2

 芝に敷かれた飛び石を踏んで、彼は玄関にたどりつく。呼び鈴を鳴らすまでもなく準備はすでに整えられており、行き交う人員の奥に両親の姿が認められる。〈同僚〉はひととおりの挨拶を終え、暗く冷えきった廊下を進む。少し遅れて〈調律師〉が、影のように彼に付き従う。ふたりで一組の調律師たちは、さながら一体の生物のように、足音を立てずに歩いてゆく。〈調律師〉はその義務に従い、〈同僚〉を見守り読み解くことにつとめる。釦が一つついた電気器械。助手のために用意された平たい通報装置が、その懐にはおさめられている。

 壁にかけられた絵の一枚に、〈同僚〉の注意が向けられる。巨大なカンバスを構成する四辺はすでになく、不規則な稜線が歪んだ楕円を構成している。描かれた図形にも明瞭な輪郭はなく、名前のない色が塗りたくられているというのが最も近い。直線を引いてはそれを消そうとこころみ、ぼやけた筋とすることに成功している。遠目には汚らしい褐色にしか見えないものの、近づけば使える色のすべてが使われた結果なのだと分かる。全体として見たときになにを描いているのか、確かなことは言えないが、さまざまな画材を用いて引かれた、周縁から画面の中央にむかって延びる筋からは、疾走の感覚のようなものが感ぜられる。果たしてこれは動線なのか。

「娘さんが描かれたものですか?」

 〈同僚〉は傍らに控えていた母親に尋ねる。当初の意思に反して彼は、真剣な声色を使ってしまっている。

「ええ。つい最近のことです。部屋から出てこないと思ったらあんなものを。調律師さま、今日は本当にお願いします。私たちにはもう、娘をどうやって読んだらいいのかがわからなくなってしまった」

 鞄を掴んだ腕をゆっくりと前後に振り、彼は重みを感じようとする。鞄の中には対照表と白紙、それから特注のペンとインク壺がていねいにおさめられている。鞄の重みを感じることで、そこに込められた含意を知覚し、自己をそれら重要な意味を帯びた品々の延長として、寸分の狂いなく調整された器具の一部として捉えることができる

「おまかせください」

 ゆっくりと臓腑に溜まった空気を吐き出す。

 でははじめよう。


 特例的な被読者のため、踏み入った部屋にはすでに準備がなされている。白い布が部屋の造作のすべてを隠し、視覚的夾雑物を慎重にとりのぞいている。気まぐれな自然光もまた排除されており、一間を満たすのは無影灯の均一な光だけだ。

 〈同僚〉の眼が三六〇度を睥睨する。大事な日だ。手ぬかりがあってはならないのだ。派遣された協会員はたいてい優秀で、ひと目でそれとわかる失敗をすることはまずない。それだけに注意を払うべきは目立たない瑕疵だ。だれよりも鋭い目で観察し、見出さねばならない。組み込まれた機能がその役割を最大限に発揮する。

 同調処置の開始。〈同僚〉の固有構成が組み替えられてゆき、部屋はその装いを変える。かすかに熱をふくんだ空気がドアの外へと流れだし、生まれた風が白布の表面を撫でる。つかのまあらわれる陰影。まばたくあいだに消えてしまう、何者かが描き残した文字。〈同僚〉の眼は不安げで、検心を待つこどもそのままだ。風はまた彼の鼻腔に、いくつかの異なる分子を持ち込む。ただよう無数の鍵が感受性をこじあけ、記憶へとつらなる回路をひらく。小さな劇場の中で興行が幕を上げ、めくるめく色と形がこどもの目を眩ます。開幕のブザーがどこかで鳴っている。ブザーの音が。

 閉じていた双眸が開かれる。油断を知らない鳶色のレンズ。駆け寄る協会員に改善を要請し、数十分のロスを悔いる。ここにきてはじめて鳴りつづける警報機に気づく。リセット。エレクトロニクス。構成変更のあいだの同調深度を定量的に評価。閾値の設定は各自の裁量に。〈同僚〉は許された最深まで潜る。


「お待たせしました。再開できます」

 もはやチューニングの必要はない。なんとはなしにそういう確信がある。古の祖先たちのならわし、ゆらぎなるものの残滓がもしもまだあるとするならば、それはこうした場面にのみ引っかかっているのかもしれないと〈同僚〉は考えている。考える間にも利き腕は手招き、別室でその時を待っていた女の子を呼びよせる。


 用意された椅子に少女は腰かける。肌の色素が不自然に薄く、髪もまた脱色されている。容姿は全体として整っているとは言えない。意図的に崩しているのかもと〈調律師〉は思う。経過報告に拠れば、好んで改変を行うようになったのは最近らしく、強いコントラストを作り出す黒の衣服にしても、おそらくは彼女の好みなのだろう。

 記憶の形成以来、過去十年間の追跡検心によって蓄積されてきた彼女の固有構成の記録、ひとりの女の子が世界をどのように読み解き、どのように物語ったかを、〈同僚〉は完全に記憶している。記号と発声の対応、発声と発火の対応。彼女の脳裏にゆらめく炎がどのような姿をしているのか、いかなことばをもってすれば、彼女の炎に肉迫しうるのか。必要な背景知識と手立てのすべては〈同僚〉と、彼が手にする小さな鞄の底に横たわり、活用の時を静かに待っている。

 いまいちどの確認として、調律師たちは物語の蒐集を行わねばならない。無言のうちに発話がうながされ、少女はぎこちなく沈黙を破る。細工が施されたペンを握る手、汗ばんだ〈調律師〉の手にわずかに力が加えられる。


「おひさしぶりですわ」

 少女が口を開いた瞬間から、〈同僚〉の五官は彼のものでなくなっている。それは精密な観測機器として、彼の神経網を利用しながら解析を行う。少女の固有構成はそうして〈同僚〉を透過し、漠然たる印象だけを〈調律師〉に投げてよこす。印象は尾ひれを翻して、整理された〈調律師〉の識閾を泳ぎだす。


「いつも別の者が来るようにしているんだよ」

 言い含めるようにして〈同僚〉が応える。

「おなじよ、形がおんなじですもの」

「なんの?」

「たましい」

「そんなものがないなんてことは、きみだってもちろん知ってるはずだ」

 光源の一切ない部屋のなかで、ふいに明かりがともされる。暖炉のなかでゆらめくそれは炎だ。どこかからの声に呼応してゆらめき、絶えることなく新たな薪が焚べられる。光と熱が不確かに湧きたっては沈み込み、造作を奪われた部屋を照らしだす。


「絵を見たよ」

 そうしてふたたび〈同僚〉は切り出す。

「読まれました?」

「分からなかった」

 彼女が息をするつかの間、備えられた調律能が描画を再開するまで、部屋はまた白布と均一な光に満たされる。


「ご説明いたしましょうか」

 先ほどとは異なって不思議に低い声で、少女はその物語を紡ぎはじめる。手にはなにも持たず、空中に描かれた文字を読み進めるようにして。

「熱は、忌むべきものであって、我らを無へとひきさらう元凶だ。永遠の生命。もしそんなものがあるとするならば、凍てついた炎が放つ光が照らすだろう。変化をつづけながら在り続けようとする意思。破綻すれば別の変化へ帰されてゆく。生まれた子供の意識は、調律によってより大きな変化に帰される。擬似的な死によって死を免れんとする戦略も、安住の地を目指すためなのだ。無音の暗闇の中、ジェレミー号は推進をつづけている。吸血鬼たちの巨大な棺桶、星々を喰らう我らの棲み家。大眼の視線を失って、薄く青白い肌、読まれることのなくなった我らの身体は、きわめて自由で軽やかだ。いつのまにか普通人に取って代わり、いずれ宇宙を支配するだろう」


 暖炉の中で溢れんとする業火に、〈調律師〉の皮膚は灼かれはじめている。脈絡のつかみどころのなさに、〈同僚〉は苦戦しているかのように見える。彼女が語るのは吸血鬼の宇宙、疾駆する船の物語のようで、実はこの惑星を包括せんとする、我々の事業についての寓話なのではないか。そういう疑念が動きはじめているようにも見える。解析がうまく機能していない。〈調律師〉もまた〈同僚〉の思考を掴みかねている。少女の口から流れ出ることばに淀みはなく、繋がりの判然としない意味のそれぞれが、途切れることなく繰り出されてゆく。


「まだ生まれていない。未来に生まれるかもしれないものたちの声に耳を傾けろ。

 ジェレミー号は巨大な有機体で、その全体はひとつの細胞を模して造られている。外部を被覆する緊密な外膜と、内部に充満する稠密な粘液が、宇宙線と障害物から搭乗員を護る。粘液に泳ぐ彼らの意思のすべては、切り刻まれることなく伝達され、咀嚼され、吸収される。それは理解などではない。解体などあってはならない。彼らはただ感覚を共にするのだ。粘る海の中、辿りつくべき果てを夢見ながら。

 船は貪欲で大喰らいだ。大眼を糧としてと推進する。ジェレミー号は我らそのものだ。視線を浴びせる星々を、すべて喰い殺さねばならぬ。喰らって我らの一部とせねばならぬ。打ち捨てるべき揺籃の類は言うに及ばず。

 宇宙最大の循環がそうして実現する。熱と物質の渦の中に、我らの居場所は見いだされる。搭乗員は事実上不死だ。だれかの思念がだれかの思念へと移り、より大きなものへと帰されてゆくだけのこと。

 ジェレミー号の離陸の瞬間。万象が流れて失せるその時。我らは得るだろう。全き体験。完全なる恍惚を。一切の合一、至高の自由、尽くしがたい感覚を。人が人でありはじめた時から、我らの頭脳に取り付けられてきた栓。感覚器に絡みついてきた縛め。いま解き放たれて、永遠の飛翔へと加速してゆく。運動を阻む重力子はそこになく、ただ全てがある。全てが」


 これは一種の呪いなのではないか、直観によって〈調律師〉は認識している。最初歯切れのよかった彼女の発声はだんだんと曖昧になってゆき〈調律師〉は音から意味を拾いあげているのか、それとも意味そのものを聴かされているのかを判別できない。

 融合の炎はついに炉を逸し、奔流はマントルピースを絨毯を、炉床を煙道を煙突の先までを焦がして荒れ狂う。横溢する炎の幻影にいまや〈調律師〉の眼はものを視るに能わず、その喉は暴かれた墓のよう。火膨れが出来る間もなく表皮は爛れて、火傷は骨にまで浸透する。研ぎ澄まされた五官が苦痛に溺れ、神経のすべてが灼き切れんとする。火勢は感知の上限を超えてなお強まり、焚き木なくして平然と燃え広がる。大気に引火し真空を焼き、永劫の炎に肩を並べる。炭化する網膜の上に、美しい像が結ばれる。


「見えもしないものが見えることを、変だと思ったことはないのか? 普通人には炎は見えぬ。蔓の切れ端なんかが見えることもない。おまえたちに与えられたそれは恩寵だ。先へ連なるひとつの予言なのだ。

 おまえたちは比喩に頼り、出来損ないのことばを使おうとしてきた。分節の手をすり抜ける感覚を、修辞の網でとらえようとしてきた。

 涙ぐましい努力の先に、ことばの総体はあるというのに、おまえたちはしばしば感覚を貶める。それは単純なもの、人の手がいまだ触れないもので、積み上げるにはあまりに曖昧なのだと言う。

 感覚は本来、はるかに精緻で厳密なものなのだ。それは生きていて、すべてを内包してそこにある。人語のごときは生けるものを象った、ぶざまな死物に他ならない。

 ことばが仮想を生むのだとうそぶく者もいる。在らざるものを在らしめる。それこそが言語の特権なのだと。莫迦らしい。顧みるにも値しない。仮想を生むのは感覚の混合だ。かき混ぜる方法をいまだおまえたちは知らず、知らぬがゆえに手持ちのことばに依るしかないという、単にそれだけのことなのだ。

 おまえたちが理解と呼ぶ一連の手続き、抽象と具体の反復も同じことだ。間に合わせの不格好な道具として、確かにことばは重宝したことだろう。築き上げた楼閣は見た目に壮麗で、その実いたるところが欠け落ちてみすぼらしい。

 人語を操る能力はそうして、突き詰めれば感覚の不完全な換言に端を発している。そんな粗悪な模造品を、数万年の間おまえたちは弄んできた。玩具はしなびくたびれて、老いさらばえた手の中で温まっている。

 だが、しかし、それでもなお、おまえたちの存在は突破口となりうる。おまえたちはことばの申し子に見えて、幻視を取りいれ、来るべき次代の兆しとなろうとしている。ことばの限界を知ってか知らずか、おまえらの創始者が選びとった方法は、突破へと連なる脈絡の上にある。

 おまえ、おまえら、おまえたちは、祝福されし不具者なのだ、階に足をかけるもの、不器用ながらも次へと進まんとするものたち。楼閣を否定せよ。盲た眼を開け。見えるだろう。おまえたちの未来。来るべき世界が。ここに、いますぐにでも」


 〈同僚〉自身の固有構成が不安定になっているのが辛うじて感じ取られる。〈調律師〉は指先を頼りに懐を探り、通報装置の釦を探りあてる。残された感覚。萎えた指で突起部を押し込む。扉が開かれ、控えていた協会員が殺到し、丁寧だが有無をいわせぬ強硬さで少女と〈同僚〉を引き離す。ふたりは別々に部屋の外へ、半ば引きずり出すようにして連れ去られる。

 幻炎が絶えて〈調律師〉は息をつく。部屋は元通りの施術の場で、白いカーテンはゆらぐこともない。十指を開いては閉じ掌を確かめ、異状なきことを不思議に思う。

 窓の外では協会員たちが〈同僚〉を車に運び込んでいる。一糸乱れぬ連携。音を立てずにドアが閉じられ、車は一直線に支部へと急行する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る