踊り場 その1

カグヤイサミの場合は

 人生は一度きりだって人はいう。

 人生はたった一度きりなんだから、悔いのないように生きなさいって。

 本当にそうなのかな。

 私はいつも思っていた。

 大人たちが、そんなふうにわかったような言葉でお説教をするたびに。ドラマやなんかでそんな陳腐なセリフが出てくるたびに。

 人生が一度きりかどうかなんて本当は誰にもわからないんじゃないかな。人が死んでからどうなるかなんて確かめようがないんだから。

 かといって、人生が二度も三度もあってほしいとはこれっぽっちも思っていない。

 例えば、生まれ変わってまた人生をやり直すなんてまっぴらごめんだ。まったくの別人に生まれ変われるとしても、まったく違う人生を歩めるとしても、そんなのは願い下げ。勘弁してほしい。

 何度生まれ変わったとしても、私が人間でいる限り、人間がいる世界を生きていかなければならないことに変わりはないのだから。

 人間がいる世界――こんな馬鹿馬鹿しい茶番は一度きりで十分。

 まだ十六年しか生きていない私のような小娘がこんなことをいうのは、長い長い、私にしてみれば気の遠くなるような長い人生を生きてきた人たちに対して不敬極まりないことだというのはよくわかってる。

 でも、仕方がない。私は心底そう思っていたのだから。

 だから今、私は途方に暮れている。

 人生をやり直すなんてまっぴらだという私の思いは、いともあっさりと裏切られてしまったから。

 やっぱり。

 そんな気がしてたんだ。

 人生は一度きりなんだからと誰かに説教をした人、残念でした。

 人生は一度きりだという陳腐なセリフを書いた脚本家さん、残念でした。

 そして、人生は一度きりで十分だと思っていた私、残念でした。

 人生は一度きりじゃありませんでした。


 人は生まれ変わることができる。 

 それは本来、誰もが知っていることだった。

 ただ憶えていないだけ。

 忘れてしまっているだけ。

 人々はここでそれを思い出す。

 誰もが一度は訪れる場所。

 死んだ人間が、新しく生まれ変わる前に準備を整える場所。

 踊り場。

 ここはそう呼ばれていた。


 目の前に一匹の動物がいる。

 狼――だよね、これ。

 これまで一度も生きている狼なんて見たことがなかったのに、目の前にいるその動物が狼だとわかったのはなぜだろう。

 たぶん、絵だ。

 子供のころに読んだ児童文学全集のなかの一冊。シートン動物記。その挿絵に描かれた狼にそっくりだ。狼の名前はロボ。狼王ロボだ。

「私は死んだのね」

 狼はただ私をじっと見つめている。

 ここに来た瞬間から、ここが踊り場だということはわかっていた。ここがどういう場所かということも。

 私と狼の周りには白い霞のようなものが漂っている。ほんのりと明るくてぼんやりとした世界だった。

「あの……」

 私の言葉をさえぎって、狼が口を開いた。

「お前はまだ死んでいない」

 え。

 どういうこと?

 ここに来る直前の記憶が鮮明に脳裏によみがえる。

 駅前の商店街からの帰り道。バス停でバスを降りて、横断歩道を渡ろうとした時だった。

 タイヤのきしむ音。衝撃。体が宙に浮く感覚。アスファルトに強く打ち付けられる後頭部。

「でも、私、事故に遭って……」

 狼がうなずく。

「それにここ、踊り場なんですよね」

「そうだ」

「死んだ人間が来る場所」

「確かに、お前は事故に遭った。そしてここに来た。しかし、お前はまだ死んでいない」

「まだ死んでない」

「たまにお前のように気の早い魂がいるのだ。今、お前は生と死の境い目にいる。お前が強く望めば、向こうに戻ることができるだろう」

 私は目を閉じた。

 まぶたの裏に輪郭の曖昧な像が浮かぶ。意識を集中すると、それは青い空に浮かぶ雲になった。どうやら、道路に横たわっている私が見上げている光景のようだ。

 車にはねられて、路上にひとりぼっちで横たわり、生死の境をさまよってる私の視界。

 でも、このまま意識を集中し続ければ、向こう側にいる自分の体に戻れそうだった。

 私は目を開いた。

「どうした」

 狼が首をかしげる。

「もし、強く望まなければどうなるの」

 私の問いかけに、狼は一瞬言葉に詰まったように見えた。でもよくわからない。狼の顔なんて初めて見るから。

 かすかに首を振って狼はいった。

「どうなるかはわからない。運が良ければ誰かが通りかかって助けを呼び、処置が早ければお前は助かるだろう。運が悪ければ誰にも気付かれず、このまま命を落とすだろう。いずれにせよ、お前がここにいる限り助かる確率はどんどん低くなっていく。お前がここにいるということは、魂を引っ張り上げる力が必要になるということだからな」

 どうやら私をはねた車はさっさと走り去ってしまったらしい。ひき逃げというやつだ。この道、普段あんまり人が通らないんだよな。誰かが見つけてくれるというのは望み薄だ。

「私はここにいます」

「つまり、この生はあきらめるということか」

「このセイ?」

「お前の人生だ。この人生が終われば、また次の人生が始まる。知っているだろう」

 知っている。

 ここはそういう場所だ。

 死んだ人間が、次の人生を始める前に来る場所。

 人生は一度きりじゃない。

 人は生まれ変わることができる。

 生きている間は忘れていたこれらのことが、今でははっきりと思い出すことができる。

 でも……。

「必ずそうしなければいけないの」

「どういうことだ」

「必ず生まれ変わらなければ――必ず次の人生をまた始めなければならないの」

 今度は明らかに狼はたじろいだように見えた。

「魂というものは普通、次の生を望むものなのだ。魂の持つ本能のようなものだ。人間は皆、死ぬとここへ来て、そのあと生まれ変わり、次の人生を歩き出す」

 そういうものなのか。

 でも私には今ひとつピンとこない。

「普通、ということは――」

 狼が私の言葉を遮った。

「待て。もう時間がないぞ」

 道路に横たわっている私の命の火はどんどん弱くなっていって、もうほとんど消えかかっている。

「わかってる」

 私は待った。

 自分の命の火が消えていくのを。

 五。

 四。

 三。

 二。

 一。

 ふっ、と自分の体が少し軽くなった気がした。

 これまでずっと背中に背負っていたリュックサックが急になくなったような感じだった。ずっと背負い続けていたせいで、なくなってしまうまでその存在を忘れてしまっていた、そんな感じ。

「お前のような者は、稀にいる」

 狼の声が少し遠くに聞こえた。

「稀に? 自ら死を選ぶ人はたくさんいるはずでしょ。日本だけで毎年何万という人が自殺しているはずだけど」

「確かに、自殺する人間は大勢いる。数え切れないほどだ。だが、彼らのほとんどは死後、再生を願う。自殺者も次の生を生きることを望むのだ。自ら死を選ぶということは、人生に絶望しているということ。裏返せば、もともとは人生というものに大きな期待を持っていたということだ。だが、お前は彼らとは違っている」

 そう。私は違う。これまで一度も自ら命を断とうとは思わなかった。そんなこと思いもしなかった。

「お前は自ら命を断とうとはしない。だが、人生というものに価値を見出してもいない。お前の心の奥底には冷たい諦念が深く根を下ろしている。わざわざ命を断つなんて、そんなことをする価値すらない、そう思っている。ただ、どちらかを選べといわれたら、生きない。それだけのことだ」

「改めて客観的にそういわれると、私ってなんだか鼻持ちならない感じね」 

 狼は口の端をゆがめた。苦笑いされてしまった。

「待って。ということは、私はこれまで何度か生まれ変わっているの?」

「そうだ」

「何回くらい?」

「残念だが、そういったことには答えられない」

「でも、生まれ変わってるってことは、今の私みたいな考えはこれまで一度も起きなかったということよね」

「そういうことになる。確かにこれまで生まれ変わってきたのはお前というひとつの魂だ。だが、魂は性格や考え方を規定するものではない。生が変わればそれは変化する。魂とはもっと本質的なものの基盤だ。お前たちにこの概念を表す言葉はない」

「ふうん。なんだかよくわからないけど、まあいいわ。ところで、まださっきの質問に答えてもらってないんですけど」

 仕方がない、という感じで狼は口を開いた。

「必ずしも次の生を始めなければならないということはない。魂は本能的に次の生を求めるものだが、例外もある」

「私みたいに」

「そうだ。ただし、次の生を始めなければ、魂は無に還る。もう二度と新しい人生を始めることはできない。ここですべてが終わってしまう。本当にそれで構わないのか」

 私はうなずいた。

「それで構わない」

 ため息交じりに狼はいった。

「思い残したことがあれば聞いておこう。叶うかどうかは別として、何か心残りなことや願い事はないか」

「人類を滅ぼして」

 私は即答した。

 なのに、狼は馬鹿にしたように鼻を鳴らしただけだった。

「じゃあ、世界平和」

 今度は鼻も鳴らさなかった。

 相手が口を開く前に私はいった。

「わかってる。もっと個人的な範疇のことしかだめなんでしょ」

 狼はうなずいた。

「ところで、あなたはいつもそんな姿なの」

「いいや。相手によってワタシの姿は変化する。なぜ今回こんな姿なのかは聞かれても困る。ワタシ自信が関与できる問題ではないのだ」

 それでどうする? というふうに狼は首をかしげた。

 どうやら狼は――正確には狼の姿をした何かは――この面倒な私にとことん付き合ってくれる気でいるらしい。

「ごめんなさい。ややこしい奴で」

 あれ。

 そういえば、これと同じ言葉を前にもいったことがあったな。そうだ。私、先輩にいったんだ。

「あの。ひとつ心残り、というか、気になること……いえ、気になる人が……」

「彼のことが気がかりなんだな」

 私が誰のことをいっているのか、狼にはわかっているようだ。どうやら相手は私のことをすべてお見通しらしい。

 何を願うべき?

 狼はじっと私の言葉を待っている。

 私が死ぬことで悲しむ人がいる。両親と数少ない友達と、そしてきっとあの人も。

 両親には本当に申し訳なかったと思っている。これまで何不自由なく私を育ててくれた。私はひどい子供だ。でも、これは私自身の人生だ。だから、自分の道は自分で選ぶ。

 友達も、あの人も、たぶんとても悲しむだろう。あの人は泣くだろうか。いや、泣かないな。そういうタイプじゃない。負の感情はできるだけ外に出さず、内側に抱え込むはずだ。でも、いずれその感情も日々の暮らしの中で自然に霧散していくだろう。そして、私のこともいつかは忘れ去るだろう。私という人間がいたこともいつかは……。

「私のことを覚えていて」

 自然に言葉が口をついて出た。

「あの人に私のことを覚えていてほしい」

 自分でも意外だった。私ってこんなにも女の子っぽいところがあったんだ。

「いえ、でも、ずっと私のことを特別な存在として想っていてほしいとか、そんな重いものじゃなくて、ただ、そういえば昔あんな奴がいたなって、そんな感じで……お願い……できればなと……」

「お前の望みはわかった。できる限りのことをすると約束しよう。彼が彼自身である限り、お前のことは決して忘れないだろう」

 狼が目を開けると、その瞳は金色に輝いていた。

 突然、周囲がざわざわとし始めた。

「なに? どうしたの?」

 私は周りを見渡した。

 私たちを取り巻いていた白い霞がゆらゆらと揺らめいている。

 いつの間にか狼は姿勢を低くして、耳を後ろにぺたりと倒している。

「お前の今の願いがこの『ワラムクルゥ』を大きく変化させたようだ」

「ワラ――なに?」

「お前たちの表現を借りれば、因果律が大きく変わった、ということになる」

「どういうこと?」

「具体的にいうと、今から三十三年後の世界に影響を与え、ひいてはそれが今のお前にも影響が及ぶということだ」

「あの……それ、ちっとも具体的じゃないんですけど」

 狼は私の訴えを無視していった。

「これはなかなか珍しいケースだ。だからワタシたちは皆、行く末を見定めようとしているんだよ」

 目には見えないけど、確かに私たちの周りには何かたくさんの存在が感じられた。

「それで私はこれから……」

「申し訳ないが、この案件はいったん保留だ。残念ながら、お前はもう一度向こうに戻らなければならない」

「向こうって」

「お前が終わらせてしまった人生だ」

「え」

 突然、狼の口が大きく開いた。その真っ暗な空間が視界いっぱいに広がって私に向かってくる。

「幸運を祈る」

 そして私はその暗闇にパクリと飲み込まれた。

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