#10 この世界で生きていくということは
部室を出て、家までの帰り道、私はスグロ先輩との会話を思い返していた。
それに、初めて会ったときの先輩の涙。
古い記憶のせい――ということは、先輩は私に似た誰かのことを思い出したということなのだろうか。わからない。これ以上先輩に聞くのも気が引けた。あれこれ考えてもしょうがない。どうせ私には関係のないことだ。
いつものように、私は駅からひとつ手前のバス停を降りて、歩道橋を登り、橋の上で立ち止まった。その場所から、ビルの谷間に夕陽が落ちていくのを眺めた。
電車通学の子は、学校から駅までバスを使う。私はこの景色を見るために、駅からひとつ手前のバス停で降りる。気が向けば、学校から駅まで歩くこともある。
歩道橋の下から、声が聞こえてきた。他校の男子生徒が数人、ジュースを飲みながら歩道いっぱいになって歩いている。彼らは、飲み干したジュースの空き缶を、歩道に停めてある自転車のカゴにぽいぽいと放り込み、笑いながら立ち去っていった。
私は、ため息をついた。
歩道橋を降りて、あたりに人がいないことを確かめると、カゴに捨てられたジュースの空き缶を取り出して、近くにあるゴミ箱に捨てた。そしてもう一度周りを見渡して、駅に向かった。
もう何度目かわからない。私はこうやって、歩道に停められている自転車のカゴに捨てられたゴミを何度もゴミ箱に捨てていた。実際に誰かがゴミを捨てる現場に出くわしたことはほとんどないけど、全てさっきの高校生たちが捨てているわけではないだろう。ゴミの種類も様々で、空き缶もあれば、コンビニの袋に入った弁当の空のトレイ、週刊誌や漫画雑誌もあった。
そんな光景を見るのも嫌だったけど、それを捨てている自分の行動も嫌だった。私は別にこんなことしたくない。自分だけが正しい人間だなんて思いたくない。でも、どうしてもせずにはいられなかった。だから、私はため息をついて、ゴミを捨て続けた。
電車に乗っても、やっぱり私はため息をつく。
特に、男の人が隣に座ったときに。
男の人が電車のシートに座るとき、たいていドスンと勢いよく座る。わかっていても、私はその度にびくっとなる。隣に座っている人のことはまったく考えていない。そして、そういう人はたいてい大きく足を広げて座るか、足を組むか、長々と足をほうり出して座る。
私はとても不思議だった。
彼らは、車内が混んでくればおとなしく足の間を狭め、組んでいた足を下ろし、ほうり出した足をしまう。
なぜ最初からそうやって座らないんだろう。家でいくらでもくつろげるのに、それまで我慢できないのだろうか。それとも、家ではくつろげないんだろうか。
そんな人が近くに座るたびに、私はため息をついて席を立ち、扉の脇に立つ。
そして、そんなことを気にしている自分に対してまたため息をつきながら、暮れていく窓の外の風景を眺める。
たぶん、ほとんどの人は、そんなのはささいなことだというだろう。そんなことをいちいち気にしていたら生きていけないと笑い飛ばすだろう。世の中にはもっと嫌なことやひどいことがたくさんあるんだと諭すだろう。そして、いつか私もこんなことは気にしなくなっていくのだろう。自転車のカゴに捨てられた誰かの空き缶を見ても何も思わなくなるんだろう。もしかしたら、そんなもの、はなから目に入らなくなってしまうのかもしれない。
私が大人になって、付き合っている人や旦那さんが電車のシートにドスンと座り、大きく股を開いてふんぞり返っていても、別に何も思わなくなってしまうのかもしれない。
たぶんそうなるんだろう。
だって、みんなそうしてるんだから。
でも、それがこの世界で生きていくということなら、私はこの世界から降りる。
私には、この世界が生きていくに値するような場所だとは、どうしても思えない。
そんなふうに考える自分は、やっぱりどこかおかしいのだろうか。同級生たちはどうやってそういう気持ちと折り合いをつけているんだろう。それとも、そんなこと考えもしないのだろうか。
今日もまた電車の扉の脇に立って、灯のともり始めた町並みを眺めながら、私は突然、部室で私に謝ったときのスグロ先輩の表情を思い浮かべた。どうしてだろう。先輩とならこういう話ができそうな、そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。