と、近場で大きな音が響いた。死んだような――それこそまさに、藍を殺そうとして逆に喬に骸にされた、あの兵の瞳のように色のない表情を浮かべていた喬は、ハッと顔をあげた。

「今ならまだ逃げるのに間に合う。行くぞ!」

 藍は、自分の腕が喬の大きな手に再び掴まれるのを、ただ呆然と見ていた。

 ――死んだ。

 ――母が。

 ――姉が。

 ――ありえない。

 ――そんなの嘘だ。

 ――嘘だ。嘘だ。嘘だ!

 ギュッと唇を噛むと、今まで人形のように己で動かせずにいた身体に、急に力が入った。藍は喬の手を振り払い、踵を返す。

「藍!?」

 喬は手をのばしたが、空を掴んで終わった。藍の運動神経の良さを知らない喬ではなかったから、彼が舌打ちしたのを藍は背後で聞いた。が、傷が開き、いつものように機敏に動けない喬から離れるのは、 今の藍にはたやすいこと。

 東殿から西へ、正殿に向かって全力で走る。ついさっき母や琴音と別れた奥の部屋――あそこに行けば、喬の言うことが『嘘』なのだと分かる。――絶対的な確信がある。

 だから、藍は走りに走って――息をつくことも忘れて、母と琴音が待っているはずの部屋に飛び込んだ。

 部屋の中はぐちゃぐちゃだった。薙ぎ倒された置物台、割れた硝子物に、散らばった書物。床には、明らかに外から入って来たのだと分かる、泥にまみれた足跡がいくつもあった。

「……っ」

 鉄の錆びたような、ツンとした臭いが藍の鼻を突いた。部屋の空気がやけに生温いような気がして、一度足を止める。今も西側の宮を轟々と燃やしているであろう炎の明かりも、ここまでは届かないのか、部屋は闇に包まれて良く見えない。

 眼を細め、藍はじっと部屋を見続ける。すぐに眼は闇に慣れた。数秒前までは分からなかったが、今では床にぼんやりと横たわる影が見えた。

 自分の心臓が痛いほどに鳴り響いているのに気付き、藍は手を胸に押し付けた。外で降る雨の音も、炎で焼かれた建物の崩れる音も、兵と兵が争う声も、聞こえない。一歩足を進めるたびに、ギ――と音を出す、床の呻きだけが、藍の耳が拾う『音』だった。

 あと八歩、七、六――と、横たわる影との距離は、ゆっくりと少しずつ縮まっていく。その一歩一歩が、恐怖との勝負だった。

 藍は無言で堪えた。

 そして。

「……母上……琴音」

 待ってはいてくれた。母と琴音と。二人揃って、先程の場所から動かずに。しかし、痛々しく血まみれの姿で横たわる二人の姿は、藍の思う『絶対的な確信』とは、全く逆の状態だった。体中に走る太刀の痕。服は切り刻まれ、髪は解け、乱れている。

「……」

 母の骸までの距離はわずか三歩といったところだろう。しかし、藍はそれ以上近寄れなかった。

 ――怖い。

 目の前にいる二人を、藍は見知っている。それは否応なく理解出来た。だが、二人はもう『人』ではない。『もの』だ。だから、悲しいという感情が湧いてこない。怖いという思い以外は、瞼も唇も麻痺して動かず、故に藍の瞳は横たわる『母だった人』、『姉だった人』を見続けて、視線を離さなかった。


それからのことはあまり覚えていない。二人の亡骸を見つめ続けていた藍は、再び誰かに腕を引っ張られたが、何も考えていなかったし、何処に連れていかれようとも、どうでも良かった。ただ、藍の腕を掴み、目の前を走るその背が先程の人物と変わりない所を見ると、自分は喬に引っ張られているんだな、と、無意識のうちに理解した。

 されるがまま走り、東殿の裏の階段を降りて鞋を履いてすぐに、体が冷たくなった。東側の柵に隠された小さな出入口を通り、宮から離れる程、雨で服が重くなって、ただでさえ放心していて動かない藍の身体はますます動かなくなる。

 三度目の出入口――つまり、邸内から三重になる柵の外へ出る抜け道を、通りきった所で、喬はようやく足を止めた。

 そしていきなり手をあげた。

「いいかげんにしろ!」

 バシッという音は、降る雨と戦の物音に吸収されたようで、実際は微かな音にしかならなかった。それでも、藍の頬には痛みが走ったし、驚きのあまり呆然としているうちに、今度は熱を帯びてくる。

 突然の事に、急に意識がハッキリした藍は、自分の頬を躊躇することなく撲った喬を睨み付けた。皮肉にも、克羅邸が燃える炎で、彼の表情はしっかりと見て取れた。罵ってやろうと口を開くのだが、怒りのあまり言葉が出てこない。パクパクと魚のように口を動かしていた藍に、喬はピシリと言い放った。

「逃げなくちゃならないんだろうが!わざわざ自分を死に近付けるような真似をするな」

「……」

 頬をおさえる自分の手が震えている。

「放心するのも、怖がるのも、怨むのも怒るのも。お前は今、様々なことを考えてるんだろうが、そういうことは全部、逃げのびてから考えれば良い。母親のことも、琴音のことも、克羅邸や、この都のことも、あとからだっていくらでも思い返せる。だから今は逃げることだけ考えてくれ。頼むから」

 だんだんと必死さを帯びていく喬の口調に気圧されるように、藍の怒りも、完全にとは言えないが、少しだけ消え去っていくのが分かった。

 そしてすぐ近くの木の下、馬が繋がれているのが目に入った。数は一。二人乗りで走らせるのは難しいんじゃないかな、と、そんなことを頭の隅でぼんやりと考える。

「……分かった。喬の言う通りにするよ。あの馬を使って逃げるんだろう?」

 怒りは治まってはいなかったが、己の感情殺しに慣れている藍は、今までの放心状態や怒りを嘘のように押し止めて、淡々と言う。

「……そうだな。先に乗れ」

「……」

 藍は無言のまま鞍に跨がる。

 馬の背から喬を見下ろす形となった藍は、彼が馬に乗りやすいよう鞍の後ろをあけた。馬術を教えてもらったのはもう何年も前になるが、後ろから手を回して手綱を取る――つまり、後ろから抱き抱えられるような形で、同じ馬に乗り、馬の揺れに慣れさせてもらったのをしっかりと覚えていたのだ。

 今回もそうするのだろうと思って動いたのだが、しかし喬は動かなかった。馬に跨がる藍を見上げ、苦笑いする。

「その剣、持ってきたのか」

「え?……あ」

 自分の右手を見て、藍は初めて気が付いた。東殿に祭ってあるはずの『月華』が握られていたのだ。慌てて記憶の糸を探ってみると、殺されかけたあの時――死にたくないという一心で動いていたあの時に、咄嗟に身を守る為に、剣をつかみ取ったことを思い出した。じっと考え込んでしまっている藍を見て、喬はなぜか嬉しそうに笑った。

「持っていて良かった。それがあればもう自分の身は自分で守れるな」

「……喬?」

 喬は、憎しみも悲しみもない、綺麗な微笑みを浮かべている。口調まで柔らかで優しい。開いた傷口からの出血は先程よりも多くなっているというのに、痛がりもしない。

「喬、早くしないと」

「もう遅い」

 え、と藍は問い返す。

「追っ手が来なければ、俺もお前を守る為に共に逃げただろうが……さっき紅の兵に、俺達がこっちに逃げるのを見られた」

 言って喬は藍の頭に手をのばし、ぐいと引き寄せた。

 馬に乗ったままの藍は、喬の肩に顎を乗せるような、なんだか妙な体制になるが、それでも彼の体温はしっかりと伝わってくるし、抱きしめられていることにかわりない。

「……藍とは血の繋がりも何もなかった。一国の未来を担う姫と、武術にしか能がないただの家臣。本来はそういう間柄なんだ」

「何言って――」

「事実だ」

「――そんな」

「だけどお前は俺の実の妹だ」

 藍の肩を抱く腕の力が強まる。

「たった一人の……大切な妹だから……だからお前には、生きていてほしい」

 突如、幾つもの怒鳴り声や言葉を交わす声が、近くで響いた。その二人はどっちに行ったんだ――という荒々しい声が微かに聞こえる。

「敵が……早く馬に……」

 急いて藍は喬から離れようとするが、喬は放してくれない。

「藍、誰かを必要としろ」

「喬!早く馬に乗れ!」

「お前にはお前の幸せを掴む権利がある」

 そのためになら、克羅の名を捨てても構わないから。しかし、喬の思いは言葉にならなかった。ダダダッという幾つもの足音が響き、抜け道から数人が姿を現した。

「いたぞ!こいつらだ!」

 暗い闇の中で響く声。喬は、すっと腕を引いて藍を放し、代わりに腰元の柄に手をのばして――スラリと銀色の鋼を抜き放った。

「何をして……!」

 戦っていたりしたら逃げられない。そのうえむこうとこちらでは多勢に無勢だ。それを喬は分かっているはずなのに。

 しかし喬は、

「もう少し面倒見てやりたかった」

 と笑って――笑って藍の乗る馬の後ろ脚付け根を斬りつけた。

「なっ!?」

 寸前の所で手綱を短く持ち、藍は、いなないて前足を高くあげた馬からの落馬を防ぐ。馬はその痛さと驚きのためか、突然、あてもなく一直線に走り出した。

「喬!」

 落ちないよう、必死に馬にしがみつきながらも、藍は背後を振り返る。

 最後に見たのは、喬が数十人を相手に、斬りかかっていく姿だった。

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