桜の蕾の匂える朝に
しゃくさんしん
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空いっぱいに光る星を、千穂は生まれてはじめて目にした。雪が空に凍りついて静止したたような白い光りは、冬の透明な夜気のために澄んでいて、さみしい美しさだった。
また近いうちに子供を死産する心が、星明かりに映るのかもしれなかった。
彼女は身ごもっている。腹の膨らみもまだであるが、過去に三度、息のない小さな胎児を産んだのも、腹の膨らまぬうちだった。今回も死産だとはじめから諦めている。
「どう、お姉ちゃん。ここは星が綺麗でしょ」
千穂が窓に寄りかかっていると、杏奈がココアの入ったマグカップを渡した。千穂はそっと一口飲んで、
「だから杏奈は、一人でこんなところに住んでるの?」
家は、海を目の前にした砂浜に、一軒だけ小さくぽつんとある。
「さみしくないの」
「さみしいけど、しょうがないよ、どこにいたって。それにここは春が綺麗だから」
「そんなの、それこそどこでだって春は綺麗よ」
「ここはひときわ綺麗なの。春に美しい顔を見せるのは、桜の木と広い海でしょう? ここにはどちらもあるもの」
「どうしてそんなに春を好きなの」
「だってわたし春生まれだもん」
杏奈が当然のように言うので、千穂はひょっと首を傾げた。父も母も知らない姉妹で、誕生日も分からないまま育ってきたのに、杏奈が唐突に自分の生まれた季節への愛を口にする。
千穂が不思議に思っているのを、杏奈は表情から読み取ったのか、こう言った。
「だって、考えたことないの? わたし、名前が杏奈なんだから、きっと春生まれ」
「そっか、名前でわかるのか。素敵なこと思いつくね、杏奈は」
千穂は深く感心した。
いつもそうだ、と彼女は思った。同じようにはかない身の上でも、杏奈は蛍の光のようで、自分は枯れて萎びた花びらだ。ふと杏奈の髪も目についた。彼女の髪は黒光りを湛えて麗しく、自分の髪は荒んでいる。
「お姉ちゃんは、穂ってつくんだから、きっと秋生まれだね」
杏奈が言った。
「わたしね、春に生まれたって知る前から春が好きなの。お姉ちゃんも秋が好きでしょ?」
千穂は、暗い海がおだやかに波打つのを眺めながら考えた。そういわれれば確かに好きな気がする。けれど、本当のところ、どうでもいいようでもある。
彼女にはすべてがそうだった。好きな気がして、どうでもいいことばかりだった。
「どうだろ。好きでも嫌いでもないよ」
そう言ってから、思いつきを口走るような軽やかさで、
「でも、杏奈は春が似合うとわたしも思うな。ほっぺは桜色だし、ほかのとこはみんな真っ白であけぼのの山際みたい」
「もうっ、お姉ちゃん、そんなこと言って……」
声を細める杏奈を、千穂は振り返った。
肌の色をあからさまに言われた恥ずかしさか、春に譬えられたうれしさか、杏奈は俯きがちにはにかんでいた。
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