#14 生きていくうえで本当に大切なことは
『ワラムクルゥ〇二』では年が明けて、俺は二度目の一九八七年を迎えた。
一月十五日、最後の依頼を実行に移すべく、俺はミサキさんに会いに『クロスロード』に向かった。
こちらの世界に来てからミサキさんに会うのは初めてだった。この世界での、これまでの俺とミサキさんとの関係性がよくわからなかったから、念のためノリちゃんとリンコくんに応援を頼んだ。その甲斐なく、依頼自体は失敗した。それはある程度予想していたことだったが、ひとつ想定外のことが起こった。
どうやら俺はミサキさんに好かれてしまったようだ。
さすがにそこまでは考えが及ばなかった。
依頼されたとき、ミサキさんは同じ大学の男と付き合っていた。『ワラムクルゥ〇一』では彼女が誰と付き合っているかなんて知らなかったし関心もなかったが、調べてみるとその男のことは知っていた。タカナシの兄の知り合いで、俺も噂を聞いたことがあった。手当たり次第に女の子に手を出して、トラブルばかり起こしている奴がいると。
ミサキさんは、依頼主とデートしたあと、その男とはきっぱりと別れた。そして、夕方からのシフトのときは、校門の前で俺を待つようになった。俺たちは駅まで歩き、そのままミサキさんはバイトに行った。
正直いって俺はそれどころではなかったが、ミサキさんを無下にはできなかった。『ワラムクルゥ〇一』でイサミと最後に会って話をした人間である以上、ミサキさんの運命を変えることが多少なりともイサミの運命を変えることにつながるはずだ。俺はミサキさんと付かず離れずの距離を維持することにした。
それともうひとつ。
俺はミサキさんに確かめたいことがあった。
あの日、『ワラムクルゥ〇一』での二月十一日。イサミと商店街で会って、ミサキさんはイサミから質問された。
――今まで、生きててよかったって、思ったことありますか。
そとのき、とっさにミサキさんは答えることができなかったけど、数秒後にはその答えを用意することができた、といっていた。『ワラムクルゥ〇一』で俺はミサキさんからそう聞いたけど、肝心の答えの内容を聞きそびれていた。そのときのミサキさんの答えとは、何だったのか。
俺はそれが知りたかった。
だから、ミサキさんに尋ねた。
「今まで、生きててよかったって、思ったことありますか」
学校から駅までのバス通りを、俺たちはてくてくと歩いていた。
ミサキさんは数秒間考えて、そして話し始めた。
「私がこれまで付き合ったなかで最長記録、当ててみて」
「六か月?」
「惜しい。八か月。そのとき私は大学二回生で、相手は会社員だった。既婚者で単身赴任。つまり、不倫ね。私たちはお互い一人暮らしだったから、夜はたいていどちらかのマンションに泊まっていた。向こうのマンションのほうが広かったから、途中からはほとんどずっと彼の部屋に入り浸っていたわ。奥さんは一度も来なかったから、私物もどんどん増えていったな。あれは、付き合って……どれくらいかなぁ。半年くらいだと思う。私たちはよく行くお店でコーヒーを飲んでいた」
ちょっと長くなるよ、この話。いいかな。
ミサキさんの言葉に俺がうなずくと、彼女は話し始めた。
その店は雑居ビルの三階に入っていた。
俺はそのビルの存在は知っていたが、中にそんなお店が入っているなんて知らなかった。
店は本来雑貨屋で、外国で使われていた小物や食器、古い洋雑誌などが売られている。女性には人気の店だった。
店の奥に小さな喫茶コーナーがあって、そこでコーヒーを飲めるようになっていた。
ミサキさんと当時の恋人はよくその店に通ったけれど、喫茶コーナーでコーヒーを飲んだのはその日が初めてだった。
ビルのすぐ脇を高架になった高速道路が走っていて、そこを通る車の音がかすかに店の中にまで聞こえていた。特に喫茶コーナーは高速道路に近い間取りになっていて、うるさいとまではいかなくても、車の音は耳に届いた。
そのお店の窓は二か所。
喫茶コーナーの西側の壁にある高速道路に面したすりガラスの窓と、南側の壁にある透明なガラスの大きな窓。南側の大きなガラス窓からは、町の景色が見渡せた。
ふたりは小さなテーブル席についた。
ミサキさんのすぐ右側に高速道路に面した窓があって、向かいに座っている恋人の背後に大きなガラス窓があった。
コーヒーが運ばれてきて、ふと会話が途切れたとき、高速道路を大型車両が通過していった。
すりガラスの窓で、しかも高速道路には側面に遮蔽板があるから、車両そのものを見たわけではないけど、そのタイヤの音で、ミキサー車のようなかなり大きな車両だろうとミサキさんは思った。
それは、ザザザザザ――という独特のかすれた音だった。
その車が通過したとき、ミサキさんの向かいに座っている恋人が、背後の窓を――高速道路側ではなく、南側に面した町を見渡せる大きなガラス窓を――振り返った。
彼は窓の外の景色をひとしきり眺めたあと、少し小首をかしげて、また何事もなかったようにミサキさんのほうに向きなおった。
「ここで問題です。彼はなぜ、背後の窓のほうを見たのでしょうか」
彼はなぜ背後の窓のほうを振り返ったのか。
もしも、音に反応したのなら、高速道路側の窓のほうを向くはずだ。
背後の窓からは高速道路はいっさい見えないのだ。
ミサキさんの出題した問題に、もちろん俺は答えられず、ミサキさんのほうも俺から回答をもらえるとは考えていなかったから、彼女はすぐに話を続けた。
ミサキさんがほとんど毎日のように通っていた恋人のマンションにはベランダがあった。そしてそのベランダにはちょっと変わった床材が使われていた。
急に雨が降り出すと、そのベランダは変わった音を立てた。
雨粒がベランダを叩く特徴的なその音は、ふたりにとってはなじみの深い音になった。
それは、ザザザザザ――という独特のかすれた音だった。
ミサキさんの恋人は大型車両のタイヤの音を聞いて、雨の音だと勘違いしたのだ。
彼は突然雨が降り出したと思った。
普段聞き慣れた雨の音がしたから。
だから、外が見える窓を振り返った。
それはほとんど条件反射的な動作だったのだろう。
つまり彼は、雨が降っているかどうかを確かめるために、背後の窓を振り返ったのだ。
「私はそのとき思ったの。
今、彼がどうして窓の外を見たのか。
その理由を知っているのは世界中でたったひとり。
世界中で私だけだって。
その瞬間よ。
その瞬間が、今まで生きててよかったって、思ったときよ」
そういって笑ったミサキさんを見て、俺は初めて彼女のことを素敵な人だと思った。
「他愛もない話よ。ささいで、取るに足らない話」
ミサキさんはそう付け加えた。
確かに、他愛もない話だ。
たぶん、『ワラムクルゥ〇一』で高校生の俺がこの話を聞いても何の感銘も受けなかっただろう。今だって、ミサキさんが伝えようとしていることを理解しているかどうかは怪しい。この歳になってラノベなんか読んでるボンクラにとっては、なかなかハードルが高いエピソードだ。
では、イサミはどうだろう。
高校生のイサミは、今のミサキさんの話を聞いたら、どう思っただろう。
そんな瞬間が訪れるのなら、この先生きていくのも悪くないかもと思っただろうか。
俺にはわからない。
やがて駅に近づくころ、ミサキさんは俺にこういった。
「生きていくうえで本当に大切なことは、とてもささいな物事の中にある」
「それ……誰の言葉ですか?」
「失礼ね。私のよ」
俺はミサキさんのその言葉をしっかりと心の中に刻みつけた。
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