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 調律師協会に支部は多数存在するが、その建築はどれも似通っている。クリーム色で慎ましやか。低層で広大。数百人の協会員が常駐し、各々の職務を遂行している。

 広いホールを私は駆けてゆく。〈同僚〉に会わなくてはならないのだ。行き交う係官たちが抱えるトレイには、書き込みが済んだ照合表が満載されている。あれらを基準に調律済の文書が、調律済の本が作られる。だれがどのように文字を読み、脳裡にどのような印象を発火させるか、照合を握ってしまっているのであれば、すべての者に同じ印象を共有させることはたやすい。可能なことはいずれ、財政の許す範囲で実現し、そして瞬く間に広まった。

 調律室に飛び込んだ係官はすぐに出てきて、用件を受け取って別の方向へと駆け出す。どのように指令を出せば部下は誤解なくそれを受け取るかを、上司は完全に把握している。さらに複雑な意図のやりとりが、こうして簡便に実現される。調律室の中央の解析機関は、正確無比にテキストを吐き出す。ひとりひとりのために組まれた、だれが読んでも同じ内容。信じがたい芸当を可能にしているのは、言うまでもなく調律の技術そのものだ。

 協会は人間の認識そのものに干渉するのではない。それは侵害であり、許されてはならない禁忌である。我々はただ入出力を精査し、文面と解釈の対応を知る。しかるのちに個々の固有構成に適合するよう、書物の再編集を行うのである。調律とはつまり書物の調律であり、脳裡には単一の解釈が響きあう。意思疎通はきわめて正確なものとなり、齟齬が生じせしめる障害の大半は死に絶えた。地上を満たしていたつまらない不和の代わりとして、信頼と友愛がもたらされた。

 調律室を過ぎると、廊下の向こうには改訂室が見えてくる。対照表の範疇となる語彙は、時の流れに呼応して少しずつであれ変化してゆく。灯る炎もまた同様だ。改訂者たちは語彙を修辞を、物語を大規模に蒐集し、年度ごとの対照表改訂に反映させる。

 こうした絶え間ない作業のすべてが、精密な検心と調律を実現している。我々外回りが果たす役割は、その中のほんの一部に過ぎぬ。調律師協会は減少する雇用の下支えに一役買っており、こうした会館は都市ごとに設置されている。調律師どうしを結ぶ線、会館と会館を結ぶ線は、天に架けられる網のごとくに、切れ目なく全球をすっぽりと包む。いくつかの地域への進出は中途に留まってはいるが、協会の仕事はもうまもなく、傷ひとつない姿に完成することだろう。

 施設の最深部、照合表の棚が並ぶ保管庫のなかで彼は待っていた。協会の医師に指示されたとおり、あくまで安静を維持したうえで、私との対面を望んだのだった。裏口から入る医務室は、ここ保管庫の隣にある。

 綴じられた検心結果や照合表、オーダメード文書生成のための下書きが整理され、堆い紙の渓谷を形成する。分節された意味が溢れんばかりに、静謐の空間に充満している。意味に気圧され脅かされて、ここに来ると私は息苦しさをすら感じる。

 よく来たと〈同僚〉が言う。手には対照表の束がある。私は彼を読もうとしてできない。構成になんらかの変質が起こっている。暗闇のなか火焔が熾ろうとしては消え、音とともに火花を閃かせて沈黙する。堅い皮に包まれた種が、残されたわずかな灰の中で音もなく芽吹く。みるみるうちに蔓が伸び、厳しく私に絡みつく。常識の範疇からあからさまにはみ出した、前例のない調律能の運用。私は私の炎のごとく、彼が植物を用いていたことを知る。

「なぜ」

 私は声を出して訴えている。俺を無理に読もうとしなければ、すぐにやめるさと彼はつぶやく。格上に敵うはずもなく、読むのをやめて話すのを聞くより他はない。緑の縛めがはらりと解かれ、嘘だったかのように虚空に溶ける。

 長い会話はきわめて稀で、たいていの用は読みあいによって解決する。解決しないのであれば我々は食い詰め、路頭に迷うことにもなるだろう。

 閲覧用の梯子に座っていた彼は、読んでいた表を畳んでしまい、足どり軽やかに階梯を降りる。誰かの構成が棚に戻され、指がかさりと音をたてる。かけてくれと促されて、私は空の木箱に腰を下ろす。


 さて――と彼は話をはじめる。こうして対話が行われることは、いわば必然だったのだったと口ぶりが述べている。書架のあいだを歩きまわり、体の向きを変えながらも、声は朗々として減じることがない。長髪が左右に振り分けられ、柔らかく温かい塊が耳介を通って首筋へ流れこむ。

「ジェレミーというのは誰だとあんたは問うだろう。生まれなかった少女の兄だ。空想の中で成長を続け、どうしてか船へと姿を変じた。生まれなかったとはことばの綾で、そもそも存在したことはない。追跡検心にも痕跡はなかった」

 彼女を読み得たのかと私は驚く。あの異常構成に介入しおおせたばかりか、報告に残らぬ深部にまで分け入ったとは。

「読んだのではない、読まされたというのが正しい。そして読まれたのは俺とあんただ。

 検心の才能とは人工のものだ。彼女がそう口にしたのを聞いたろう。俺たちについては真実で、裏付けは一晩であっさりとれた。

 我々の調律能、幻影を利用した読心の能力は、どのようにして醸成されたのか? これは俺にとっても興味深いところではあった。知ってのとおり俺たちは生え抜きで、慈善事業に育てられた。生まれか育ちのどちらかが、調律能に寄与しているのはほぼ間違いない。

 俺はまず協会長の構成を閲覧ようと試みたが、あいにくここには写しがなかった。禁止はせぬものの視線からは遠ざける。いかにも協会らしいやり口だな。正攻法が通用しないようなので搦め手を試すことにした。できるだけ古い対照表を求めて、棚を端から浚えたさ。人は死んでも構成は残る。解釈の姿態がこのようにして保たれる。不完全ながらも俺は、死者との対話を重ねることができたわけだ。

 梢に残る実のごとく、死せる記憶は口に甘かった――あんたには燠火と映るんだろうが――読むのではなく味わうようにして、俺は急速に歴史を摂取していった。

 ほんの五世紀前までは、誰もが我々の勝利を予想だにしていなかった。科学協会も魔術協会も、次代を担うのは自分たちであると信じて疑わなかった。しかしながら、驚くべきことには、調律術がすべてを変えてしまった。ふたつの協会のどちらでもなく。

 産み落とされたひとりの赤ん坊が、例によって革命の端緒になった。特殊な神経網の構成。イメージを用いた読心術。おそらくは音階。よい耳を持っていた。優れた奏者でもあり、調律の名はそこに依るのだろう。

 彼は己の才覚を独占することを好まなかった。調律能によって資本を築くと、すぐさま次の仕事にとりかかった。

 変化は首都の救貧院ではじまった。創始者は自身の骨相をこどもらに移植し、そうして読心に長けた数人が生み出された。彼はそれらを調律師と名づけ、そうしてすべてがはじまったのだ。

 新たなるものの急速な拡大。同じことがたったいま起ころうとしている。彼女の能力は人工に非ず、天賦の才と呼ぶべきものだ。高みより下った可能性は、いつも空中を浮遊していて、地上に触れることではじめてそれと気づかれる。束の間の、ほんのひと触れを皮切りとし、勢力はみるうちに伸長してゆく。燎原を焼き尽くす火のように。焦土から言の葉の樹が芽吹くように。口々にことばが行き渡るように。もうまもなく。

 いますぐにでも」

 拡大? なんのことを言っている? 聞き慣れぬことばに彼を遮る。私と同じ鳶色の双眸が、束の間こちらを覗き込む。草木も業火もそこには映らぬ。演説は容赦なく再開される。

「調律のセオリーは、ほかの体系を併呑してしまうだけの力を持っていた。他のなにものも、我々を凌ぐだけの勢力を持ちはしなかった。世界制覇を目前にして、我々は自らに問わねばならない。

 これですべてが終わりなのか? と。

 読解とは、視覚と聴覚の協働だった。我々が被読者に強いてきた音読も同じこと。諸感覚の合一によって我々は進歩を実現してきたが、それが一定の臨界をむかえたいま、進むべき行方は杳として知れぬ。

 我らは造語し修辞を磨き、新たな物語を生み続けた。遍く言語のその閾を、拡張しようと努力し続けてきたはずだ。扉を浄化し蒙昧の闇を啓き、迫る限界を予感しつつ、恐れることなど決してなかった。そしてその結果は君も知ってのとおりだ。

 これまで我らは一直線に、直線で世界を置き換えることに専念してきた。意味を分節し、機能を分割し、それで身辺を設計した」

 言いながら彼は、木箱や書棚を順々に触れてゆく。細長い指が稜線を撫で、設計と製作の巧拙を吟味している。四角い灯火に、四角い間取り。保管庫の風景のすべては直線で、直線に見えないのは彼の身体だけだった。

「感じうるすべてを切り刻み、刻んだ部品で身の回りを組み上げるというやり方は悪くなかった。悪くはなかったが逓減は避けられなかった。目減りを知りながら差を詰めんとする、諦めを含んだ努力がつづけられてきた。

 それでも足りぬというのなら、直線を集めて、滑らかな曲線をつくることを考えてみたまえ。確かにそれは、どこかで曲線になるだろう。直線に見えるようになるだろう。

 しかし、どこで?

 どこでだ?

 我々は直線を発明した。ことばを発明した。だがそれも、いまは終わりにしてもいいころだ。

 溶質が飽和に至れば析出がはじまる。水和物としての相を保てず、結晶へと移りゆく。

 あまりにも多くの直線。あまりにも多くのことばが、認知の飽和と析出を招くだろう」


 話し終えると彼は鋏を取り出し、肩にかかる長髪を耳の横で両断する。金属片が閉じる音が二回、静かな部屋に凛と響く。灰色の毛の束がすとん、と落ちて、木組みの床にばら撒かれ、このようにして弁別の手段は失われる。ふたりの調律師、〈調律師〉と〈調律師〉は、視線を一致させ対面する。

 直線と曲線の相転移は、ひとえに人間の眼の分解能に帰される問題なのだと〈調律師〉は考えている。臨界点は肉の器に内蔵されていて、突破のときを静かに待っている。調律の網の上を行き来する情報。その絶対量が閾を超えたとき、言語によるコミュニケートの洗練が限界に達したとき、少女の皮膚の下でなにかが弾けた。

 〈同僚〉は明らかに変質してしまっていた。他人を読みこなす術において、彼に匹敵するものはいないのだと私は信じていた。信じていたが、少女はその上をいったのだった。人間は複雑なピアノにすぎないし、我々はこうして言語の改良に成功してきた。かつてよりも遥かに多くの意味が、正確に受け渡しされる時代が訪れた。誇るべき成果だ。素晴らしいことだ。しかし続きを書くべき者は、世界のどこにいるのだろうか。我々の理解は果たして、完全無欠なものだったと言えるのだろうか。

 いつだったかに唱えられた進化の理論は、結局は複雑な現象を説明し尽くすに至らなかった。分節によって理解しようという姿勢には、おそらくは最初から無理があるのだ。事態がある程度以上に入り組むと、我々はとたんに太刀打ちできなくなり、他の方法に救いを求めようともそれは変わらない。ことばによって物質に干渉し、知性の機能を外在化しようとも、状況を覆すことは能わない。万物を、尺度をもって扱おうとする試みは、ここに来て本物のどんづまりを経験する。

 状況の打開が必要だった。移行の発端として少女は選ばれたのだ。あたかも他の時空が現実に流入し侵蝕するかのように、彼女のもたらしたものは我々を介し、惑星社会を席巻するだろう。協会が改良のために張り巡らせてきた網を伝い、改良の過程そのものを改良するように。読解の逆流がいまはじまろうとしている。意味を切り刻む奇習はやがて廃れ、感覚による完全な伝達と思考が取って代わるだろう。死者は声なき冷たい記録としてでなく、ぬくもりのままに諸感覚へ散逸するだろう。

 彼はおそらく、長い間予感に苛まれてきたのだ。限界を見据え、突破口なき今に倦むこと。いまになってようやく、そんな感情にも手が届く。あまりにも遅すぎ、できなかったことばかりが目につくが。

 私は思い描く。ジェレミー号は爆轟とともに推進をつづける。我らの船。物質化したことばの最後の姿。絢爛たる貨物を積載し真空をゆく。強固な外膜に穿たれた噴射口。迸る火炎の流れが長く長く伸びて、とこしえの闇を上塗りしていく。色と形態は少女と同じで、無比に力強く美しい。それを眺めるのは私の眼ではない。炎を眺める誰かの感覚、純粋な感覚の迸りを、そのままに受け止めている。

 長年のあいだ開いていた空隙が、いま確かに満たされたことを私は感じている。幻視者たち。我々。一〇〇%の識字率が、響きあう単一の解釈が、解き明かされた構成の謎が、次なる目標へと我らを引き上げる。視ることが読むことになったとき、そこでは何が起こっているのか。

 恐れることなどもはやないのだ。歴史は我が裡、肉体器官に、消せぬ徴として内蔵される。

 掴めるだけの照合表を掴みとり、鞄に詰めて本部を飛び出す。

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