#13 彼女が最後に交わした言葉は

 あれは、イサミが死んでどれくらい経った頃だろうか。『ワラムクルゥ〇一』でのことだ。たぶん一ヶ月か二ヶ月、まだ冬の制服の上にジャンパーを着ていたからせいぜい三月までだろう。学校が終わり、校門を出てすぐのバス停に見覚えのある女性が立っていた。

 ミサキさんだった。

 彼女は俺を待っていた。

「彼女のこと、聞いたわ」

 俺たちはバス停のベンチに並んで座った。

 バス停には俺以外にもバスを利用するたくさんの生徒がいたはずだが、不思議なことに周りに誰かがいたという記憶がない。この時のことを思い出すたび、俺とミサキさんだけが世界から取り残されたように誰もいないバス停のベンチにぽつんと並んで腰かけている光景が頭に浮かんだ。

 俺はいつの間にか『クロスロード』でミサキさんと言葉を交わすようになっていて、イサミも俺を通じてミサキさんと知り合った。俺たちは『クロスロード』以外でミサキさんと会ったことはなかったが、店で会えばお互いに音楽の情報を交換し合っていた。

 最初は一方的にミサキさんからおススメのレコードを紹介してもらうだけだったが、俺たちはどんどん新しい知識を吸収していって、ミサキさんと対等に音楽の話ができるようにまでなっていた。

「キミにはいっておいたほうがいいと思って」

 そういってミサキさんは話を切り出した。

 二月十一日の昼過ぎ、ミサキさんはバレンタインデーのチョコレートを買うために、カラタチ町の商店街に向かった。そして、商店街の入り口でイサミに会った。イサミもチョコレートを買いに来たことがわかると、二人はそろって商店街のケーキ屋を目指した。そこのチョコレートは見た目も可愛くて人気だった。

 残念ながら二人が目を付けたチョコレートは最後のひとつだった。彼女たちはさんざん譲り合た挙句、結局じゃんけんで決めることになって、ミサキさんが勝った。お互いに別々のチョコレートを買った二人は店を出ると、しばらく商店街を一緒に歩いた。

 イサミと外で会うのは初めてなのに、なんだか昔からこんなふうに二人並んで歩いたことがあるような、そんな気がしたと、ミサキさんは俺に語った。

 好きな人にあげるチョコレートを買ったばかりだというのに、あまり幸せそうじゃないイサミの表情が気になって、ミサキさんは尋ねた。

 ――どうしたの、なんだか浮かない顔だけど。

 ――え。いえ、そんなことは……。

 そのとき、二人の耳に小気味良い鈴の音が響いた。

 カラン、カラン。

 そして、威勢のいい掛け声。

 ――おめでとうございます、三等賞です!

 二人は足を止めた。ちょっとした人だかりができている。

 ――イサミちゃん、さっき引換券もらわなかった?

 ミサキさんは財布の中から貯めていた福引の引換券を取り出すと、イサミがもらった引換券と合わせて枚数を数えた。ちょうど二回分ある。

 ――よし。

 ミサキさんは頷くと、イサミの手を引いて商店街の福引会場に向かった。

 イサミはここでもミサキさんに自分の分の福引を譲ろうとした。でも、今度はミサキさんが半ば強引にイサミに一回分の引換券を握らせた。

 結局、二人とも参加賞だった。

 参加賞のポケットティッシュをもらったとき、イサミはとてもほっとした表情をしていたことをミサキさんは見逃さなかった。

 ――ポケットティッシュがそんなに嬉しい?

 イサミは慌てて首を振った。

 ――いえ。すみません、せっかく譲ってもらったのに。こうやって誰かと福引をするなんて初めてだったから、なんだか嬉しくて。

 ――ふうん。

 ――それに……。例えば、私が一等賞を取ったとします。そしたら、誰かが一等賞をとる可能性を奪ったことになりますよね。

 ――まあ、そうなるわね。でも福引ってそういうものだし。ん? つまり、誰かが一等賞をとる可能性を奪わなかったから、嬉しいっていうこと?

 イサミはちょっと考えてから、答えた。

 ――うまくいえません。たぶん、私は怖いんだと思います。

 ――何が?

 ――何かに向き合うことが。

 しばらくミサキさんは思案して、いった。

 ――それって、スグロ君のこと?

 ――いえ……。ああ、そうですね、それも含めて、いろんなことに。

 この子は普通の子とはちょっと違っているな。ミサキさんはそう思った。

 ――あの、ミサキさん。

 ――何?

 ――ひとつ聞いてもいいですか。

 ――どうぞ。

 ――今までの人生のなかで、生きててよかったって、思ったことありますか。

 ミサキさんはそのとき、とっさに答えることはできなかった。

 当然だ。

 普通の人間は突然そんなんことを聞かれても、とっさには答えられない。

 ただし、ミサキさんもある意味、普通の人とは少しだけ違っていた。

 なぜなら、数秒後にはその問いに対する答えを用意できたから。

 でも、そのときは残念ながら、イサミにその答えを伝えることはできなかった。

 商店街のアーケードが途切れてしまったからだ。

 二人は立ち止まった。

 そこからはお互い別々の方角になる。

 ――すみません。いいでんす、さっきの。忘れてください。

 とイサミはいった。

 もちろん、ミサキさんは忘れてしまうことなどできなかった。だから、こういうつもりだった。

 もしよかったら、珈琲でも飲んで行かない?

 いつものミサキさんなら、迷わずそういっていただろう。

 でも、その日は違った。

 もしよかったら――。

 ミサキさんは喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。

 そのかわり、

 ――じゃあ、ここで。

 ミサキさんはそういって微笑んだ。

 ――はい。じゃあ、また。

 イサミも微笑み返した。

 二人はさよならをいい合って、別々の道を歩き出した。

 その三十分後、イサミは事故に遭う。 

「彼女にさよならをいってから、私、ずっと考えてた。事故のことを知る前から。イサミちゃんがいったことが気になってた。あの子は私に何かを相談したがってたんだと思う。でも、私はそれに応えてあげようとしなかった」

 バス停のベンチで隣に座っているミサキさんは、そういってうなだれた。

「自分でもどうしてなのかわからないの。もしかしたら、相談を受けるのが面倒だったのかもしれないわね」

 たぶんそれは違うだろう。

 ミサキさんは誰かからの相談を面倒に感じる人ではない。まして、年下の女の子からの相談ならなおさらだ。

 今思えば――ミサキさんが俺に対して抱いている感情を知っている今となってみれば、なんとなく想像がつく。たぶんミサキさんはイサミから俺の話を聞かされるかもしれないことに抵抗があったんだろう。イサミにはそのつもりはなかったとしても。

「それに……」

 口を開きかけたミサキさんが何をいうとしているのか、俺にはわかった。

 ストップ。

 そういいたかったけど、その前にミサキさんはいった。

「それに、もしあのとき、私が引き留めていれば、私が誘っていれば……」

 そんなこと思う必要はありません。

 そういってあげたかった。 

「ほんの少し。十分でも十五分でも、ほんの少しの時間でもよかったはずなのに」

 そんなことはありません。

 そういってあげたかった。

 でも、俺にはなにもいえなかった。 

「今さらこんなことをいわれても困るわよね。ごめんね」

 ただ、俺は首を横に振ることしかできなかった。

「わかってる。でもやっぱり私はあなたに謝らなきゃならないと思ったの」

 ミサキさんは俺に向きなおって、頭を下げた。 

「ごめんなさい」

 これが、元の世界で俺が誰かとイサミの話をした最後の出来事だった。

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