第4話 戦局

爆音が轟いたのは、その日の晩だった。床につく準備をしていた藍は、ハッと顔をあげ、慌てて窓辺に駆け寄った。空殿からなら、都全体とまではいかないが、大半を見渡す事が出来る。豪雨と暗闇で冴えない視界を、眼を細めて垣間見た。

「……なんだ?」

 身を乗り出して音の先を追う。雷でも落ちたのだろうか。それもこの雨ではしょうがないかもしれない。

 ――怪我人が出てないといいけど……。

 方角的に見て、音の根源は南西。それを理解した途端、緊張が走った。

 ――まさか……。

 寝間着を急いで脱ぎ捨て、動きやすい袴をはき、小袖に腕を通した。動きやすいを筆頭とするなら、麻の短白姿が一番いいのだが、ここしばらく巫女服しか着ていなかった藍は、それを念願に浮かばせることが出来なかった。

――夜叉かもしれない……。

それは恐ろしすぎる予測だった。やつらが都に来れば――たくさんの人が死ぬ。いや、最悪、都が滅ぶ。

廊に飛びだした藍は、そのまま母のいる正殿へと直行した。空殿と正殿は小庭を挟んで隣同士に位置している。

 瀬那は廊に立ち、どこかへ向かおうとしていた。藍は慌てて呼び止めた。

「母上!」

「はい?あ、藍。丁度良かったわ。あなたも来なさい。今、偵察人を送ったから」

 相変わらずの母の準備の良さには、舌を巻かずにはいられなかった。いつもいつもすっとぼけて、ふにゃふにゃのボケボケなのに、こういう緊迫した状況下では、誰よりも早く的確な判断を下す。

「雷だと私は思って、怪我人が出ていないか確かめるために偵察に出したのだけれど……あなたのその様子からして――もっと良くない事態なのかしら……?」

「……夜叉じゃないかと思ったんです」

「――気配は?」

「ありません……でも、方角的に気になるので――」

 そう、と瀬那は呟き、議院の方へと足を進める。議院の表に立てば、都が完全に一望出来るのだ。

「……昨日、民の混乱を抑えたそうですね」

「はい」

 瀬那の後ろにつき、歩いているので、その表情は窺いしれない。声の調子だけでは、母親の心はよめないのだ。――あまりにも考えが深すぎて。

「大変だったでしょう?」

「いえ……いつも通りに止めたので」

「いつも通りって――」

 瀬那は振り向く。

「……いつも通り?」

「ですから、そう申しております」

「……そうですか」

 意味深に考える瀬那を見て、藍は眉をひそめた。眉間にうっすらと皺ができ、可愛らしいそのおもての色が霞む。

「――何かまずかったでしょうか?」

「いいえ。ただ、またあなたに、嫌な思いをさせてしまったなと思って」

 そう言うなり、瀬那は再び足を進めた。藍はと言えば、その言葉の意味を悟って、思わず溜息をつく。おとぼけ妃はなんでもお見通しというわけだ。

「好んで民を裏切っているわけではないのでしょう?」

「当たり前です。そんなこと出来るはずありません。父上に教えられたから、民に真実を伝えないだけです。私は……例え混乱を招くことになろうとも、皆に真実を伝えるべきだと思います。嘘は嫌いです」

「ときにはつかなければならない嘘もあるでしょう」

「それでも嫌です」

 言った瞬間、傍にあった松明の炎が消えた。再び大きな音が轟いた。先程とはまた違う場所から、たて続けに二回。近くの院や廊から、女人や使え人、まつりごとの関係者らの声や足音が聞こえる。今さっきも、藍と瀬那の横を女人が急ぎ頭を下げながら通り過ぎた。暗闇が、なかった怖れを生み出している。

 少し歩を早め、瀬那と藍は議院に向かい、角を曲がった所で――藍は母を通り越して駆け出した。月の光しかないはずの都に上がる、別の――。いや、赤い炎。嫌な予感がした。雷が落ちてあがった炎だとしてもよくないことだというのに、今は更にまずい事態をも考えなくてはならない。

「三ヶ所から……火があがってるわ……」

 瀬那の呟きと視界から入る赤い点三つが、藍の頭を駆け、爆音がなったのと同じ回数だと知らせる。

 三ヶ所――被害は大きい。早く炎を消さないと、一大事にもなりかねない。

「藍!」

 パタパタと足音が響いて、少女が呼び掛けた。自分のことを様付けで呼ばない者は限られているので、振り返らなくても誰だか分かる。

「どうした?」

「聞きたいのはこっちよ!なんでこんな所に突っ立ってるの!喬があの炎を――」

 琴音の視線が、藍の横に立つ人物へと移り、途端真っ赤になって両手で口を覆う。

「も、申し訳ありませんっ!」

 何かに押されるように――と言っても、押しているのは確実に本人なのだろうが、琴音は腰から曲げて、瀬那に礼をとった。一国の姫には全く容赦しない女人だが、その母には尊敬の意を示す。もちろんそれが当たり前のことで、前者の行動を起こすにはそれなりの肝が据わってなければならないと、藍は思う。けれど、琴音を女人につけてもらってからずっと観察してみた藍なりの結果だけを言えば、彼女はそこまで深くは考えていない。慣れた者には思うままを言うのが、天性なのだろう。つまり、琴音は藍の母親に慣れていないのと、尊敬しているのと半々なのだ。その証拠が、背中に何かが乗っているのではないかというほど腰を曲げた、今の姿。

「琴音殿、お顔をおあげください。藍に用事があったのでしょう?緊急の場で、喬守将からの言付けならば、急いだほうがよろしいかと思います」

「は、はいっ!あ、では失礼致します。藍……じゃなくて藍様、喬守将がお呼びでございます――」

 妃の前なので敬語を使う琴音がおもしろくて、藍の緊張の糸が少しだけ緩んだ。

「分かった。行こう。母上、一度失礼いたします」

 行くぞ、と琴音に声をかけ、藍は急ぎ足で守院のある方向に歩き出す。琴音も慌てて後を追って来た。

 ザーザー降りの雨に消されることなく、屋敷内の混乱の言葉一つ一つが廊にいる藍のもとにも聞こえてくる。うちほとんどが、音の原因は夜叉ではないかという恐怖の憶測。そのことを言い出したのが自分であるだけに、なんとなく責任を感じる藍の額には、自然、皺が寄る。更に、そのままの状態で、琴音に向かって話し掛けたものだから、彼女は驚いて、そんなに瀬那様への態度悪かった!?と、思わず突っ込みを入れたくなるようなことを言うものだから、今度は目まで釣り上がった。

「違う。喬は何を話そうとしてたんだって聞こうと思って……やっぱりいい。直接聞く」

 急いで来たからか、既に目の前にあるのは喬の部屋の扉だった。失礼します、と声をかけ、藍は扉を開けた。

「藍」

 喬は白の長袖に長い袴をはいていた。さすがに右手は布で釣って固定しているが、病人らしくない格好に、藍は訝しんで、上から下まで眺め回した。それだけでも失礼な行動だというのに、藍は更に了承もなしに喬の部屋に入り、彼の目の前に立った。喬の方が身長が高いから、自然見上げる形となるが、それでも相手を気迫で黙らせるのには充分だった。喬は何も言わず、目の前に立つ少女の目だけを見ている。

「どうしてそんな格好をしているんだ?」

 言う言葉は、たぶん鋭い。

「傷口は閉じてないだろう?一体匠は何をするつもりなんだ?」

「……やつらを倒してくる」

 その言葉を待っていたかのように、藍は喬の腰に携えてあった剣を、鞘を残したまま抜き取り、それを彼の喉元に突き付けた。小指の先程も距離がない刃の切っ先とその喉元。藍の背後で、琴音が混乱した声をあげたが、突き付けられている当人はいたって冷静だった。

「何がしたい?」

 どちらも微動だにせず、互いの目を見る。相手の動きを知りたくば目だけを見るんだ、と藍に教えたのは喬だ。二人して相手の動きを知ろうとしてる。もちろん今は体の動きではなく『心』の動きを。

「行かせない」

「なぜだ?」

「怪我をしているから」

「片腕でも俺の腕はたつことぐらい、お前も知っているだろう」

「知ってる。だから行かせない」

「言ってる意味が分からねーな」

 口の端をあげて、喬は言う。

「俺が行かずして誰が行くんだ?今都にいる将は俺だけだぜ?」

「なぜ行かなければいけないんだ。雷が落ちただけかもしれない。それなら消火の為に人をやればいい。雨も降っているから人数さえいれば炎は消えると思う」

「襲撃だから言ってるんだろーが」

 沈黙がおりた。藍は相変わらず剣を突き付けていたし、喬はそれに見向きもせずにただ藍だけをじっと見ている。

「……ありえないよ。私は夜叉の気配を感じていないんだから」

「誰が夜叉だなんて言った?」

 その言葉に、え、と藍は問い返す。

「夜叉でも雷でもない。紅の軍だ」

 ――なんだって……?

「見張りを都に配置しとおいたんだ。さっき連絡が来た。たぶん瀬那様の偵察人より情報は早いぞ」

 言って喬は藍の手元をはじいた。持っていた剣が掌を離れ、空に一瞬留まる。その一瞬を逃さず、喬は難無くそれをつかみ取った。くるくると剣を弄ぶその姿と彼の放った言葉が対比しすぎていて、理解するのに数秒を要した。

「あか……じゃ、じゃぁ……あの炎は……」

「攻撃を受けているってことだ」

 絡まり合った糸を急いて解こうとするかのように、藍の頭の中は混乱の二文字でいっぱいどころか、既に溢れ出していた。

 軍を送らなくては。そんな馬鹿な話があってたまるか。都の人々を救出する。父上はどうなったのだろう?もしかしたら喬はからかっているのかも。母上に急ぎ報告しないと。都が滅ぶかもしれない。炎があがっているけど、今は雨が降っているし、大事にはならないだろう。なんでもいいから早く。早く。早く!

 それぞれの糸が互いに主張し合い、他を押しのけて、前に立ってはまた他に抜かされ――ごちゃごちゃに絡まる。それの繰り返しが、秒数にしてわずか一足らずという間に、行われているのだ。混乱意外のなんと呼べばいい。

 剣を握っていた手も形もそのままに、突っ立っている藍がおもしろいのかそうでないのか、その腹の内は藍には読めないが、少なくとも、喬の口端がわずかに上がったのは確かだった。ふっ、という軽くあしらうような――あるいは諦めの意の印かは分からないけれど、それらの類いを思った時に、人が無意識に音にするものを藍は聞いた。

「……なんで笑ってるんだ……?」

 興味というより恐怖だった。

 冷静で在る喬。ならばこの襲撃を――克羅の都の滅亡に関係するかもしれない戦を、充分に理解出来ているはずではないか。そんな出来た人間が、何故なにゆえ笑みを浮かべるのか、藍にはわからない。例え彼のそれが嘲笑だろうが微笑だろうが、この場にそぐわないと思う自分の思いは普通だと思う。 そして、そぐわない彼が――怖い。

「さぁな。分からん」

 答えるのは、抑揚のない声だった。

「言えるのは、俺もお前も、危険な状況に陥るかもしれないということだけだ」

 その意味の持つ所を確認しようとした藍だったが、それは誰も何もせずうちに、言葉になることなく消え去った。

 四度目の爆音は裏山から響いた。


「報告っ!敵兵は二重目の柵を破壊。西側の被害は甚大です!」

「邸内の負傷者二百名!喬殿。ご指示を」

「……東の衛兵を百から五十に裂け。東殿と議院の警備兵も西側に回すんだ。それで百はなんとかなる。邸内の使え人にも武器を取らせてなんとか持たせろ」

 ――伏兵。それが狙ったのは、本陣のみだった。国と戦をしている。ならば国王を倒してしまえ。そういう腹だったのがうかがえるほど、紅の軍の行動には無駄一つなかった。音とともに現れた千の兵は、瞬く間に克羅邸の南から西にかけてを囲み、三重にもなる柵のうち、二重目までの一部を、難なく打ち壊した。

 邸内にいる喬が全ての報告を受け、全ての指示を出していた。怪我もまだ完治せず、動くのも厳しいだろうに、守院の廊に堂々と構え、そこから衛兵に指示を出している。邪魔になるからか、あるいは兵に余計な心配を与えぬためか、腕を固定していた包帯は、とっくに取り払ってしまっていた。

「通りの兵が足りません!喬殿!」

「他の持ち場からかっさらってでも防げ!絶対にあの道だけは通すな!」

 まさに戦場の真っ只中にほうり込まれた克羅邸の人々だったが、恐くて動けない、はてまた、何かをしようにも何をしたらいいのか分からない、という心境のどちらかで、混乱しているはずなのに、不気味な程静かだった。藍は、後者の筆頭とも言えた。響く轟音、運ばれてくる血を流した兵士、逆に、斬り合いの場へ赴こうとする決意に満ちた背中。

 何かをしなくては、と思う。

 でも何を、と考える。

 分からない、とどこかで自分が答える。

 いくら考えても考えても、そこで思考が止まってしまうのだ。先の見えない暗闇で一歩も動けなくなったような――認めたくないが、たぶん恐怖。戦場にほうり込まれたのに、実感が湧かないと感じる。戦場にほうり込まれたからこそ、恐さを感じる。対となる自分の思いと不安が、藍を縄で縛り付けていた。だから――何も出来ない。

 ――でも……。

 そんなふざけたことを言っていていいのか。

 いや、よくない。絶対に良いはずがない。もちろんそんなものは否だ。

 ――自分の立場を考えてみろ。

 昨日までの自分の勢いは何処に行ったんだ。らしくない。堂々と馬に乗って民を落ち着かせることが出来ただろう。

「……私は長姫で……巫女だ」

 ――国の宝だ。

 そんな自分が、国の滅亡に関わる時にただ突っ立って傍観しているなんて、笑い話もいい所だ。今現在、喬が指揮を取っているという事実さえ、本来なら責められるべきことのはずなのに。

「喬」

 喬の後ろに立ち、邪魔にならない頃合いを見計らって、藍は声をかけた。

「私も――」

 何かしたい。だから指示してくれ。そう言うつもりで、藍は身を乗り出した。――情けない話だ。一国の姫が、家臣に指示をあおるなんて、矜持も何もありゃしない。負けず嫌いな自分を良く知っている。だが、その深みにはまるほど、落ちぶれてはいない。いてやるものか。違う意味で気高く、しかし意を決して、藍は勢い良く身を乗り出して喬にすがった。しかし――。

「だめだ」

 まだ何も言っていないというのに――『だめ』とはどういうことか。

「まだなにも言ってない」

 むかっとして言い返すと、喬は振り返った。

「何かしたいっていうんだろ。絶対だめだ。俺の後ろについて動くなよ」

「何で!」

「何でもだ」

まるで藍の気持ちを無視して、喬は簡単に言い放った。藍にとっては悔しい以外の何ものでもないので、自然、声も荒くなる。

「この間もそんなことを言って父上の所に行かせてくれなかったじゃないか!いつもいつも喬は押さえ付けてばかり……私の言ってることは迷惑なことじゃないだろう!?」

「だから駄目なんだ。お前は!」

 突然怒鳴り声をあげられ、藍はビクッとして思わず息を飲んだ。が、素直に黙って怒られている程、藍は可愛い気のある娘ではない。わずかに怯みながらも、キッと喬を睨み付けた。

「駄目って何!?私は私なりに考えてる。私の立場を考えれば、負わなくちゃいけない任はたくさんあるし、それに応えようとしているだけじゃないか!一体何が悪いっていうんだ!」

 喬は怪我をしていない自由な方の手で顔を覆い、そしてまた外した。仏張面を隠そうともしない。

「あのな……」

「なんなんだよ!?」

「お前の行動は、確かに理に適っている。国の主になった時、下手に人手を使わない為、剣術の稽古をする。夜叉の気配を感じたから、一番理解している巫女兼長姫の自分が報告に行く。民の暴動が起きたから、位の高い自分が止めに行く。確かに全部間違っちゃいない。むしろ、素晴らしいと誉めるべきなんだろうな。素晴らしい『姫』と」

 真剣に聞いていた藍は、最後の言葉に違和感を覚えた。――何故『姫』を強調する?

「藍がもし」

「喬」

 藍は喬の言葉を途中で遮った。

「回りくどい言い方をするな。言いたいことをさっさと言って」

 喬が一瞬のうちに、考えていた長い言葉を頭の中で処理したのが、藍には手に取るように分かった。彼は暫く沈黙を守り、ゆっくりとその言葉を口にした。

「藍、お前は誰なんだ?」

 ――は?……誰って……。

 一体全体何を言っているのだ、この男は。頭でもしたたかに打ち付けたか?

と、明らかに不審の目を向ける藍に、喬は更に言葉を付け加える。

「お前は何を己としてるんだ?」

「……そんなの、碧の長姫、克羅藍としてに決まって……」

「それは『姫』としてか、それとも『藍』としてか。答えが二つある。一つに絞れ」

「一つにって……同じだろう?」

 あまりにも意味の分からない質問は、藍に疑問を湧かせるのには充分だった。しかめっつらで、詳しく説明してほしい、と言うつもりで口を開いたが、ついで飛び出して来たのは悲鳴だった。

 文字通り、くうを切って飛んできたのは、矢だった。それも火矢。藍の視界を赤いものが横よぎったと思ったら、熱が顔全体から伝わり、ドスッ――という生々しい音を立てて、壁に突き刺さったのだ。

「な……」

 あまりに唐突で、恐ろしい出来事に、藍はふらふらと後退する。

 ――怖い。

 一瞬で真っ白になった藍の頭では、自分が何をしているか把握するのは難しかった。何も考えずに、飛んで来た矢から遠ざかろうとさがった結果、廊から地面にもろに落ちた。頭から背中にかけて、痛みが走った。背骨にいたっては、真っ二つに折れたら、きっとこれぐらい痛いと、説明出来ると思うぐらいの激痛だった。おまけに、雨が顔から足の爪先までを一瞬でずぶ濡れにしてくれた。

 くうぅ――と、情けない声をあげている藍の腕を、喬はいきなり強い力で引っ張った。

「阿呆!周りをよく見ろ!」

 という言葉とともに、廊に引きあげてくれたが、今度は引っ張られた腕の方の肩の関節が、たぶん抜けた。

「いたいっ!!肩がっ!」

「瀬那様もこちらへ!琴音!突っ立ってないでついて来い!」

 しかし、喬は藍の非難の声などには全く耳を貸さずに、瀬那と琴音を引き連れて、守院から智院へ、智院から空殿へ、空殿から正殿へと引き連れ、三人を部屋の奥へと押し込んだ。

「瀬那様、ここを動かないで下さい」

「……」

「喬、さっきの――」

「琴音、二人をよろしく頼む。瀬那様はもちろん、藍はこれでも一応、次代の長だからな」

「……分かったわ」

「喬殿はどうするのです?」

「……多分西側の宮はもたないでしょう。火矢はなによりも恐い……なんとしても全焼は防がなくてはなりません。――西側の宮を全て破壊して、炎が移らないようにしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」

「そんなことよりもあなたの怪我の具合の方が……」

「私……さっき」

「問題ありません。俺、左利きですから」

 藍の存在を、三人は完全に無視していた。それが火矢で叫び声をあげるような弱気なやつとは、話すだけ時間の無駄――そう言われているような気がして、それが段々と、藍の焦燥を大きくする。が、三人は、体を固くした藍の僅かな動きに気付かない。

「とにかく、兵に宮を壊させます。方法が他にありませんので。それまでに動きやすい服装にお召し変えください」

「分かりました」

「琴音もだ。分かっているな?」

「ええ」

「……では、一度失礼し」

「――一体全体何なんだ!」

 腹が立ってしょうがなかった。頭を下げかけた喬と、目を細くしている母、そして、逆に驚いて目を見開いている琴音とを順々に睨み付ける。

「何をして――だって……」

 何を言いたいのか、自分自身を制御出来る域を遥かに越えた混乱に陥っている藍には分からなかった。喚くだけ喚いて、怒鳴るだけ怒鳴って。さっきからそんなことばかり繰り返して、結局は何も出来ていない。

 ――八つ当たりだ。

 無力な自分を認めたくないがために、喬や母親にあたっている。悔しかった。何も出来ない自分が悔しい。人にあたっている自分が悔しい。恐怖を感じる自分が悔しい。――自分が憎い。

「一体どうすればいいんだ!私は……なんでここにいるんだ?どうして何も出来ないんだ!?喬は何もさせてくれない――でも私は何かしたい……」

 自分の言っていることがめちゃくちゃなのは分かる。それは分かるのだが、飛び出す言葉を止める方法は見つからない。自分の不甲斐無さのあまり、体が震える。

「……ふ」

 不意に涙が込み上げて来た。声を漏らした自分自身が一番驚き、慌てて三人から顔を背けた。雫が落ちて来ないよう、瞬きするのをこらえ、藍は唇を噛む。

 ――どうしていきなり……。

 いきなり泣きたくなったのだろう。物心ついた時から、泣いたことなど、全くをもって皆無だった。どんな怪我をしても、どんなに悲しくても苦しくても、泣くことだけは我慢してきた。泣くものか、と自分自身に言い聞かせるのが常。泣くのは弱い証拠。

 藍は弱くない。いつだって強かった。今だってそれは変わらないはず。

 ――涙は自分には関係ない。なのに。

「藍……」

 顔を背けたままの藍に、瀬那が呼び掛けた。優しく、包み込むような声を聞いた途端、藍の中で何かが弾けた。

 ――ここにいたくない。

 いれば本当に泣いてしまう。それは藍自身が許さない。入口に立っていた喬を突き飛ばして、藍は部屋から飛び出した。琴音が何か言ったような気がしたが、逃げることだけを考えていた藍には、分からなかった。


 足は勝手に進み、気がつけば東殿に飛び込んでいた。扉をピッチリと閉め、ついでに戸惑いの発散のため、蹴りを入れておく。ガタッ――と、戸が外れた音がしたが、どうでも良かった。

「うあーっ!あーあーあぁー!」

 ひとしきり声をあげ、掛け軸の前にドッカと座った。胡座をかき、肘を膝に押し当て、掌に顎を乗せた藍は、大きく息を吸った。

「あーあぁー……」

 掌を額に移し、今度は深く息を吐く。

「……莫迦だよ。莫迦」

 自責の念とはこのことだ。この世で一番嫌いな人が自分になりそうな気さえしてくる。流れそうだった涙は意地で引っ込めてやったが、気分までは変えられず、むしろ酷くなっている。最悪に憂鬱だ。それだって自分のせいなのだが。

「どうしてこんなに子供がきなんだろ……」

 外で聞こえる声や物音が、遠くに聞こえる。先程までとはうって変わって、藍が今いる場所は、混乱とは程遠かった。攻撃を受けている場所から一番遠い宮だからかもしれないし、東殿には藍以外誰も入れないから、安心しているのかもしれない。もちろん、紅南国の者にとっては、そんなことは関係ないから、邸内に入って来たら東殿にも乗り込んでくるだろうし、朱雀を祭る紅南国の者にとって、邪魔な青竜の掛け軸などは、めった斬りにする辺りが妥当なのだと、簡単に予測がついた。

 そしてふと考え、掛け軸を見上げる。

――青竜に祈ってみようか……。

 それもありかもしれない。いや、十中八九、巫女なら、真っ先にそうするだろう。それが責務で、それしか能がないのだから。

 じっと黙り込んでいるのも嫌だったので、気を紛らわす為、藍は胡座から正座に直し、走ったせいで乱れた服を整えて、掛け軸を見つめ――はたから見たら睨み付けているようにしか見えないのだが――手を合わせた。ギュッと目を閉じ、祝詞を唱える。

「我らを守りし青き竜。いにしえより伝わりし剣と共に、碧き月の国を守りたもう――」

 宮の外で、何か大きな叫び声が響いた。驚いて言葉を途中で見失ったが、一呼吸つくと、続きが勝手に出て来た。長年の習わしというのはすごい。

「北に在りしは淡麗なる八重の木々、深き緑に覆われし大地は麗しを表す。南に在りしは赤き陽の光、熱く強き刃は守護信念のかなめ。東に在りしは清き水の流れ、青の光を放ちし月を称し、輝くは運命さだめなり。西に在りしは智恵の矢、色なきくうを裂きて行くは白き尊い教えなり。それぞれ立ち、力集う時、四神の名のもと、剣の名のもと、闘わんことここに誓う。碧の巫女の名において願わん。我らに平和を、永遠の繁栄を……」

 気を紛らわすためとはいえ、やはり莫迦莫迦しくてしょうがない。外から聞こえる声は、必死で、彼等は命を懸けているというのに、こんな祈りが何の役にたつのだろう。

「繁栄を……」

 そう思っているのにも関わらず続けようとするのは、一体何の為なのか、藍には分からなかった。何の為でもない、ただの意地だ、という考えが脳裏を過ぎったが、完全に無視して、認めなかった。

「……永遠の繁栄を……与え……与えて……」

 急に、勝手に動いていたはずの口が止まった。目を開けて、暗闇の中で合わせていた手を離し、代わりに腕を組む。

「……長年の習わしはすごいんじゃなかったのか?」

 集中を切らしてしまった。外の物音が気になってしょうがない。――気を紛らわすどころか、気持ちを整理することも叶ってない。本来なら常に成すべき巫女の仕事である祈り。それすらまともに出来ないなんて、自分はどこまで使えないのだろう。

 藍は膝を抱え込み、顔をうずめた。一度目の爆音が響き、それが襲撃だと分かってから、既にかなりの時間がたった。もうしばらくすれば、夏特有の早い暁がやってくるだろう。それまでに、この戦は終わるのだろうか。碧は、国であり続けることが出来るのだろうか――。

「私は……どうすればいいんだ……」

 見つめた空間には、闇が覆っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る