#10 彼女と交わした約束は

 入学式からこっち、俺はあえてイサミに近寄らないようにしていた。もともと二年生と一年生の教室は離れていたから、廊下で偶然会う確率は低かったが、極力一年生の教室の近くには行かないようにしていた。

 イサミはけげんな表情を浮かべてこちらを見ている。

 三十数年ぶりに、イサミの顔を間近で見た。夕陽を浴びて、オレンジ色に染まっている。あのときと同じだ――そう思った瞬間、彼女との記憶が一気に俺の脳裏に噴出した。

 彼女と過ごした時間、彼女の表情、彼女の言葉が大量のフラッシュバックとなって襲ってきた。

 甘い夢。

 そのフラッシュバックは、客観的に見ればほんの一瞬の出来事だったが、俺にとっては永遠といってもいい時間だった。

 俺は本当にいろんなことを忘れていた。

 そうだ。

 俺は彼女と約束したことがあったんだ。

 そうだった。この子は――俺の目の前にいるこのちっちゃな女の子は、どうしようもない違和感を抱えながら生きていた――いや、生きているんだ。

 突然、腹の奥底から何かが喉もとにせりあがってきた。嗚咽が漏れそうになるのを、俺はなんとか歯を食いしばってこらえた。それでも、全てを押さえ込むことはできなかった。視界がぼやけて、俺の頬を涙がつたった。

 驚いた顔で、イサミは俺を見つめている。

 それはそうだろう。見ず知らずの人間が突然目の前で泣き出したら、普通は驚く。

 固まっているイサミの脇をすり抜けて、俺は足早にその場を立ち去った。


 カグヤイサミを初めて見かけたのは、夕暮れ時の歩道橋の上からだった。

 元の時間線『ワラムクルゥ〇一』で、俺が高校二年生の五月のことだ。

 高校には最寄りの駅からバスを使う生徒が多い。でも、俺はよく学校から駅まで歩いて帰っていた。徒歩で四十分近くかかるが、ぎゅうぎゅう詰めのバスよりも性にあっていた。サッカー部の部活のない日は必ずといっていいほど、俺はよく駅までの道を歩いて帰った。

 正確な日にちは憶えていない。部活がなかったその日、学校が終わると俺は駅まで歩き、駅に近い歩道橋の上から何気なく下の歩道を見下ろした。

 うちの学校の女子生徒が歩道に並んで止めてある自転車の前に立っているのが見えた。彼女はあたりをきょろきょろと見渡している。歩道には人通りが途絶えていた。

 なんだろう。

 自転車泥棒には見えないが……。

 歩道橋の上で足を止めて見ていると、彼女は自転車のカゴに手を伸ばして何かを取った。

 体に隠れて手元がよく見えない。

 彼女は少し離れた場所にあるもう一台に近づいて、またカゴから何かを取った。

 今度は見えた。

 それはジュースの空き缶だった。

 彼女はさらに二台の自転車のカゴから空き缶を取り出した。

 そして、両手でジュースの空き缶を抱えるようにして持ち、近くのゴミ箱に捨てた。

 もう一度、あたりを見渡して、誰も見ていないことを確認すると、足早に去っていった。視線を上げなかったから、歩道橋の俺の姿には気がつかなかったみたいだ。

 彼女は何をしていたんだろう。

 たぶん、あのジュースの空き缶は、誰かが通りすがりに止めてあった自転車のカゴに放り込んだものだ。

 とういことは、彼女は他人の自転車のカゴに入っているゴミをわざわざ捨ててあげていたということになる。

 なぜそんなことをするのか、俺にはよくわからなかった。

 それからしばらく経って、再び彼女を見かけたのもその歩道橋だった。今度は彼女は歩道橋の上で立ち止まり、遠くの何かを見つめていた。

 彼女が何を見ているのか気になった。

 視線を追ってみたが、低いビルが立ち並ぶなんの変哲もない地方都市の風景があるだけだった。

 俺は彼女に気付かれないようにそっと足を止めて、しばらく彼女の後ろから街並みを眺めてみた。

 ちょうど、夕陽がビルの向こうに沈もうとしてるところだった。

 そのときまで、俺は夕陽が沈むところをじっと眺めたことがなかった。

 見ていると、意外と沈むスピードが速い。

 太陽はふたつのビルのあいだに挟まれてみるみるうちに、落下して行く。

 両側のビルに反射した夕陽が窓ガラス一面をオレンジ色に輝かせていた。

 いきなり彼女が振り返ったので、俺は慌てた。彼女の顔も夕陽に染まっていた。

 じっと俺を見つめる彼女の視線にどうしていいかわからず、立ち去ろうとしたそのとき、彼女の注意が歩道橋の下に向いた。

 下の歩道から、複数の若い男の声が聞こえてきた。

 俺も彼女と並んで歩道を見下ろした。

 他の高校の男子生徒が数人、大声で喋りながら歩道一杯になって歩いている。

 みんな、缶ジュースを飲んでいた。

 彼らは、歩道に停めてある自転車のカゴに、ジュースの空き缶をぽいぽいと放り込んでいく。

 彼女はこの空き缶を捨てていたのか。

 確かに、実際に目の前でこういう光景を見ると、あまりいい気はしない。でも、普通わざわざ他人の自転車のカゴに入っているゴミを捨てるだろうか。

 俺はちらりと、彼女の顔を盗み見た。

 その表情を見た瞬間、俺の腹は決まった。

 歩道橋の階段を足早に降り、彼らが捨てていった空き缶を自転車のカゴから取り出すと、前にイサミがやったように、近くのゴミ箱に捨てた。

 そのとき、俺にどこまで下心があったのか、もう思い出せない。でも、単に下心だけではなかったはずだ。彼女が既に立ち去ってしまっていても俺は同じことをしただろう。

 彼女は立ち去っていなかった。

 歩道橋の階段を降りきったところで、じっと俺のことを見ていた。

 俺は彼女のそばに歩いていった。

 そのあと、俺たちがどういう会話を交わしたのか、残念ながら思い出すことができない。

 でも、とにかく俺たちはお互いの名前を名乗りあった。たぶん、途中まで一緒に帰ったんだろう。そこでどんな話をしたのか、まったく記憶にない。

 でも、歩道橋の下で、近づいてくる俺を見ている彼女の表情は憶えている。

 少し驚いて、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。

 それは例えば、まったく期待せずに読んだ小説が思いのほかいい感じだった、そんなときに人が浮かべる表情だった。

 それからどれくらいあとのことなのか、これも正確には思い出せない。あのあと、学校で見かけるたびに俺は彼女に声をかけ、ある日、思い切って交際を申し込んだ。

 彼女はしばらく考えてから、こういった。

「たぶんもうわかっていると思いますけど、私、ちょっと変ですよ」

「うん。大丈夫、だと思う」

「ごめんなさい、ややこしい奴で」

「いや……」

「ひとつ約束してほしいことがあります」

 約束? なんだろう。こんな場合に女の子が約束してほしいことなんて想像もつかず、緊張のあまり、俺には無言でうなずくことしかできなかった。

「先輩とお付き合いして――すぐじゃなくてもいいですから、いつか、この世界が生きていくのに値するような素晴らしい場所だと私に証明してほしいんです」

 今の俺なら、こんなことをいいだす高校一年生の女の子のメンタリティを本気で心配してしまうところだが、当時の俺にはもちろんそんな余裕はなく、

「わかった、努力する」

 と、答えていた。

 それがどれほど難しいことなのか、知りもしないで。

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