発火

空舟千帆

1

 光量を落とした電灯の下で、彼らは向かいあって座っている。木製の椅子の背もたれは高く、にぶく光を返す焦げ茶の用材が、〈調律師〉の背を隠している。目前に腰かける少年は、堅い表情のまま手許の紙束に視線を落とし、意を決した様子で口を開く。

 彼らの肌を占める色彩、いかなる人種のものでもないそれは、この日に至るまでに積み重ねられてきた、長い融和の努力の賜物でもあった。〈調律師〉もまた褐色の薄い肌を、黒味の強い灰色の髪を、鳶色の双眸を備えて佇んでいるのだが、個々人の弁別はそうして、肉体の細かな造作の差異に、階調にあらわれる微妙なゆらぎに依ってなされていた。


「ある時代、ある国の、小高い丘の上に城がそびえていました――」


 語られるのは昔ながらの、王と宮廷道化師の物語だ。少年の顎が上下するのに呼応するかのように、〈調律師〉は手にした紙面になにごとかを書き込む。少年が携える原稿の束が、咽頭と舌とを介して空気をふるわせ、〈調律師〉の耳孔に流れこんでペン先に至り、ふたたび文字の姿を取り戻す。変換の過程は理解しがたく、ここではとりわけ彼のまなざし、向けられた先に彼が見るものが、その複雑さをいや増している。

 少年に、吐き出すことばのそれぞれに、彼はゆらめく炎を見ている。ゆらめく炎を間にはさみ、彼と少年は対峙している。四つの眼の中には火影が映り、首元までが白く輝く。

 読み上げられる物語の要素が、端から還元されて炎に没してゆくのがわかる。炎は少年の想念を呑み込み、ひときわ大きく火焔を上げて、ゆっくりと元の大きさにまで縮んでゆく。筋が進むにつれ少年は薄まり、不確かに動く火影ばかりが、濃く鮮やかな輪郭をまとい、赤々と広い一間を照らす。

 手にしたリストに〈調律師〉は、必要事項を書きつけてゆく。左端に品詞の総覧が列を作り、斜行し重なり合う線を辿ると右端の発火表に行きつく。描かれる図形を固有構成と呼び、とどのつまりが個々人の、解釈の癖そのものだ。

 いままさに読み上げられる、彼自身の手になる文章。形づくる一切は彼に由来し、語られるすべてが彼を反映する。彼が書物を紐解くたび、外界の刺激に触れるたびに、その内面にはいくらかの語彙が、視座が、感覚質が書き込まれ、思考は徐々に着実に、内なる書物へと置き換えられてゆき、時が満ちれば自己の複製を、物語ることで生み出すようになる。〈調律師〉は人に、人の物語に炎を見、その様相を腑分けして、それらを確実に読みこなしていく。少年がいかにして読み、どのようにして解釈しているのかを、仮相の炎によって推察する。燃料と炎との相互作用。少年と物語との相互作用。構造とエネルギー。形と意味。被読者の経験とその記憶は、単体では焚べられた薪に過ぎない。浮かび上がる炎のゆらめきこそが、調律師たちの興味の中心であり、彼らの仕事の目すところにもっとも近い。いまやいたるところで行われているこの手続きは、検心という名で知られている。もっとも炎の幻視となると、いたるところでというわけにはいかず、〈調律師〉独自のやり方ということになる。同業者たちがどうやって、正確で迅速な検心を実現しているのか、実際のところを彼は知らない。

 少年の炎は蝋燭のそれで、おとなしいようで時折めくれ上がり、虚空を喰らおうと大口を開く。見えない抑圧がこのような構成をもたらしたのだろうか? いずれにしても表の完成のためには、語彙の回収がまだ不十分だ。引き続き検心を試みねばならない。場合によっては、即興で物語ってもらう必要があるかもしれない。

 〈調律師〉の後方、向かい合わされた二つの椅子から少し離れて、同じ椅子がもう一つ用意されている。腰かける人物は先ほどから、背中を向ける〈調律師〉の、その動作のいちいちを注視していて、〈調律師〉自身を読み解こうとしているかのように見える。彼は〈調律師〉の同僚であり、相棒を監視し補助する役割を帯びてここに座っている。同時代人の例に漏れず、容姿は〈調律師〉に似通ってはいるが、髪だけは長く伸びて肩にかかる。助手であり、安全装置であって補充要員を兼ねる。少年を読む〈調律師〉を読むことで、少年がどのように組み上げられているのかを知る。相方があらかた仕事を終えてしまったことを確かめると、一足早く部屋の外へ出てゆく。入れ違いになって少年の父母が、検心の終わった部屋へと入ってくる。

 〈調律師〉は書き終えた照合表を鞄に収め、顔筋の緊張を解いて笑ってみせる。不安げに身をかがめ所見を乞う父親に、なにも心配はございません、立派な構成をしておられますと告げ、母親が差しだす謝礼に頭をさげると、ふたことみこと交わして外に出る。

 車では〈同僚〉が待っている。調律師たちの髪の色にも似た塗装が、初夏の陽光を照り返す。ウィンドウガラス越しに前方を見つめているのが見え、こちらを向いてドアを解錠する。〈調律師〉と同じ黒みがかった灰色の髪が、振りむく動作によって軽くなびく。

 どんな調律師も、検心のあとに運転をするのはごめんこうむる。それで彼らは交互に、運転を交代しながら家々を廻る。だれがはじめたのかもわからない。柔らかく皆を受けとめる行動規範。

 機関はすでに準備を整えていて、車体は小刻みな振動を繰り返している。〈調律師〉が乗り込むとペダルが踏み込まれ、車はすみやかに道路へとすべりだす。発進はきわめて滑らかだ。

「あんた、少し手惑ったようだが」

 ハンドルを握る〈同僚〉が、事もなげにそんな問いを放つ。

「珍しい構成だったんだ。きみも読んだろう」

 〈調律師〉は気分を害したような素振りを見せながら言う。検心に時間がかかることを彼はずいぶんと気にしていて、そこを突かれるといささか困った。

「珍しいことは、珍しくないだろう」

 〈同僚〉は可笑しそうに、〈調律師〉がなにか気の利いたことを言ったかのように、笑みを浮かべてそう応える。固有構成のそれぞれが奇異に見えることがあったとしても、奇異であることそれ自体はよくあることなのだ。確率の上では常に存在するその一点を、〈調律師〉はたまたま突いたに過ぎない。

「ごもっとも」

 煙にまかれたような感触を捨てきれないまま、〈調律師〉はさっさと降参する。

 要は、こう言いたいわけだろう。

「人間はピアノのように単純でない、しかし複雑なだけのピアノだ」

 思い出したように〈調律師〉が、一行のことばをとりあげる。最初は突き放したように響いた警句。いつのまにか口癖になって染みついた、彼らのモットー。

 それきりふたりはなにも喋らない。中間色に塗られたいくつもの一軒家が、にぎやかに車窓を横切ってゆく。

 ぬるく吹く風と穏やかな日差しのなか、立ちならぶ家々のそれぞれは、似ているようでも少しずつ異なっている。立地に応じ、世帯構成を考慮し、間取りや外装に調整がなされる。かすかな雁行に、立面の造作に、設計者の意図が込められている。

 調律師たちはもちろん、そうした事情をよくよく理解してはいる。仕事の性質上、施工に伴っての依頼は多い。図面に引かれる直線は、そのまま建築家の言語となって、意味するところを雄弁に語ろうとする。そうして先鋭化された意思疎通の間隙を埋めるのに、調律されたことばがしばしば求められる。

 そうして理解はしていても、身体のすべてを職掌と理性に従わせるのは難しい。単調な――実のところ変化に富むにせよ――風景に辟易した〈調律師〉は、柔らかい助手席に身体を沈める。巡回が終わり、彼らの目的地が尽きることは当分ない。検心の日どりは地域ごとに定められていて、変更はめったに行われない。毎年ある時期がくれば、親たちは微かな不安にかられ、子どもたちは来るべき客人について想像をめぐらす。調律師たちはといえば、過密なスケジュールに身を擦りへらしながら巡回路をたどる。そういうものと決まっていた。

「そういえば」

 いやいやながら、といった風に、〈調律師〉が話を再開する。前任者からの経過報告にあった、不穏な兆候を思い出す。

「おまえ、次は難しいと聞いたが」

「らしいが、別にそうかからんだろう。あんたと違って。だいたい」

 だいたいなんだよと促すと、息を吐いてから〈同僚〉は答える。

「だいたい、おれが選ばれたのは難しいからだ。そうでないなら、あんたでも務まる」

 勘弁してくれよと〈調律師〉が弱る。冗談、冗談だよと〈同僚〉が言う。

 車はゆっくりと減速し、計算された正確さで停止した。

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