#15 俺が向き合わなければならないのは

 そして、二月十一日が訪れた。

 一九八七年二月十一日。 

 その日は朝から快晴で二月とは思えない陽気だった。時折吹いてくる強い風を除けば、絶好の行楽日和だ。『ワラムクルゥ〇一』でもそうだったのか、まったく思い出せないけれど。

 考えに考えた挙句出た答えは、その日はとにかくイサミと一緒にいる、というごくごく当たり前のものだった。

 イサミが事故に遭ったのは午後一時三十五分。ひとまず、その時間をやり過ごせるかどうかが勝負だ。

 俺がイサミを誘った理由はこうだ。

 ――図書館で調べ物をするから手伝ってほしい。

 イサミを誘うための口実として、いろんなパターンを考えた。

 ノリちゃんとリンコくんに誘い出してもらって、どこかで落ち合う、というのが最も安全策だとも思った。でも、今回はできるだけイサミをだますようなやり方はしたくなかった。それに、バレンタインデーのチョコレートを買いに誘い出してもらったばかりだ。イサミに不自然に思われる可能性もある。

 結局イサミはバレンタインデーのチョコレートを買ったみたいだ。

 別にそこまでする必要はなかったのだが、俺はできるだけ『ワラムクルゥ〇一』でのイサミの行動を変化させたかった。

『ワラムクルゥ〇一』でイサミが死んだ日、彼女が俺に渡すためのチョコレートを買ったという事実に俺はずっと囚われ続けていたようだ。

 とにかく、今回イサミを誘う理由に関しては下手な小細工を弄するべきではない、と俺は考えた。

 シンプルイズベスト。

 狙い通り、俺の誘いをイサミはあっさりと承諾した。

 もう少し具体的にいうと、二年生は三学期の期末試験とは別に、各自課題が課せられて自由研究のレポートを提出しなければならない、そのための調べ物を手伝ってほしい、そうイサミにお願いした。

 これは俺のでっち上げだ。

 そんな課題は出ていない。だいいち、期末試験と同時期にそんな課題を出されたら、生徒から大反発を食らうだろう。

 ちょっと調べるだけで、この俺の嘘は簡単に見破られる。でも、イサミはそんなことはしなかった。もしかしたら、俺の嘘を知ったうえで、あえて付き合ってくれているのかもしれない。

 別にそれでも構わなかった。

 イサミが二月十一日に俺と行動を共にしてくれさえすれば。


 カラタチ町には町立の図書館がある。

 俺たちの高校の図書室もなかなかのものだが、それとは比較にならないほど、その図書館は立派だった。建物は広く一階ワンフロアに開架図書が並べられ、隣に広いホールが併設されている。ホールでは読書会やワークショップなどのイベントが毎週のように開催されていた。特に子供に向けた読書支援に関する取り組みが積極的に行われている。

 俺が大学生の時に一度建物の大掛かりな改装があり、以前にも増して立派になった。元いた時間線でも、全国にいくつかある有名な町立図書館のひとつとして、ネットなどによく取り上げられていた。

 俺は午前九時にイサミの家に彼女を迎えに行くことになっていた。

 普通ならどこかで待ち合わせるべきなのだろうが、待ち合わせ場所までにもしも何かあったらと思うと、やはり迎えに行かざるを得なかった。

 イサミは最初は戸惑っていたが、ちょうど図書館への通り道に彼女の家が位置していることもあって、承諾した。

 もちろん、俺が彼女の家まで行くのは『ワラムクルゥ〇一』『ワラムクルゥ〇二』を通じて初めてのことだ。

 イサミの家はこじんまりとした二階建ての一軒家だった。確か兄弟姉妹はいないはずだったから、両親と三人暮らしのはずだ。駐車場には車は停まっていない。閑静な住宅街の一角。休日の朝九時は人の気配がない。

 呼び鈴を押そうと、コートのポケットから手を出したとき、気が付いた。

 今、俺はものすごく緊張している。

 今日がイサミの人生にとってとても重要な日だということはもちろんある。

 しかし、それについてはもう二年近くも意識し続けていたから、今さらそのことで緊張することはない。

 そうではなくて。

 考えてみたら、女の子の家にこうやってデートのお迎えに行った経験が俺にはなかった。ない……よな? うん、なかったはずだ。

『ワラムクルゥ〇一』でイサミと付き合っていた時も、必ずどこかで待ち合わせをして会っていた。

 高校生じゃあるまいし。こんなの別にどうってことないじゃないか。

 必死でそう自分にいい聞かせ、深呼吸をする。

 腕時計で時間を確認する。

 八時五十八分。

 この『ワラムクルゥ〇二』で、スマートフォンが無いということがこんなにも不便だと思った瞬間はなかった。

 嘆いていてもしょうがない。

 よし。

 俺は呼び鈴を押した。

 「はい」

 女性の声。たぶんイサミの母親だ。イサミの声にそっくりだ。落ち着いた柔らかな感じの声質に俺はとりあえずほっとする。

 自分の名前を名乗ると、少しお待ちください、と返答があって、通話は切れた。

 十秒後。

 カチャリ、と玄関のドアが開いて、姿を見せたのはイサミ本人だった。

 イサミの親が出てくることを想定して、挨拶の文句を頭の中で反芻していた俺は少々肩の力が抜けた。

『ワラムクルゥ〇一』以来、久しぶりに見た普段着のイサミは本当に普段着――トレーナーにジーンズ、薄手のコートを羽織っている――で、まあ別にデートではないから当然なのだが、それが逆にとても可愛く見えた。

 イサミはポシェットから鍵を取り出すと、振り返ってドアの鍵を閉めた。そして、低い階段を数段降りてきて小さな門扉を開け、俺のそばに立った。

「いきましょうか」

「ああ」

 門扉を閉めているイサミの後ろ姿に俺はいった。

「ご両親は?」

「今日は法事で朝から出かけてます」

 なるほど。

 ん? というこうとは。

「さっき、インターフォンに出たのは?」

「私ですけど」

 そうだったのか。

「てっきりお母さんかと思ったよ」

「そうですか?」

「うん。なんだか大人びた声に感じたから」

 歩き出したイサミを追いかける。

 前後左右を確認。車は近くにいない。大丈夫だ。

 さりげなく車道側に出て、イサミと肩を並べる。

「先輩だって、声、大人っぽいです。電話の」

 ちょっと意外だった。イサミが俺のことをそんなふうにいうなんて。

 俺はイサミの横顔をちらっと盗み見た。

 たぶん、ほかの人間ならそのかすかな変化に気が付かなかっただろう。

 でも俺にはわかる。

 イサミは楽しそうにしている。

 彼女はポシェットのほかに、少し大きめのトートバッグを肩にかけていた。

「それ、持とうか?」

 と、俺がいうと、イサミは首を振った。

「大丈夫です。それより、先輩。もっと早くにいっておくべきだったんですが」

 何だ?

 俺は身構えた。

「先輩は好き嫌いありますか」

「え。好き嫌い?」

「食べ物。食べられないものとかありますか」

「あ、ああ、す、好き嫌いね。いや、別にないよ。何でも食べる」

「よかった。あの、実は私、今日、お弁当を作ってきちゃったんです。でも、もしどこかで食べる予定とかあったら、全然かまいませんから。私、今晩食べちゃいますので」

 俺はどう反応していいのか、一瞬戸惑った。

「いやいや、そんなの全然考えてなかったから。食べたいよ、すごく。カグヤさんのお弁当」

 イサミは無言でうなずいた。心なしか、少し顔が赤い。

「カグヤさん、料理作ったりするの?」

『ワラムクルゥ〇一』で、イサミからそんな話はひとことも聞いたことがなかった。もしかして、それも俺が起こした変化の一つなのか? いや、まさか。そんなことをあれこれと考えていると、イサミがいった。

「おか――母に手伝ってもらいました。私はあまり得意じゃありません。あの、だから、そんなに期待しないでください」

 イサミは自分のスニーカーのつま先をじっと見つめながら、歩いている。

 やばい。

 なんだか泣きそうになってきた。

 今日、俺はいつにも増して冷静でいなければならないはずなのに。

 そこで俺はようやく気が付いた。

 今まで俺は、とにかく今日、イサミが事故に遭うのを回避しなければならないということばかり考えていた。

 もちろんそれは間違ってはいない。

 しかし、大事なことはそれだけではなかった。

 今日、俺がイサミと一日中一緒にいるということの意味。

 それは、俺がイサミに対する自分の気持ちに向き合わなければならないということだった。

 それは、これまでなるべく避けてきた問題でもあった。

 だが、もうそういうわけにはいかない。

 俺は覚悟を決めた。

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