9−4
助けて、助けて……。
実際には、声など出ていなかった。ただ、心の中で必死に叫んでいた。
少し離れたところで、男たちの声が行き交う。聡介が目覚めたことにはまだ気づいていないようだ。
このガキどうする。顔を見られたんなら殺すか。そこまでしなくても。この年齢じゃごまかせないだろ。やるなら早くしろ。
見ていない。顔なんてわからない。機械に人影が映ったかと思った瞬間、後ろから殴られたのだ。だけどそれを伝えたからといって助かるわけではない。
どうしよう。どうしたらいい。必死で考えてみたけれど、頭の中に巡るのは後悔ばかりだった。
こんなところにくるんじゃなかった。家でゲームでもしていればよかった。
学校で、遊びに行くときには大人に行き先を知らせましょうとよく言われた。そんなの、もっともっと小さい子が守るべきことで、自分たちには関係ないと思っていた。
一人で電車も乗れるし塾にも行く。ときには晩ご飯だって一人で食べる。日常生活で自分の無力さを感じることなんて、それほどなかった。
だけど今、自分が無力で小さな子どもなんだと思い知らされた。
こんなときに、正義の味方がいたら助けてくれるだろうか。心の声を聞いて、ヒーローが駆けつけてくれたら。
そんなことを信じているほど幼くはない。だけど、祈らずにはいられなかった。
誰か……誰か、助けて……。
出血のせいなのか、それとも恐怖のせいなのか、再び意識が遠のく。もう二度と目覚めることはないのだろうか。
もう、父にも母にも会えないのか。こんなことなら、もっといい子でいればよかった。言うことを聞けばよかった。勉強ももっとして、お手伝いだって、もっとすればよかった。
ごめんなさい―――。
そこで、聡介の記憶は途切れている。そのはずだった。
男たちが聡介に近づいてくる。仕方ない、悪く思うな、そんなことを口々に呟きながら。
何故、こんな光景を憶えている?
あのときは頭を殴られて、気を失っていた。気がついたら病院のベッドだった。そのはずだ。
「誰だ!」
犯人の一人が叫ぶ。視線は聡介から、侵入者へ。
倒れていた子どもの視点から、大人の目の高さへと風景は移り変わる。
なんだ? これは、自分の記憶ではないのか。不思議に思いながら、聡介は注視する。目にしているはずのない光景を。
廃工場の壊れた扉から、夕陽が差し込む。オレンジ色の光の中、男が一人歩いてくる。顔は逆光で見えない。
「聡介……」
聞き覚えのある声は擦れて震えていた。犯人たちは男を取り囲む。手にはナイフや鉄パイプを持っている。
それでも臆することなく……というか、そんなものは目に入らないといった様子で男は近づいてくる。男の視線は、血を流し倒れている少年に注がれていた。
「ごめんなぁ、俺が遊んでやんなかったから……」
涙声。外面もなく、子どものように手の甲で何度も顔を拭っている。
現れたのは正義のヒーローではなかった。
普通の男だ。小学三年生の子どもの父親だ。毎日残業で疲れて帰って、休日には家でゴロゴロしている。子どもには遊べとせがまれ、妻には掃除の邪魔だと追い払われ、ソファーの上で小さくなりながらテレビを見ている。たまには家族で出かけて、帰りには祖父の経営する喫茶店に寄ってクリームソーダを飲ませてくれる。
ごく普通の、どこにでもいる父親だ。
だけど、聡介にとっては特別な、ただ一人の人だった。
男の怒号が工場内に木霊する。取り囲む男たちに殴りかかっていった。一つパンチが入ると勘を取り戻したのか、それとも無意識なのか。足は肩幅に軽く膝を曲げ、拳で顔面を、肘で腹部をガードするフォームを取る。
父は学生の頃、少しだけボクシングを囓ったと話してくれたことがある。トレーニングがきつくて挫折したんだと恥ずかしそうにしていた。
弱かったって。試合では一度も勝てなかったって、笑っていた。
そんな父が、三人を前に立ち向かっている。
拳は血にまみれ、怒りのせいか爛々と輝く目をして、荒い息を吐いている。獣のような唸り声を上げて、殴る。殴る。殴る。
次第に、武器を持っているはずの犯人たちはその狂気に戦意を喪失していく。
―――怖い。あんなの、父さんじゃない。
子どもの怯える声が耳を震わす。
「違う……。父さんだ、俺の父さんだ……」
―――人殺しだ。三人も、殴り殺した。たった一人で。
声が増える。知らない大人の声だ。
「違う! 父さんは……」
―――相手が意識を失ったあとも、何度も、何度も殴り続けた。恐ろしい殺人者だ。
何故、何も知らない奴がそんなことを言うのだ。
苛立ちが募る。無責任な誰かの声に。
何よりも、それに刃向かわなかった自分に。
―――お前の父親は、凶悪な犯罪者だ。
目の前にはまだ、父の幻影が見える。赤く染まった拳を振るいながら泣いている。聡介の名を呼びながら。
「違う! 父さんは! 俺を助けてくれた……世間がなんと言おうが、父さんは……」
辛い思いはたくさんした。
だけど。それでも。
「俺にとっては、父さんはヒーローだったんだ……っ!」
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