9−7
「ソル、大丈夫? お母さんよ……」
ヒトミの言葉に、ソルはゆっくりと首を傾げる。長い睫を並べた瞼が何度も瞬く。
「……母上?」
声も成人男性のそれだったが、どこかあどけない。無垢な表情も、幼い子どものようだった。
互いの血と絆を確かめるように、ヒトミとソルは見つめ合う。
ヒトミは以前話していた。子どもは生まれて間もなく、戦士として育てるために奪われたと。だから、成長を促進させるためにマグマグマの腹の中に入れられたのか。
……恐らく、食わせたのだろう。
ソルの腕にも、聡介と同じような赤い輪がある。あれは神血珠を撃たれた者の印だ。そして、マグマグマの好物は神血珠だと言っていた。
吐き気がした。赤ん坊にそんな仕打ちをするなんて。
赤黒いマグマグマの抜け殻はしばらく痙攣していたが、やがて動きを止めた。
死んだ……のか? こいつも己の意志とは関係なくソルを体内に埋め込まれたのなら、可哀想な話だ。
勝ったという充足感はなかった。苦い思いだけが残る。
変身が解けるとき、いつものように薄い殻が割れて零れ落ちて言った。
澄んだカエルの鳴き声が響いて、しばらくすると雲が厚く垂れ込め、雨が降り出した。ワニマッチョが消しきれなかった火も、この雨で鎮まるだろう。
とりあえず、終わった。あとは、裸の男をどうやって連れて帰るか……。
「……? 痛ってぇ!」
脛に激しい痛みを感じて、聡介は思わず叫ぶ。
聡介の足には黒くて小さな生き物がしがみつき、その小さな牙を立てている。
「え……小熊?」
つぶらな瞳に丸い耳、黒くて短い毛。ティディベアそのものの愛らしい姿の獣が、聡介に向かい両前脚を高く上げ、威嚇の声を上げている。頭上からは僅かに溶岩が漏れ出ていた。
「うわぁ、可愛い」
有馬が呑気に言う。
確かにまぁ、可愛いが……。これはなんだ? マグマグマが身ごもっていたとか?
小熊と裸ん坊のソルの対処に困っていると、突然、音もなく大きな鳥が頭上を掠めていく。
いつか見たフクロウだ。鳥は聡介たちの上を旋回したあと、地上に降り立とうとする。
その瞬間、翼が大きく広がりフクロウの身体は人型へ変化する。丸いフクロウの顔は消え、変わりに初老の男の顔に変わる。
白髪交じりのオールバックの髪にモノクル、アンバーの瞳。クラシカルなスリーピースに身を包んでいる。まるで執事のような出で立ち。手には大きな鞄を持っている。
「え。……ノクスさん?」
ノクスは翼を畳み、聡介に一礼するとヒトミとソルのそばへ駆け寄る。
「ソル様、ご無事で何よりです」
ノクスはソルのそばへ跪くと、鞄から取り出したタオルで濡れた身体を拭いてやり、大きなマントのような布で彼の身体を包んだ。
ぽかんとしている聡介の元へくると、ノクスは荒々しい小さな獣をそっと抱き上げ、宥めるように背中をとんとんと叩いた。
「驚かれたでしょう。これがソル様を取り込んでいたフェルムの本来の姿です。まだ、子どもなのです。ソル様と同化してあのような巨大な姿になっていたのです」
いやいや、フクロウがノクスに変化したのも驚きなのだが。
「町の方たちは心配ございません。記憶を完全に消すことはできませんが、より現実的な〝事件〟として残るに留まるでしょう。わたしは自ら指定した空間を支配できます。そこに生きる者の記憶も。ただ、範囲が広ければその効力は弱まります」
事務的な調子でノクスは語る。
そうか。ショッピングセンターの客や堤、海たちの記憶が曖昧なのは、ノクスの力のせいだったのか。
「僕の記憶は?」
有馬が口を出すと、ノクスは丁寧に向き直る。
「関わりの深い方の記憶の操作は難しいのです。それに、あなた様はアウロラ様が自らご事情をお話した方ですから、消す必要もございません」
「どうして俺たちに協力を? やっぱり、ヒトミさんのためですか」
「わたくしはあくまで、ラルヴァ様の
ノクスは丁寧に一礼したあと、片方の腕にフェルムを抱き、もう片方の腕を広げ翼を出したかと思うと瞬時にフクロウの姿に戻り、空へと飛び立ってしまった。
「ノクスさん、お疲れ様でした!」
地面の中から顔を出したワニマッチョが短い手を振っている。頭の上にはケロケロもいた。
「お前らも……ありがとう」
「いやぁ、俺たちは何にも」
ワニマッチョは大口を開けて笑い、短い手をぶんぶんと振る。ケロケロは吸盤つきの手で何度も顔を拭っていた。
「アウロラ様、また何かお手伝いできることがあったら、呼んでください」
その言葉に、ヒトミは眉をひそめ、ワニマッチョを一瞥する。
「お前たちに手伝ってもらうことはもうない」
「そんな」
情けなく声を震わせるワニマッチョに、ヒトミは苦笑で応える。
「でも、会いたくなったら呼ぶね」
ヒトミは指先で優しくケロケロに触れる。ワニマッチョはつぶらな目を何度も瞬いたあと、どぷん、と音を立てて地面に潜る。大きな波紋ができ、しばらくの間それは揺らいでいた。
聡介は徐々に曖昧になる波紋が完全な元の地面に戻るまで、じっと見つめていた。
緑地は本来の静けさを取り戻したけれど、黒く焼けた草が残り、焦げたにおいは風の中に残っている。
「聡ちゃん、お疲れ。一件落着、かな? 充電切れそう」
有馬がビデオカメラをいじりながらのんびりと言う。その声で、急に現実感が戻ってきた。身体中がギシギシ軋むように痛いし、酷く疲れている。マグマグマを殴った手は、変身を解いても火傷の痕があった。
よくあんなのと戦ったな。そう思うと今さらながらじわじわと恐怖心が沸いてくる。
「聡介、ありがとう。本当に……」
言いかけて、ヒトミはふらりとよろけた。
「ヒトミさん!」
慌てて支え、顔を覗き込むと、腕の中ですーすーと静かな寝息を立てている。
「嘘じゃなかったな。ほんと強かったよ、ヒトミさん……」
起こさずこのまま連れて帰ろうと、聡介はヒトミを抱え立ち上がる。しかし。
「…………っ」
かっこよくお姫様だっこをしたつもりが、へっぴり腰でよろよろしてしまう。
ヒトミは背も高いし軽々というわけにはいかない。なんとか持ち上がったが、家までこれで歩く自信はない。
こんなことなら変身したままでいればよかったか。いや、あの格好で帰るなんて羞恥プレイでしかない。おんぶならなんとか歩けるかも。いやでも、起こすのは可哀想だし……。
よたよたと歩く聡介に、有馬は呆れたようにため息をつく。
「危なっかしいなぁ、聡ちゃん。ソル君に代わってもらったら。力持ちそうだし」
その言葉にソルは小さく頷き、両手を広げる。その逞しい腕にそっとヒトミを預けた。
ソルはまるで雲を抱くかのように苦もなくヒトミを支える。
「うわぁ、軽々って感じだねぇ、聡ちゃん。やっぱこうでなくちゃねぇ」
有馬は目を輝かせながらカメラを向ける。
金髪碧眼の美青年が眠る美女を腕に抱く姿は、有馬でなくとも映像として留めておきたいようなドラマチックな光景だった。
腕の中で眠る母親を慈しみを込めて見つめるソルの表情も、ため息が出るほど美しい。全裸にマントという出で立ちも、ファンタジー映画か何かだと思えばかっこよく思えてくる。
「絵になるねぇ。ね、聡ちゃん」
「まぁな……」
複雑な心境で見守りながら、聡介は有馬とともに歩き出す。
踏み出す度に膝が笑う。酷く疲れて身体が重かった。
母親を抱いたまま歩くソルの姿を見ながら、悔しいが代わってもらって本当によかったと、聡介は密かに胸を撫で下ろした。
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