第3話 巫女姫

腐敗したようなその茶色い体。骨と皮で出来ているかのように細い手足。直視出来ないほど気味悪く、同時に恐怖に満ちた姿をしている――それが夜叉だった。その体に似合わず力は強く、動きは蜘蛛のように素早い。鋭利な長い爪や、牙と呼ぶに相応しい鋭さの歯で、喉を掻き切られれば一瞬で決着がつく。どこからともなく沸いて出てくる物の怪を、人々はそう呼んでいた。

 やつらは人を食う。餌はもっぱら人間だが、狩ることも好んでいた。理由もなく村々を襲い、人々を切り刻む。しかし、碧の国では何年もの間、見掛けられることはなかったので、幼子の中には、存在すら知らない者もいた。藍も本物は見たことがない。

 その夜叉が、こともあろうか戦の最中に現れたのを、藍は克羅邸内で感じ取った。藍が感じたのは『不吉』、『恐怖』、そして『絶望』。その三つが体を貫いた瞬間に藍は全てを理解したのだ。

 母と話していた部屋を急ぎ出て、父がいる場所を探す。議院にいると思い、正殿から出て真っ先にそこを訪ねたのだが、そこには静かな沈黙以外何もなかった。

「父を見たか」

「い、いいえ――」

 廊を走り、院と部屋を見て周りながら、藍はすれ違う人に声をかける。分装服を着て走り回る姫を見たことはあっても、巫女の正装服を着た状態で走り回る姫を――いや、そのような長い袖や裾がある服を着ながら走ることが出来る者を見た経験が、女人や使人にはなかったらしく、驚いて通り過ぎる藍を目で追っていた。

 雨はもう降り出していた。地面は雫で色濃くなっている。空に漂うで霞んだ風景は、藍の心情そのものだった。虚ろで、空虚な情景。しかし、気にしている有余はない。長の言葉を承り、夜叉に対する防御をしなくてはならない。

「あっ!弥春!」

 守院の廊に立つ、見慣れた姿を見つけて、藍は駆け寄った。振り返った彼女の表情も劣らず深刻で、思わず、どうしたのか、と聞きそうになったが、喉元まで出て来たその言葉を飲み込んだ。今はそんな場合ではない。

「姫!どうなさったのですか?」

 足が引っ掛からないように腰裳こしもの裾をあげ、領巾ひたたれを落ちないように首に巻き付けて走り寄って来た藍を見て、弥春は仰天していたが、藍自身はそれを完全に無視した。

「父を……長を知らないか?今すぐ言わなきゃいけないことが……」

「――いらっしゃいませんよ」

 藍は目を見開いて弥春を凝視した。ひたひたと降る雨の音は焦燥を掻き立て、耳に入ってくるが、それ以外は何も入ってこない

「……冗談だろう?」

 これ以上最悪なことがあるだろうか。夜叉は死しか呼ばない怪物で、それが現れたというのに、伝えたい国の主がいない。

「なんで!?どうしていないんだ!?父に伝えなければならないことがあるんだ!碧の国の滅亡に関わることだぞ!」

「藍姫!姫様!落ち着いてください!」

 取り乱して叫ぶ藍の肩をおさえて、弥春は再び驚いて声をあげた。

「藍姫が混乱なさってどうするのですか。あなた様のそのようなお姿を見れば、皆を無駄な不安に陥れます」

 ハッとして藍は弥春を見上げた。疲労の色を見せるその表情。戦のせいであまり眠っていないのだろう。目下には隈もできている。

「何があったのか分かりませんが、とにかく落ち着いてください」

「……すまない」

 藍は顔を背けた。さっき、自分が子供だと感じたばかりなのに。またか、と酷く嫌になる。気を改めて、藍は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いて、自分の心が落ち着くのを待ってから、もう一度弥春を見上げた。

「どうして父はいないんだ?」

 弥春は無言のまま、守院の将部屋の方を見た。

「……何かあるのか?」

 藍は言ってから入口の扉を開けた。

 二人の人物がそこにはいた。泣きそうな表情で水に浸した布をしぼる女性と、血まみれになった丈の短い衣と、土で汚れ、所々破けてしまっている小袴をはいた男性。白い麻の布で出来たその動きやすい服は、短白姿といって戦の時に着るものだが、すでにぼろぼろだった。着替えをした様子がない所を見ると、ここに来てからあまり時間が経っていないのだろう。肩には太刀で切り付けられたような深い傷があり、パックリとわれていた。そしてその苦痛の表情――。

 藍はその場に放心して突っ立っていた。彼の白い服に飛び散っている赤い斑点に、自然と目が吸い寄せられる。夕日よりも、鮮明なその色は、この世のものではないように見えた。

「……」

 ふらふらと足を進め、そのままぺたりと膝をつく。現実なのか夢なのか分からない。分かっているのは、目の前にいる人物は危険な状態にあるかもしれないということだけだった。

「……喬」

 兄の額に浮かぶ玉が、彼が顔を動かしたことによって流れて落ちた。焦点の合っていない目で藍を見て、唇の端を軽くあげた。

「よう……おてんば姫が。廊を……っ……ドタドタ走る音が聞こえたぞ。……まさかそんな格好で走り回ってたんじゃないだろうな……」

 咳込みながら、苦痛で表情を歪めながら言うその姿は、藍を混乱させるには充分だった。

「嘘!?どうして……喬!」

「……庇ったのよ」

 答えた声のもとを見て、藍は息を飲んだ。琴音が、震える手で喬の肩に布を当てている。止血はされているようだったが、それでも血の汚れで赤く染まる布は、定期的に洗って絞らなければならない。彼女の泣くまいとする表情が、胸に迫った。

「味方の兵を庇ったの。各地で敗戦しているけれど、克羅の都の守備を任された喬は負けるわけにはいかった。……ずっと戦い通しで……けれど昨日、とうとう耐え切れなくなって、喬の率いる軍は最初の兵の八割を失った状態で引いた。その時に逃げ遅れた兵を庇って……」

「……助かるのか?」

 琴音にこれを聞くのが、どんなに無神経なことか、それぐらいは藍にも分かっていた。しかし、今大事なのはそこだ。守将の喬、剣術の匠の喬、兄である喬。彼はこの国にとっても戦にとっても必要で、藍にとってもなくてはならない存在なのだ。それを失うかもしれないと考えただけで身がすくむ。

「典医がまだいらしていないの……けれど弥春は、止血が出来ているなら命は助かると思うって言っているわ……」

 藍は振り向いて部屋の入口に立っている弥春を見上げた。藍に向かって目配せし、自信があるのだろう、一つ頷く。藍は少しホッとして、それでもまだちゃんとした結果は出ていないのだからと、腰をあげる。

「私が呼んでくる。急いで診てもらった方がいい――」

 言った矢先、廊の方からバタバタという足音がし、誰かが顔を見せた。――克羅邸専属の典医だ。

「すいません――喬殿が怪我をしたと聞いて……」

 いそいそと入ってくる典医は、藍に気が付いて頭を下げた。それから喬の頭元辺りに座り、さっそく肩の傷をうかがう。

「意識はあるのですか?」

「……ある」

 喬自ら返事をしたので、典医は少し満足気だった。琴音が何度も当てては絞っていた布を取り、傷を見て観察する。

「深いが……意識はある。脈も……正常です。止血は済んでいるのですね?」

「はい」

 答える琴音の目は真剣だ。藍はもう一度その場に腰をおろした。隣に弥春も座った。

「ならば大事には至らないでしょう。急所も外れていますね。安静にしてなければなりませんが、とりあえず、薬と包帯で処置を施しておきます。」

「命に別状はないのですか?」

「問題ないですよ」

 ほーっと、息をついた琴音の顔に笑みがこぼれた。その嬉しそうな表情を見て、藍も弥春も一緒になって微笑んだ。

 ――良かった。喬は大丈夫……。

 しかし仲間を庇って傷を負うとは、なんと彼らしいのだろうか。藍はそう思ったが、それでも、国一番の剣術の使い手が怪我をするということは、退却というのは難しいものなのだろう。戦は引き際が肝心だともいう。そしてやはり――それだけ紅は強いのだろう。

 と、藍はふとあることに気が付いた。

 ――退却?

 喬は克羅の都の守備将軍師だ。その彼が退却し、怪我を負った。それを意味するものは――一つしかないのではないか。

「喬……もしかして克羅の守備は……」

「大丈夫ですよ」

 答えたのは弥春だった。

「喬様が退却した代わりに、他の軍が紅の軍を迎え撃ちに向かっております。喬様の軍は八割を失ったため壊滅ですが、代わりに十万の兵を投入したとのことです」

「十万!?多くないか?ついこの間集めたところだろう?また増やしたのか?」

「前回の兵と合わせて……二十万です」

「そんなに……」

「ずっと募っておりましたよ。ご存知なかったのですか?」

「知らない……」

言ってから 藍は愕然とした。母が隠していたのはこのことだったのか、と、今更ながら気付く。

 しかし、弥春の次の言葉に、藍は更に衝撃を受けた。

「――長自ら赴くのですからついていく民は多いでしょう」

「……え?」

 意識の外で、足に力が入り、立ち上がる。

「父上?父上が喬と交代して?」

「仕方がないのよ。喬以外の三将も戦に赴いているから……」

 包帯を巻くのを手伝いながら、今度は琴音が答えた。

 國院、内院、智院、守院のそれぞれのまとめ役を「将」と呼ぶのは、彼等の本来の役目が戦の際に軍を指揮しなければならないからだ。疾風も剛山も圭久も喬も、指揮官――つまりは将軍師であり、國、内、智、守の名もそれぞれが率いる軍隊の名からつけられている。そして、軍の最高司令官――大将だが――は、国の主である克羅芝韋が担っている。

 全く予想していなかった弥春と琴音の言葉に、藍は困惑を隠しきれなかった。口をぽかんと開けて、弥春を穴が開くほど見つめ、今度は口を覆い、再び腰をおろして頭を抱え込む。

 ――嘘だろ……?

 全身の血がすごい勢いで逆流しているようだった。熱い。気持ちが悪い――。

「長が姫には……知らせるなとおっしゃって……」

 どうして自分はこんな場所にいるのだろう。

「藍、お願いだから落ち着いて聞いてね。大丈夫よ。長の剣術の腕はすごいって、あなた自慢してたじゃない!」

 行かなくては。行って助けなければ。でないと父は――。

「大丈夫ですよ。十万の兵がそうやすやすとやられたりしません。むしろ勝って克羅に帰ってきます!」

 ――来る。

 また声がした。弥春のものでも琴音のものでもない、強い、貫くような声。それが自分自身の声だと、藍はようやく気が付いた。急かしているのは自分だ。その十万の兵は確実に消える――やつらにやられる。

 藍は無言のまま立ち上がった。煙があがっていたあの場所。父の率いる軍があそこに向かっているなら、馬をとばせば間に合う。

「藍……?」

 尋常ではない藍の様子に気が付いた琴音が、典医を手伝う手を止めた。喬も上半身を起こして藍を見る。 典医すら藍の様子がおかしいことに気が付いているようで、

「長姫様?」

 と問い掛ける。藍は扉を開けて廊に飛び出した。

「衛兵!」

 雨は先ほどより酷くなり、轟々と音を立てて降っている。それに消されまいと声を張り上げて、藍は衛士を呼ぶ。

「衛兵!どこだ!?」

「は、はい!」

 慌てて転がるようにして現れた兵は、ずぶ濡れだった。雨が降ろうが風が吹こうが、彼等は土の地面の上を歩き、克羅邸を守る。彼の場合も、足元は泥で斑だった。

「姫様……」

「馬を用意してくれ。出るから」

「えぇ!?今からですか?」

「急用なんだ」

「あの……何処へ……?」

「父のいる所に決まっているだろう」

「何言ってるんだ!」

 背後で喬が怒鳴った。今にも寝床を飛びださんばかりの様子で、藍を睨み付ける。琴音と典医が慌てて押し止め、弥春は藍のあまりの発言に言葉を失っていた。

 藍は無視して、結ってある髪を一度ほどき、束ね直しながら続ける。

「駿馬を頼む。私は一度空殿に戻って短白に着替えてくるから」

「藍!」

「正殿の階段下につけておいて。すぐに行く」

「ふざけるのもいい加減にしろ!長の所って行ったら戦場だぞ!分かっているのか!?」

「分かっていなかったら行かない」

「お前っ!」

 喬は琴音の制止を振り切って立ちあがり、包帯を巻かれた肩を押さえながらふらふらの状態で藍のもとへ歩いてきた。衛士はどうすればいいのか分からないようで、雨の中でおろおろと喬と藍を見比べていた。

「いいか、お前は女で、ガキで、巫女で姫だ。責任も持てない。自分の身の重さも分かってない。冷静を努めようとしても、感情のままに走る向こう見ずな莫迦だ。だから長はお前にこのことが伝わらないように瀬那様を始め、俺達に口止めした」

「喬から剣術の稽古を受けた!私だって戦場に行って戦える。そんな何も分かってないような言い方をするな!」

母の隠し事の理由が分かったというのに、これでは更に藍の焦燥を買うだけで、嬉しくもないし、安心も出来ない。

「お前は何も分かっていない」

 怒りで体中が熱い。自分の頬が熱で朱色になっているような気がした。しかし反対に、喬は冷めた言葉をぶつけてくる。

「戦に赴くということは、人を殺すということだ。命を奪い合うんだぞ。目に入る色は赤ばかり。相手の返り血を浴びているから、怪我をしていなくても自分の衣は自然に染まっていく。それがどういう意味か分かるか?自分が生きるために相手をこの世から消すんだ。そして藍、お前にそれが出来るか?」

「そんな言い方――っ!?」

 と、急に頭に激痛が走って、藍は思わずうずくまり、頭を押さえた。貫くような痛み。感じる『不吉』。それに連鎖する『恐怖』と『絶望』。

 ――まただ……。

 さっきと同じだ。やつらの気配が感じられる。殺気――と表すのが妥当だろう。さっきから聞こえる声も走る頭痛も、夜叉の群れが原因なのだ。

 言い返さないうえに、うずくまってしまった藍に驚いたのか、喬が肩に手を置いて声をかけながら揺さぶった。衛士も更におろおろして、長姫様!ど、どうしよう!?――と、混乱振りも見事としか言いようがない。

「おい、どうしたんだよ……」

「――具合でも悪いの?」

 琴音も声をかける。藍は震えをなんとか抑えようとするが、自分の意思でどうにかなるものではなかった。

「藍?」

「夜叉が……」

「え?」

「夜叉の群れが……来る」


 克羅の都は混乱を極めた。

 巫女の言葉は必然、更にその巫女が国の姫ならば、なおのこと必然的で、現実的。人々の観点はそういうものだった。だから、昨日から続く雨にも関わらず、都に住む民は克羅邸に押し寄せたし、衛士が説明しても納得しなかった。戦へ対する不信と混乱の現れだろう。巫女姫からの説明を求める声が、雨音と共に東殿にいる藍のもとまで届いていた。喬が怪我をして運ばれて来てから、まだ一日しかたっていないというのにこの有様だ。

 ――彼等には彼等の情報網があるんだな……。

 嫌な感じはしなかった。むしろそれが当然だと思う。家族が戦に出ている家も多く、身を案じていないわけがない。少しでもいいから関連する情報がほしいのだ。緊迫した状況下ではその思いも強いだろう。

 広い部屋には藍一人しかいない。どうせ巫女しか入れないのだから、こんなに広い造りにしなくてもいいのに、青竜を祭ってある宮は議院と同じくらいの広さがある。

「……」

 その壁によりかかり、天井を見上げて藍は溜息をついた。父の率いる軍の向かう方向に夜叉が現れる可能性があるという藍の報告は、喬と言い合いをした時に居合わせた衛士に任せられた。圭久、疾風、剛山にもそれぞれ使者を送ったし、あなたは出来る最善のことをやりつくした、と琴音は言い張っていたが、藍自身はそうは思えなかった。

『お願いですっ!長姫から直に説明を受けたいんです!通して下さい……』

『夜叉が来るのは本当なのか!?巫女はなんとおっしゃっているんだ!』

『控えよ!ここかりにも国の主である克羅の邸宅であるぞ――』

 外から聞こえる怒声と、それを押し止めようとする――同じような怒声。どちらも互いに大声をだして互いに怒りをぶつけている。

「姫様」

 扉越しに声がかかって、藍はそちらの方を見た。この部屋の入口はそこ一つしかなく、しかも礼儀上、内側からしか開けられない。違う言い方をすれば、巫女の藍にしか、その扉を開閉する権限がない。

「何?」

「民が姫様を出せと申しております」

「知ってる」

「あ……では……その――」

「今行くから。馬を守殿の階段傍につけておいてくれ」

「――はい」

 扉の向こうの気配が遠ざかっていった。藍は膝を抱え込んだ。服の擦れる音がいやに耳につく。

「……」

 一間置き、藍は立ち上がった。

 迷いは見せない。不安も出してはならない。そして藍は、その立ち回り方を知っている。

 ――最悪だな。

 自嘲気味に藍は心の中で呟いた。

 真実を知りたい人々に、嘘をついて安心させなくてはいけないなんて。

 ――裏切りもいいところだ。


 藍は喬の剣を借りた。民を説得するには威厳ある姿がいいと知っているからだ。今は戦のせいで無理だが、以前はよく粗末な袍や衣を着て、都内を歩き回っていた。だからなおのこと服装はものを言う。ついこの間、男物の服を着て走り回っていた自分が、雨の中、巫女服を着て、しかも剣を携えて馬に乗って現れたら、おもしろいくらいに目に焼き付く光景となるだろう。自画自賛ではないが、それなりの覇気を父親から譲り受けているし、人を信用させる空気は母に似ていると思う。

 休養を取っている喬に礼を述べ、藍は廊に出た。馬はもう準備されていて、傍に藍の近衛兵が待っていた。

「そんなお姿で……乗れるんですか?」

「裳の代わりに袴をはいているから大丈夫だ」

 笑って言う自分が遠くに感じられる。

「すぐそこだし。問題はないと思うよ」

 藍は馬に飛び乗った。剣がカチャと音をたてる。雨の粒は大きく、すぐに衣は濡れてくる。手綱を取り、腹を強く蹴った。馬は大きくいなないて、克羅邸を囲む柵の外側へと走り出した。だんだんと大きくなる怒鳴り声と、等間隔で音を立てる蹄。いつもなら、カカッ――と、軽快な音をたてるのに、今は雨のせいで地面がぬかるんでいるから、水を叩くような音しかしない。

 目の先に人の群れが見えた。何十人かの人と、数人の衛士が向き合って話している。と、一人が藍に気がつき、指さした。周りも同じように顔をあげ、藍を見て口々に何か言っている。藍が手綱をぐいと引っ張ると、数歩の後、馬は止まり、首を振った。群衆は静まって藍を見上げている。チクチクと視線が痛くて、なんとなく気詰まりした。皆の表情は暗く、雨が降っているせいもあるかもしれないが、どことなく痛々しかった。

「長姫……」

 対象的に、安心したような息をついている衛士に、藍は目配せをして、雨の中で声を張り上げる。

「私に聞きたいことがある者達がいると聞いて来た。今なら聞けるから言ってくれるとありがたい」

「……夜叉が現れたって本当なのでしょうか?」

 二十代くらいの若い女の人が遠慮がちに聞く。長姫のいきなりの言葉に全くものおじしない人はそう多くないのだが――彼女はその多くない方に入っているのだろう。

「藍様がそうおっしゃったと聞いて……」

「そう……」

 ――一体自分は何を言おうとしているのだろう。

「夜叉が現れたのに間違いはないと思う。やつらの気配が分かるのは巫女の特権のようなもので、私はそれを感じた」

 ――嫌だ。言いたくない。

「場所は、紅軍と碧軍がぶつかる付近だろうと見ている。知っていると思うが、軍の前線はここから南西の方角だ」

「距離は?」

「馬で半日くらいかな」

「そこに夜叉が現れるのですか?」

「おそらく」

「では……都には来ないのですか?」

「来ない。だけど万が一を考えて備えをしておいた方がいいだろうな」

「戦の方は大丈夫なんですかね……?」

 今度は腰の曲がった杖をついた老人が言う。

「わしの息子が兵として戦に出てるんです。馬で半日ってこたぁ都から意外と近いし、戦場に夜叉が出るなら、息子は危険なんじゃねぇですか?」

 藍は稟として老人を見下ろした。強気なその様子に、老人は小さくなった。

「私の父は、あなたの息子を守るために都を出た。そして、あなたのために自ら戦場へたった。息子さんは元気でいるはずです」

 言い切る藍を見て、みるみるうちに老人の顔はくしゃりと歪み、笑顔で皺がたっぷりできた。その場の人の顔にも安堵の笑顔が浮かぶ。

 ――どうしてこんなことが出来るんだ……。

 藍も同じように笑顔を浮かべながら、自分自身に問い掛けた。何の確信もない。ただ彼等を安心させるため――混乱に陥れないようにするためだけに、藍は言葉をかける。夜叉が来ないなんてどうして言い切れる?どうして彼の息子が元気だと言える?怪我をしているかもしれないし、病に倒れているかもしれない。更に酷ければ、既にこの世にいないかもしれないのだ。だが、藍にそれを言うことは出来ない。してはならない。

 ――縛られている。

 いつか言われた言葉を思い出した。琴音が言っていたのはこのことだったのだろうか。言いたいことが言えなくて、やりたいことが出来なくて。それが束縛されているということか。長姫という立場に――。

「姫様」

 呼ばれて藍はハッとした。うつむいていた顔を慌ててあげると、前髪からポタポタと雨の滴が落ちた。

「ありがとうございました。お忙しい中わざわざ出向いていただいて……安心しました」

「いや……もういいのか?」

「はい!私達頑張りますから!紅南国は戦の国だと聞きます……だからこそ碧の国は負けません」

「あいつらの目的がなんだか知らねぇが、ここは俺達の国だ。誰にも渡しゃしませんぜ!」

 そうだ、という声いくつもあがり、その場が気合いに満ちた。雨などものともせず、お互いの肩をたたき合い、碧は強いんだぞー!と叫ぶ。

「……全く。その意気で最初からいてくれよ。こっちは人が押し寄せてきたものだから、暴動が起きるかもと心配してたんだぞ」

 藍がややあって笑うと、老人が、

「暴動なんて!藍様じゃあるまいしそんなことようしませんわ!」

 と悪戯っぽく言い返したので、その場に笑いが満ちた。藍も一緒に笑い、

「私は暴動を起こす姫ということか?」

 なんて言いながら、再び馬を従えた。

 ――ごめんなさい。

 その言葉は雨に溶かしてもらう。

 ――裏切ってごめんなさい。

 夜叉の数は果てしなく多いだろう。あれだけの強い気配があったのだから、父の率いる軍が夜叉の群れに遭遇すれば、大きな被害を被るに違いない。――都に来ないとも限らない。

「さぁ、もう戻った方がいいよ。風邪をひく」

「はい。姫様、本当にありがとうございました」

「気にしないで。もっとたくさん質問を浴びせられるかと思っていたのだけど……案外そうでもなかったから」

「そりゃあ、聞きたいことはまだまだありますけど、俺達、そこまで迷惑なやつらじゃありませんぜ」

「……そうだな」

 藍は笑った。上手く笑えていることを願った。

「雨……止みませんね……」

 ふと女がそう言って空を見上げた。藍もそれに習う。どんよりとした黒が真上を覆っている。

「そのうちやむよ。――そろそろ下がらせてもらうね。青竜に祈りをあげなくちゃならないから。不安にさせてすまなかった」

 やがてその場にいた人達はぞろぞろと、丘を下って行った。その背中を藍は見つめ続ける。

 彼等は藍を信じている――。

 連呼するその言葉に封をし、藍も屋敷に戻ろうと、馬の手綱を引いた。

「あ、藍様っ!」

 声がかかって、藍は振り向いた。馬に乗る藍の足元の辺りに、小さな女の子が立っていた。一国の姫に話し掛けることに緊張しているようで、肩は震えているし、唇を噛み締めている。その姿が妙におかしくて、可愛らしくて、藍は馬を降り、膝をおって目線をその子に合わせた。

「どうかしたのか?」

「……」

 子供は黙ったままだ。後ろに回した手をもぞもぞと動かし、恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「あ……」

「ん?」

「明日は藍様のお生まれになった日ですっ!だから……だから――」

 突き出された花束を見て、藍はぽかんとした。お世辞にも上手とは言えない束ね方。ばらばらの長さに切られた茎や、整っていない花の色合い。その辺の野草を摘んできたと言えば分かりやすいだろう。それを震える手で、子供は藍に押し付ける。

「さっき摘んだんです……藍様のお誕生日だから……」

「摘んだ?この雨の中?」

「はい」

「――私にくれるのか?」

「……はい」

 雨の滴で濡れている小さな手から、藍は花束をそっと受け取った。よほど強くにぎりしめていたのか、茎にしっかりとあとがついている。

「ありがとう……嬉しい」

「ほ、ほんとうですか!?」

「もちろんだ。――君は優しい子だね」

 嬉しそうに、誇らしげに、藍を見上げるその女の子の表情が、胸に痛かった。

 ――酷く愛おしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る