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千穂と杏奈は幼い頃より、かなしい時にだけ会うことにしている。それも、他の人に背負わせてはいけないような深いかなしみのある時だけである。頻繁に会ったり、二人で暮らしたりはしない。二人ともさみしがりのくせに一人でいるのが自然になっている。姉妹でさえ、全身で寄りかかることも、また受け入れることも、しないというよりする術を知らないような二人である。
今回は千穂から電話して会うことになった。しばらく杏奈の家に泊まってもいる。
千穂のかなしみは、四度目の死産だ。みじめな胎児を見知らぬ看護婦に取り上げられるのもかなしいと、千穂は一度目の妊娠で知ったから、それからの二度は妊娠が分かると杏奈の家にしばらく泊まり、取り上げも頼んできた。
海に臨むこの家に、杏奈はつい最近引っ越した。千穂は今回の死産のことではじめて訪れた。
最初、千穂は遠くからその家を見つけて、杏奈の暮らす家らしいと、温かく微笑んだ。小作りで純白の可愛らしい家だった。傍まで歩いて行くと、家の前に杏奈がしゃがみこんでいた。
「なにしてるの」
千穂が聞くと、杏奈は白い砂に目を落としたまま、
「貝殻拾ってる」
と、熱心さのあまり素っ気ない口ぶりだった。幼子の言葉のような無垢な響きで、千穂の胸はやわらいだ。曇り空がゆっくりと晴れていくように、疲れた心が静かに慰められるのを感じた。
千穂はまたささやかな家を眺めて、貝殻を拾ったりしながらここに暮らしている杏奈を想い、自分とはすごい違いだと、なんとなく可笑しくてひとり笑った。千穂は家もない。男のところを泊まり歩いている。それもまたお似合いだと彼女は自分で思った。
四度も妊娠したが、一度として相手の分かる妊娠はなかった。しかし千穂は相手を突き止めようとしたことはないし、また多くの男の誰かに父となるのを懇願したこともなかった。そもそも産もうと思ったことがない。
一度目の死産の時には、当時まじわりのあった男の一人に、病院代を無心したことがあった。彼女は金を持たずに暮らしているからである。
金を無心されてはじめて妊娠を知った男は、千穂の心の動きを訝しんだ。
「どうして妊娠が分かった時に言わなかった。俺の子だったかもしれないのに」
「言ったら、メロドラマみたいに喜んでくれた?」
千穂が男の髪を弄りながら茶化すようにそう言うと、男はそれには答えないで、
「他の男の子かもしれないから言わなかったのか?」
「言う理由がないもん」
「理由がないって、お前……」
「流す気もなかったけど、産まれたって育てる気もなかったもん」
それは彼女の本心だった。身ごもっていると分かった時から、少しも揺れていない感情だった。たった一人で流されるがままにふらふらと生きてきた。子どもができても、そして産まれさえしても、それは変えない、というより変えられないだろうという気がした。そんな自らの運命に抗うには、彼女は幼い頃からむなしさに馴れすぎた。
「死んでくれて良かったか」
男が千穂の胸に触れながら言った。
不感の千穂は、いつものように乾いた感触だけをうけながら、ふと胎児の姿が蘇った。メカニックな銀色の手術室、無機的な看護婦の面差し、清潔な手袋の上に横たわる小さないじらしい胎児、その初々しい薔薇色の肌、美しい青の血管……。
「よかったなんて、そんなわけないじゃない」
彼女は身体を震わせて呟き、すがりつくように男の肌を舐めた。唾液と涙で男の肌を濡らした。いつも空虚な投げやりで、倦怠にまどろんでばかりの千穂の、滅多にない涙であった。
産まれても育てる気がないというのが彼女の本心であるのと同じように、涙もまた彼女のまぎれもない真実であった。
身体の痛みがはじまった時も、医者に死産だろうと宣告された時も、彼女は味気ない夢を見ているようでどうでもよかった。しかし、腹で死んだ子を目にした瞬間に、彼女はかなしみというものにはじめて出会ったような気さえした。泣くことも、みじろぐこともない胎児を、痛みの余韻で霞む眼でぼうっと見ながら、ああ、わたしはひとりか、と胸で呟いた。はじめて魂の底から孤独を知ったようだった。新鮮なさみしさだった。これまでのさみしさはさみしさではなかったのだと思った。
いつしか、生活のふとした時に、千穂のなかで胎児の姿が蘇るようになった。男の家の小さな観葉植物に水やりをしていて、下町のアパートのベランダに揺れる純白のシャツを目にして、男の咥える煙草の煙をぼうっと眺めて、夜中の駅の無人のホームにぽつんと立っていて……ふと気がつくと、胎児は泣きも身じろぎもしないまま、霧のようにぼうっと霞んで浮かんでいた。はじめのうちはその度に泣き伏し、そしてそのうち、涙も枯れた。
自分の家と言えるところなく育ったのは、千穂も杏奈も同じだが、養家はまるで違った。それが千穂のさみしさを穢れさせて、杏奈のさみしさを清潔にした。
千穂は養家で義理の父親から男を教えられた。人生も男のもとを泊まり歩いているようなものだった。
杏奈は養家で虐げられはしなかったが、愛されもしなかった。物心つく以前から十八まで暮らした家だけれど、誰かと言葉を交わしたことはないと、千穂は彼女から聞いていた。しかしそれを話す杏奈は、淡々としていた。
「あんまりさみしいと、かなしくもなくなっちゃう。死んだ人って笑いも泣きもしないけど、こんなに風に静かな気持ちなのかな」
昔から杏奈のよく言っていたのを、千穂は死産をしてから、時々思い出すことがあった。杏奈は冷淡な生のなかで、自分よりもはやく孤独の深淵をのぞいていたのかと気付いた。唯一無二の肉親である杏奈の心すら、今の今まで知らずにいた。千穂はそれをかなしむでもなく、ただただぼんやりと、さみしかった。
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