第2話 夜叉

 空殿に帰ると――いつものことだが――琴音が出迎え、夕食の前に水浴びをしろと言い張り、二人して屋敷の裏の山に向かった。裏山には泉があって、昼間は村の子供が集まって遊んだりするのだが、夜は誰も来ない。なぜなら巫女が――国の宝である長姫の藍が、《みそぎ》という名のもとの水浴びをするからだった。覗けばバチが当たるとでも思っているのだろう。ちなみにただの水浴びをしているという事実を秘密として藍と共有しているのは、琴音と喬だけである。

 夜の泉が、藍は好きだった。ゆらゆらと揺れる水面や、月の光が当たる木々などを見ていると、なんとなく落ち着いた気分になる。少し開けた場所にあるので、空を見上げれば無数に瞬く星も見えた。

 藍は着ていた男物の衣を脱ぎ、水の中へ入った。季節は夏なので、水はさほど冷たくなかった。むしろ気持ちが良くて、藍はあっちへこっちへと、鼻歌混じりで泳ぎ水の感触を楽しむ。そんな藍を、琴音は岸辺の岩に座って眺めていたが、やがてポツリと呟いた。

「碧の宝か……」

「え?」

 藍は振り返った。琴音は膝の上で腕を組み、顎を乗せて藍を見ていた。

「藍ってさ、姫なのよね」

「何、いきなり」

 怪訝に思って藍は顔をしかめたが、再び泳ぎだした。

「どっかの誰かは忘れているらしいけどね……そうだな――私は姫だ」

「姫ってどんな感じ?」

 琴音は藍の皮肉をサラリと流した。

「私ね、どうしても分からないのよ。姫ってどういう感じなの?やっぱりいいもんなの?」

「……恵まれてるかな」

「恵まれてる?」

「うん。毎日御飯は食べられるし、上等な服もあるし――」

 ふうん、と琴音は呟いた。藍はと言えば、なぜ琴音がこんなことを言い出すのか分からなくて、少し困惑していた。

「琴音は姫にでもなりたいのか?」

「ばか。藍を近くで見ているのに姫になりたいわけないでしょう。あんなに仕事をたくさんしてたんじゃ身が持たないわ。会議やら剣術の稽古やら東殿での祈りやら巫女仕事やらなんやらかんやら……」

「剣術は私が勝手にやっているだけだけど」

「それでも十四歳のガキんちょがやることじゃないわよ」

「が、ガキんちょ!?」

 確かに琴音は十六歳で藍はまだ十四歳だが、ガキんちょはないだろう。一年ほど前には女になったし、身長だって琴音と大差はない。

「ようするに、私が言いたいのはね――」

 琴音は小さな赤ん坊に教えてあげるような口調で、もったいぶって話す。

「藍はまだ仕事なんてしなくていいのよ!!」

「またそれか……」

藍はげんなりして溜息をついた。もうこの言葉は何度も聞いている。――それでこう言うんだ。

「ガキはガキらしく恋愛をするのよ!」

 やっぱり、と藍は心内で呟いた。琴音は何かと言っては藍を恋愛方面に結び付けたがる。ハッキリ言っていい迷惑だ。

「琴音……私は」

「駄目よ!姫だからなんて言わせないわ。姫だって恋愛ぐらいするものよ!」

「だって」

「忙しいのは分かるけど、空いている日には市で剣なんか見てないで男を探しなさい!」

「それは」

「藍は女の私から見てもものすごい美人なんだから!もったいないったらありゃしないわ」

「あのね」

「まぁ胸はちょっと小さいけど。それ以外は本当に碧の宝と言っても過言じゃないわよね」

「……」

「あーあ。藍が姫じゃなければなぁ。男は遠慮しないのに。わかってる?」

「はぁ?」

「もう少し女の子らしくしたら?衣なんか着るのやめちゃいなさいよ。官服の時はしょうがないけど、常時はちゃんと一衣服を着るの」

 この国では、普通女は足元まである長さの小袖を着る。祭りや祝いの席などでは、大袖を着たりするが、布を多く使う服を着るのは最大級の贅沢なため、庶民などは特にだ。巫女服だけは丈の短い白の小袖と裳との上下に分かれているが、女人や女庶民の服は腰には帯を巻きつけ、寒い時には上から短い表着を羽織る。この服を一衣服いちいふくといい、読んで字の如く、一枚の布から出来ていことからなる名だ。

対して男の服は、どちらかというと巫女服に似ている。もちろん裳を履くわけではないが、上は衣、下は小袴で、筒袖の、これもまた布をあまり使わない服を着る。寒い時には袍を上に着て、その上から帯で腰部分を締める。これを分装服ぶんそうふくといい、裕福なものほど袍の丈が長くなる。

 琴音の言葉に、思わず藍は顔をしかめた。

「――女物は動きにくい」

「動かなきゃいいのよ」

「剣術の稽古が出来なくなる」

「しなければいいわ」

「長になるのに剣ぐらい使えないで自分の身をどうやって守るっていうんだ」

「近衛兵に任せる」

「いないときは?例えば今みたいな時はどうする?」

「大声で呼ぶのよ」

「阿呆か」

 藍は水からあがり、布で身体を拭いた。琴音はいつもめちゃくちゃなことを言う。本当に藍より年上なのかと言いたくなるぐらい、支離滅裂だ。しかし、琴音の言葉には、必ず藍に対する気遣いが含まれているのもまた事実で、だから藍は琴音が好きなのだが。

 ――仕事をしなくてもいい、か。

 琴音の言うことを口内で呟いてみるのは、何故か新鮮だった。藍は巫女としての仕事や、長姫としての仕事が好きなわけではなかった。剣術は嫌いではないが、本物の戦で人を斬る自信など、これっぽっちもありはしないし、現実として考えられない。出来ることがあるとすれば、やはり巫女として国に貢献することだけだろう。自分の立場を考えても、好き勝手は出来ないと思う。藍は姫なのだから。民の税で生きていける。いくら父の芝韋が質素を好んだとしても、民との距離が近かったとしても、その事実は変わらないのだ。

「姫も楽しいさ」

 琴音が用意した女物の服を着て、草履をはきながら藍は言った。琴音は渋い顔をして、同じ言葉を繰り返す。

「姫も楽しいですって?あんなに仕事して何が楽しいのよ?」

 そうだな、と藍は呟いた。

「人は頼られると嬉しいだろ?姫って頼られているから……なんかそんな感じ」

「遊ぶ暇もないのに?」

「だから剣術は私の趣味だって。それが私の遊ぶ時間だよ」

「それだって、結局は藍が長になった時のことを考えてやってるんでしょ?だったらやっぱり仕事じゃない」

「琴音が言うのはただの綺麗事だ」

 藍は山の坂を下り始めた。琴音が慌てて追い掛けてきて、藍の横に並んだ。少しむっつりしているのは、気のせいではないだろう。

「……確かに頼られるのは嬉しいわよ」

 琴音は口を小さく動かしてブツブツと言った。月の光が明るいので、松明を持たずとも道はよく見えた。

「けれど常に頼られるっていうのは、私は絶対嫌」

「そうかな」

「ええ。だってそれって言い方を変えれば、束縛されているってことだもの」

「え?」

 藍は驚いて足を止めた。琴音はそれに気付かない。

「だってそうでしょう?頼られるのが嬉しいと感じるのは、それに応えるからよ。常に頼られれば常に応えなければならない。つまり縛られているってことになるわ。束縛されるのよ」

 ――縛られている?

 琴音の言ったその言葉は、奇妙な感覚を藍に与えた。そんなことはない――と言いたかったが、なぜかすぐには声が出てこなかった。理由はは分からない。そして分からないのに琴音の言葉を否定出来ない自分自身に腹が立った。

「あれ、藍?」

 ようやく藍が足を止めたことに気がついた琴音が振り返った。そんな琴音に、藍は無理矢理微笑みを向けた。

「ただの綺麗事だよ」

 琴音の気を紛らわす為に言ったのか、それとも自分の為に言ったのかよく分からなかったが、藍はもう一度繰り返した。


 夏の風には香りがある――。

 かすかに苦く、けれど甘い。暖かくて熱くて、それでいて冷たいのが、藍の知る夏の風だった。少なくとも鉄の錆びたような臭いはしない。突き刺すような香りではなかった。夏の風は鼻先をくすぐってすぐに去っていくもので、いつまでも留まり続けるのは、藍の知るそれではない。

 戦が正式に始まったのは、二週間前だった。

 紅の軍は、予想をはるかに上回る兵を投入していた。それに気がついた時には、既に南の村のいくつかを制圧されたあとで、兵の数は碧の十万に対し、紅四十万だという。一つの国の人口が約百万だから、紅は国の半分に近い兵を注ぎ込んでいることになるのだ。そこまでして――と、藍は思う。そこまでして紅は何を求めているのだろう。領土か、それとも碧の富や財力か。何れにしても、緑や白を攻めたときは、このように巨大な軍を率いてはいなかったはずだ。國将の圭久や智将の疾風もおかしいと言っている。

「どうか碧をお救いください……」

 東殿にこもり、巫女として藍は呟いた。それが藍の成すべきことで、役割なのだから他には何も出来ない。壁にかかる青竜の掛け軸は、もちろんだが反応しない。この国の守り神と言われるそれは、国にとって尊いものなのだろうが、藍自身には、どうしてもただの紙っぺらにしか見えなかった。巫女がそんなことを言ってはいけないと思う。しかしそう思わずにはいられないほど、碧の状勢はよくなかった。四十万と十万では、いくら碧の民に団結力があっても勝てるはずがなく、開戦からわずか四日で、兵の約三万が失われた。戦場と化した村々の民の犠牲が約三千だから、その間だけで、碧の者の命が、三万三千も消えたのである。

 ――もし本当に守り神がいるなら、碧は負けないはず。

 そう自分の心に諭すがしかし、藍の心中は平常でなかった。四日で三万三千の命が消え、更にはそれから十日も月日が立っているのだ。加えて、新たに五万の民が死んでいる。一切朗報はない。情報として耳に入ってくるのは、各地で敗戦しているという辛い現実だけだった。

 範疇外の事態に、芝韋は兵を募った。国を守るため、民が兵に志願してくれることを、自ら頼んだのだ。無理強いしなかったのが父らしいと思うが、もしかしたらそれは愚かなことなのかもしれなかった。碧の村々はすごい勢いで制圧されていたのだから。兵を増やしたのが開戦四日目のことで、民はこれに応えて戦った。そしてその民の命が今日までに消えている。

「錆びた臭いがする――」

 藍以外誰もいない東殿の中央で、一人呟いた。窓から入ってくる風に微かに含まれる臭気。それを感じ取っているのは藍だけかもしれない。いや、実際の風は澄んでいるのかも。しかし窓の向こうで立ち上る煙を見れば――その煙が立ち上る場所で人の血が流れていると知っていれば、風にのって来るその臭いは当然するものだと思えた。

 藍は唇を噛んだ。紅が……紅が碧の人々を殺している。位や立場などを気にせず、藍のことをなんの遠慮もなく、姫様、と笑って呼んでくれた、藍の大好き人々を。

「喬……」

 彼は都の守り人として発っている。あの煙の下、戦場の最前線で戦っているのだ。どれほど辛い思いをしているだろう。仲間を失い、己自身も命の危険にさらされて。彼を思う琴音はなんでもない風を装っているが、本当は心配で心配でたまらないのだろう、ぼーっとしている時間が増えた。

 ふと、青竜の掛け軸に祭られている剣が目に入った。碧玉の飾りが柄に飾ってある見事な、しかし少し小振りな剣。

 まだ世界に国がなく、荒れ果てていた頃に、神から贈られたという剣だ。賜ったのは確か碧の国の元となる「高原」が出来たのとほぼ同時期、つまり約三千年ほど前で、剣の名を「月華」と言ったと思う。対の剣に、「日華」というものがあったらしいが、それは世界に二つの国が出来たと同時に消滅したはずだ。

 藍は無意識のうちにそれに触れようとしていた手を、慌ててひっこめた。触れることは許されていない。例えそれが長姫でも、巫女でもだ。

「戦いたい……」

 剣を握る代わりに拳を握りしめて呟いた。喬を――剣術の匠を、国の人々を助けたかった。安全な場所でのうのうとしている自分が、酷く穢れている気がした。ただ祈ることは、何もしていないということに等しい。が、藍は何日か前の自分を思い出して、自嘲気味に笑った。ついこの間まで――戦が始まる前までは、夜叉はともかく、人を斬ることなど出来ないと思っていた。殺すという言葉は、自分に無関係だと……。 ところが今はどうだろう。もし紅の兵が目の前にいたら、斬り捨てられる自信があった。それどころか、先程藍は、戦いたい、と言わなかったか。たった二週間でこうも変わる自分に興味の念が沸く。

 ――人が死ぬのは嫌だ。

 ――戦なんかなければいい。

 ――だが碧の人々の命が、少なくとも十五万奪われた。

 ――紅が攻めてくる。

 ――碧は負ける。

「……無理だ」

 それだけは耐えられない。紅に講和する気がないのは知っている。つまり、碧が負けることは、碧の滅亡を意味しているのだ。

 耐えられるわけがない。藍にとって国は我が身で、今だって手足を切り落とされているのに。手足を切り捨てられるなら、碧の国という己と共に殺される方がマシな気さえする。

「鉄の臭いがする――」

 腕を鼻に当て、臭気があたらないようにしながら、藍は繰り返した。東殿を照らす太陽が雲に隠れたのが分かった。

「血が流れているんだ――」

 声が、身体が、震えていた。己の体が裂かれる、悲痛の叫びを抑えているかのように。


 東殿を出ると、空がゴロゴロと音をたてているのに気がついた。先程まで照っていたはずの太陽は消え、灰色のどんよりとした雲が空を覆っていた。鳴っているのは雷だろう。

 ――一雨来るな……。

 ぼんやりとそんなことを考えながら空を見上げていたが、それがいけなかった。廊を曲がった所で、勢いよく誰かにぶつかったのだ。藍はよろめき、そしてこともあろうことか、自分で自分の服の長い袖を踏ん付けて思わずたたらを踏んだ。

「わっ!?」

 だから女物の服は嫌なんだ、と冷静にもそう思う自分がいるのに気がついたときには、廊から落ちて、小庭の地面に横様に倒れていた。頬に砂が当たるのを感じた。

「いった……」

 しかし、日頃の剣術の特訓なんていうものはこういうときに活きるようで、藍が素早く体勢を立て直したのが幸いし、少し膝をすりむいただけだった。

「まぁ藍!ごめんなさい!怪我はない?」

 ぶつかってしまったその人は、驚いているようだったが、その声に藍もまた驚いた。裸足のままで、正殿の東殿側の小庭に座り込んでいた藍は、慌てて立ち上がる。

「だ、大丈夫でしたか?」

わたくしはなんともありません。あなたの方こそ平気なのですか?」

 言ったのは、他ならぬ藍の母親だった。

 かつての碧の巫女、そして今では長の妃として民に慕われている克羅瀬那。元は東の小さな村に住んでいたのだが、芝韋が巡遊していた際に出会い、何やら藍にはよく分からないが、瀬那いわく、大恋愛の末結ばれたらしい。

「はい、平気です。考え事をしていて……母上に気がつきませんでした」

 言って藍は巫女の絹の服についた砂埃を払い、すぐ近くにあった階段から廊にあがった。本当はいちいち回り込むのは面倒なので、飛び乗りたかったが、女物の服では絶対にそんなことは出来ない。特に巫女服なんかになると、とにかくだらだらと長いうえに、何重にも服や帯を重ねられて、重くて移動もままならないくらい大変なのだから。国祭の時のように、頭に簪を嫌というほど付けられた時にはもう――。

「考え事?」

 瀬那は戻ってくる藍を迎えながら聞き返した。藍は頷く。

「はい。その……」

 無意識のうちに、藍は東殿の窓から見えた煙の立ち上る方角、南西を見た。相変わらず煙があがっている。一雨くれば、あの煙も消えてなくなるのだろうか。

「……戦のことですか?」

 瀬那は藍の見た先を見ながら、了解したように言った。藍はうつむいて頷いた。

「あの距離ならすぐにここまで来ます。私達は……私達は戦わなくてよいのですか」

 これはかなりまともな質問だと藍は思ったがしかし、瀬那は黙ったまま藍を見下ろしていた。そんな母を見上げながら、藍は言葉を付け加える。

「母上、私達は克羅です。碧の人々が殺されていくのを黙って見ているわけにはいきません」

 藍が克羅の名を出して自分と母親を指したのは、姓は国の王一族しか持っていないからだ。普通の人々にあるのは名だけで、故にこの世の姓は四つしかない。白西国の仁多にた、緑北国のたちばな、紅の柳瀬やなせ、そして碧の芝韋や、瀬那や藍の姓、克羅。同時に、王が住んでいるみやこの名は、王の姓と同じ名だ。つまり碧の都は克羅となる。

 ――人の上にいるのに、人を見捨てていいのか。

 そういう意味も込めて、藍は半ば睨み付けるような形で瀬那を見た。

「藍……」

 瀬那は溜息をついて娘の名を呟いた。瀬那を五歳ほど老けてさせるような、重苦しい溜息だった。

「いろいろと事情があるのよ……。あなたに話すにはまだ早すぎて――」

「早すぎて?」

 瀬那の言葉を遮り、藍は思わず大声をあげた。

「私はもう子供じゃありません!明後日には十五歳になります!今までだって巫女として父上や四将たちと会議を重ねてきました。自分の身は自分で守れるように剣術の稽古も喬につけてもらいました。私は次代の長です。克羅の長姫です。それなりのことは知らなくてはなりませんし、理解しない、出来ないということがあってはなりません」

「違うのよ。藍、私は――」

「何が違うのですか!」

 興奮で息が荒かった。何も出来ない自分に対するもどかしい気持ちが口をついで飛び出すのを、藍は止めることが出来なかった。母親に当たるのが道理ではないことは分かっている。

 ――だけど母上は私に隠し事をしていた。

 それだけが言葉となって、藍の頭の中でガンガン鳴っていた。道理よりも、そっちの方が占めている。

「この緊急の場で私に隠し事ですか!?母上、国の巫女の役割や、その存在の大きさぐらい知っているでしょう?かつては母上も巫女だったはずです!」

「知りません」

 急にキッパリとした声で、瀬那は藍の言葉を遮った。

「あなたは私の娘です。巫女でも長姫でもない」

 藍は驚いて、口をポカンと開けたまま自分の母親を見つめた。そこまでハッキリと言い切ってしまう瀬那に、藍はある種の感銘を受けていたが、慌ててその考えを否定した。課せられた役目が分からない程、自分は愚かではない。

「藍、私についていらっしゃい。正殿で続きを」

「母上!」

「いいから早く」

 誰かに聞かれたくない、ということなのだろうか。瀬那は藍に背を向けて正殿へと足を進めて行った。何かが決定的におかしい。藍は半分放心したまま、よく回転していない頭で考えた。母がピリピリしているのか、それとも藍が怒っているのか……。勝手に怒鳴っているのは藍だから、おそらく後者が原因なのだろうが、自身は全くそれに気がついていなかった。藍にとって重要なのは、母が隠し事をしていたという事実で、それが裏切りであるという、心の在り方の問題だけだった。

 藍は母と仲がよかった。親として、また過去の巫女として藍に助言をよくしてくれていたし、藍は、何か重大なことを決めるときは必ず母に相談していた。剣術の稽古を始めることについても、市を一人で探索することを決めたのも、母の助言を得てのことだ。そんな風で、藍は瀬那に全く隠し事をしなかった。それを受けてか、あるいは故意でか分からないが、瀬那もまた、藍に隠し事をしなかった。なのに。

 ――戦の最中というこんなときに限って隠し事をするなんて……。

 母の後に続いて、藍は足を進めた。廊から落ちた時に擦りむいた膝が少しヒリヒリする。後で分装服にでも着替えよう、と藍は思った。やはり巫女服は好きではない。

 瀬那は正殿の奥の部屋へ藍をつれて来た。女人や使え人が入って来れないその部屋はこぢんまりとしている。なんのための部屋なのかよく分からないが、藍は気にならなかった。克羅邸にはそんな部屋がごまんとある。

「かけなさい」

 きびきびとした瀬那の態度は、やはりいつもと違う。彼女特有のおっとりとした、周りを和ませるような空気はなく、藍は、母の隠していたことが、事の他重大だということに気がつかないわけにはいかなかった。そう思うと現金なもので、母が藍に言わなかったのには、それなりの理由があり、藍が怒鳴ったのはとても子供じみた行為のような気がして、藍は急に申し訳ない気分になって、うなだれた。

 大人の仲間入りをしていると思っていても、所詮はただの子供なのかもしれない。今更その事に気が付いたという事実もまた、拍車をかける一因だった。

 ――自分が嫌になる……。

 自嘲する余裕もないほど、藍の己に対する落胆は深かった。藍は自分の感情の起伏が激しいことに、随分と前から気が付いていたが、立場上その感情を殺している。そのためか、周りにはよく、長姫は大人ですね、とか、冷静でいらっしゃる、などという言葉をかけられることがあったが、本当はそうではないのだろう。自分でも驚くほどに、藍は先を考えていないのだ。――だからか、今のように後で後悔することが多いのは、と、自分の性格を分析してみたりする。

「――申し訳ありませんでした」

 藍は素直に謝った。

「怒鳴ったりして……あれは幼子がとる行為です」

「あなたの失言は?」

 瀬那の口調は柔らかだったが、棘も含まれていた。藍は口を真一文字に結んでいたが、息を大きく吸った。

「私はもう子供じゃないと言いました。私の――失言です……私はまだ子供……です」

 納得していても、認めるのは悔しかった。無意識のうちに拳を握りしめているのに気がつき、藍は慌てて平静を装ったが、瀬那は全て見透かしているようで、藍と同じ黒真珠の瞳でじっと見ていた。刺すような視線が痛かった。

「藍、世界の創造を説明なさい」

「は?」

 しかし、いきなりの言葉に、藍は間の抜けた声をあげて母を見上げた。

「世界の創造……ですか?」

 瀬那は身動き一つせずに視線を注いでいる。無言で促す瀬那を見て、藍は困惑しながらも答えた。

「――世界が出来たのは何千年も前で、出来た当時はバラバラでした。地祇ちぎは暴れ回り、人々はただ戦いを繰り返すばかりで、国も村もなく、滅びかけていました。そこへ、二人の神が現れて――」

 碧の民だけではなく、この話は紅、白、緑の世界中の国々の人々が知っている。世界を一つの国に統一すべく、その二人の神は、武器でもって悪神や夜叉を討ち取っていた。が、うち一人が、数少ない善の神である天神あまつかみをその武器でもって滅した。その神は悪となり、もう一人の神が善となって互いに一つの国を造った。善の神が造った国は「高原たかまがはら」、悪の神が造った国は「葦原あしはら」と名付けられ、世界は一つになることなく始まりを迎えたのだ。

 藍がそれを言うと、瀬那は視線を逸らした。なんだかわざとそうしたように見えたが、あえてそれは追求しなかった。

「世界の創造と今回の話となんの関係があるのですか?」

「――百年前、ある予言が四大国に伝わりました」

「……?」

「緑北国から全ての国へ。国交のない我が国にも伝えられた程、重大な予言が国の王家だけに伝えられたのです」

「はあ……」

「あなたは知らないでしょう?」

 何の事だか分からなかったので、藍は頷いた。

「その二つの神がもう一度甦るという予言が下されました」

「……へ?」

 ものすごく重大な話であることは分かったが、いまいち理解出来ずに、何度も気の抜けた返事をする藍を見かねたのか、瀬那は溜息をついた。

「……聞いているのですか?」

「聞いています……でも……甦る?」

 なんとなく回転して来た頭で、藍は少しずつ考えをまとめていく。

 ――百年前?

 そういえば、夜叉が増加し始めたのも、戦が多くなったのも、確かこの頃からだったはずだ。

 ――じゃあ今は?

「……最近甦ったとか……そんなことはないですよね?」

「……あなたに言わなくてはならないのはそこなのです」

 急に藍の心臓の鼓動が速くなった。『不吉』は唐突にやってきて藍を覆い、同じく唐突に去って行った。残ったのは果てしない不安だけだった。

「紅と碧の戦の原因はそこにあります。これは予測ですが、紅はその二つの神を探し出し、自分のものにするか……あるいは殺すかして、一つになると予言された世界を、奪い取る気でいます。白を攻め、緑を攻めたのもそのため。世界中を回って探している」

 藍は答えなかった。答えられなかった。不安は姿を変え、恐怖という『不吉』以上のものに変わる。しかし信じない――信じるものか。

「幸いな事に、まだ二つの神は見つかっていません。ですが――」

 瀬那は気が付いていない。当たり前だが、過去の巫女という、同じ立場だった者として、藍は勝手ながらも、ありえないと思った。瀬那は話を先に続けようとしているが、藍の耳には全く入ってこなかった。

――来る。

誰かが藍の中で言った。藍自身も分かっていることだったが、あまりの衝撃に身体が言うことをきかなかった。藍に恐怖を与えるほどの群れとなって、それは沸いて出て来たのだ。

 ――来る。

「……分かっている」

 頭の中で何かを言うその者に、藍は声に出して返事した。途端、藍は叱咤されたように勢いよく立ち上がった。いきなりのことに、瀬那が驚いて目をしばたいた。

「藍?」

「母上、話す暇はなくなると思います。きっと手が回らない」

「何を……?」

「紅の軍よりやっかいなものが現れました」

 瀬那は怪訝そうに額に皺を寄せていたが、その表情は、見る見るうちに恐怖へと変わり、藍と同じように立ち上がった。蒼ざめた顔色は、彼女の肌の白さを一層際立たせた。

「まさか……」

 対象的に、笑みを浮かべているのは藍だった。恐怖という点では変わらないはずなのに、こうも表情が違うというのはおもしろいと、藍は単純にそう思った。ただ、自分が泣きそうな目をしていることだけには気がつかなかった。

「――夜叉です」

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