#11 甘い夢というものは

 カグヤイサミは本をよく読む子だった。

 俺も自分では本をよく読むほうだと思っていたが、イサミは俺に輪をかけて読書家だった。

 好きな女の子が真剣に本を読んでいるところを眺めることがどれだけ幸せなことなのか、俺は初めて知った。特に何をするでもなく、本を読んでいる彼女を見ているだけで十分幸せだった。

 大げさにいうとそれは夢のような時間だった。

 甘い夢だ。

 甘い夢というのはこういうものでできているんだ、と俺は思った。

 ページの文章を追って、彼女の目が上から下に動く。

 人が文字を読むとき、眼球は滑らかに動くのではなくて、かくかくと小刻みに動くということも生まれて初めて知った。

 少しずつ小刻みに降りてきた視線がページの下にたどり着くと、今度はすっと上に移動する。

 その繰り返し。

 たまにひっかかる箇所が出てくると、眉間に皺を寄せて、いったん停止する。

 しばらくして、また移動を再開。

 長い睫毛の下のそんな目の動きを、俺は隣で本を読むふりをしながらよく盗み見ていた。

 今から思えば可愛いものだ。

 でもそんな些細なことが、これまで生きてきた自分のちっぽけな世界を根底から揺さぶるくらい重大な発見に思えた。

 俺と一緒にいて、彼女は楽しかったのだろうか。

 この世界が生きていくのに値するような素晴らしい場所だと、一瞬でも思っただろうか。

 たぶん、思わなかっただろう。

 結局俺は約束を果たせなかった。

 当時の俺には、彼女と世界とを強く結び付けるだけの力はなかった。

 イサミともう少し長く付き合っていたら、もしかしたら、約束を果たせたかもしれない。

 高校を卒業して長い年月が経ち、四十九歳の今になるまで、数人の女性と付き合って、それなりの経験を積んできた。結婚はしなかったが、誰かと長い時間を共有することでのみ体験できる、特別な瞬間というものがあることも知っている。

 たとえこの世の中に嫌なことがあふれかえっているとしても、それらと差し引いてなんとかプラスマイナスゼロになるくらいのことはしてあげられたのではないか――そう思うのは傲慢だろうか。

 いずれにせよ、かつての時間線『ワラムクルゥ〇一』では、それはかなわなかった。

 この新しい時間線『ワラムクルゥ〇二』で、それをかなえられるかどうかも、今の俺にはわからない。


 ノックの音がして扉が開き、イサミたちが部室に入ってきたのを見て、俺は心底ほっとした。これでイサミとの接点が自然に持てるようになる。これまでやってきたことは無駄ではなかった。

「ようこそ、みなさん」

 俺は立ち上がって彼女たちを迎え入れた。

 三人はためらいがちに席に付いた。みんなの緊張が伝わってきて、こちらまで緊張してしまいそうだったから、とりあえずコーヒーを入れてみんなに渡した。

 紙コップに口を付けると、三人ともいっせいに顔をしかめた。どうやら、ブラックは飲みなれてないみたいだ。イサミも眉間に皺を寄せている。確かにこのコーヒーはお世辞にもうまいとはいえない。いつか俺の淹れた自慢のコーヒーをイサミに飲ませてあげられたらいいのだが。

 西校舎での遭遇と違って、今回は冷静にイサミを見ることができた。やっぱり、記憶の中の彼女よりも幼く見える。紙コップを両手で持っている姿がほほえましい。

 顔を上げたイサミと視線が合った。俺はけげんそうなイサミの視線を避けて、自己紹介を始めた。そして、ノリちゃんの好きな人の名前を聞いた。

「私の好きな人は、同じクラスのコボリショウヘイくんです」

 その名前に聞き覚えはなかった。

「でも、コボリくんには好きな人がいます」

 なるほど。ことはそう簡単には進まないみたいだ。

「それは、誰」

「二年のサカイ先輩です」

 サカイ……もしかして。

「下の名前は」

「ユウコ。サカイユウコさん」

 サカイユウコなら知っている。中学時代からの悪友、タカナシと付き合っていた子だ。高校卒業後もしばらく彼らは付き合っていた。

 俺は考えをまとめるため、ゆっくりと紙コップに口をつけて、目を閉じた。

 タカナシとサカイユウコはこの時点では付き合っていないが、こちらの時間線でも付き合う可能性は高い。もし、コボリくんが、サカイユウコとタカナシが付き合っていることを知れば――さらに、ノリちゃんもタカナシのことが好きで、ふたりが同時に失恋したと思わせれば、状況次第では事態が好転するかもしれない。

「わかった。引き受けよう」

 イサミはうさんくさそうな顔で、リンコくんとノリちゃんは驚いた顔で俺を見た。 

「たぶん大丈夫だと思う。ということで、契約成立。いいかな、ヒヤマさん」

 ノリちゃんが、こくんとうなずいた。

「じゃあ、決まりだ」

 コボリくんがどういう子かわからないが、ノリちゃんの可愛さならなんとかなるだろう。

 そのとき、レイコさんが部室に顔を見せた。

「先に帰るから、鍵閉めといて」

 彼女は図書室でのやりとりを見ていたから、気を遣って先に帰っていった。

 気になったのは、リンコくんの反応だ。

 もしかしたら、リンコくんはレイコさんを知っているのか。でも、ふたりともそんなそぶりは見せていない。しかも、リンコくんのこの表情はまるで……。

「な、なんですか?」

 俺の視線に気付いたリンコくんが慌てている。

 特にはっきりとした理由もなく、リンコくんはレイコさんに特別な感情を持っているのではないかと直感した。『ワラムクルゥ〇一』でのレイコさんのその後を知っているから、そう感じたのかもしれない。そして、この直感が当たっていたら、俺はこの先、リンコくんから依頼を受けることになるだろうと思った。

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