第2章
なりゆきで変身!
2−1
店を閉めたあとの土曜日の夜。翌日は定休日で、週のうち一番のんびりできるひととき。そのはずだった。
だが聡介は、深夜の町を走っていた。汚れて澱んだ川沿いの、細い道だ。遠雷が視界の端で光る。
今踏み越えたマンホールの蓋が水圧で飛ぶ。夜空に豪快な噴水の花が咲く。
一瞬、水の中に何者かの影が見えた。しかしすぐにその姿は暗渠に消える。
聡介の背後で、グヮン! と鈍い音を立ててマンホールが落ちた。
ぞっとして、聡介はさらに速度を上げた。
息が上がる。喉の奥がヒリヒリと痛い。こんなに全力で走ることなんて日常生活にはない。ましてや、得体の知れないものから逃げるなんて。
全速力で走る聡介の後ろをぴったりとついてくるのは、ヒトミだ。店を訪れたときと同じビキニにマントという姿だ。
陸上でもやっていたのか、彼女は平然とした顔をしている。
「どう? 変身する気になった?」
どこかうきうきとした調子で、ヒトミは訊ねてくる。
「正義の味方になれるんだよぉ? 全人類の夢じゃない? 平和のために戦おうよ!」
「だから、なんで俺なんだよ!」
格闘技をやっていたわけでもないし、特別に身体能力が高いわけでもない。
正義感がないわけではないが、それは町で酔っ払いの喧嘩を仲裁する程度のことだ。それでも一般人にしてはそこそこ勇気がある方だろう。
見ず知らずの人を助けるために、殺すつもりで襲いくる敵に立ち向かう。しかも相手は人間ではない。
そんなこと、できるわけがない。
「だーかーらっ、変身すればいいじゃない?」
聡介の心を読んだように、ヒトミが軽い調子で勧めてくる。指に引っかけた銃をくるりと回し弄ぶ姿には真剣みが感じられない。
「この中には神血珠という結晶が入っていて、生き物の構造を変えることができるの」
なんだよそれ。構造を変えるって、どういうことだ。そんなわけのわからないことを安請け合いできるわけがない。
「わたしがこれを撃つと、聡介は変身して戦える! ヒーローになれるんだよ!」
なりたくない、そんなもの。
誰がヒーローになりたいなんて言った。
変身なんて、したくない……したくないんだ。
「どうする?」
どうするって――。
「うわあぁぁっ」
水しぶきが上がる音と悲鳴に驚いて足を止めると、そこにはよれよれのスーツ姿の中年男性が腰を抜かしていた。
彼の目の前には、異形の姿があった。
背丈はあまり高くない。胴は格闘家のような隆々とした筋肉を持つ男のものだが、短めの手足には鱗と、鋭い爪があった。背中から長い尾にかけては、頑丈そうな灰色の鱗甲で覆われている。鱗甲には規則正しく発光器官らしきものが並んでいる。長く大きな口には、人間など簡単に引き裂いてしまいそうな牙が並んでいる。
……ワニ?
マッチョなワニが二本足で立っている。
たぶん映像で見たらコミカルだと思えるだろう。だが、目の前にいるとなると話は別だ。第一、本物のワニだって充分危険なのに。
ワニマッチョは中年男を見下ろしながら、ガチガチと歯を鳴らしていた。
「お前かぁ? お前かぁ?」
誰かを探しているのか、ワニマッチョが小首を傾げ訊ねる。
男は顔を恐怖に引き攣らせながらも、何度も目を擦り自分の頬をつねっている。たぶん、深酒をして帰路に着く途中だったのだろう。
酔って幻覚を見ている、そう思い込みたい……といったところか。
ついてない人だ、こんなことに巻き込まれるなんて。
「早く決心しなさいよ。あの人死んじゃうよ」
「勝手なこと言うな!」
思わず叫んだが、聡介は今にもワニマッチョに襲われそうな男から目を離せずにいた。
「いいの? 見殺しにする? まぁ、自分の命が一番大事なのは当然だから、罪悪感なんて感じる必要ないのよ。あの人にも家族や愛する人がいるだろうし、家のローンも残っていて、責任ある仕事をしているかもしれないけれど、仕方がないよね。聡介にだって戦うか否かの決定権はあるもの」
「……俺の、俺のせいだっていうのかよ!」
「そんなこと言ってない。ただ、聡介が決心すれば、彼が生き延びる可能性が上がるというだけ」
「あの人、死ぬのか」
「さぁ? わたしは未来まで見えるわけではないわ」
肩を竦める姿に怒りを覚えた。まるで人の人生などどうでもいいみたいだ。
異世界からきたという彼女の言葉が頭を掠める。
そうか、この世界の人間じゃないから、こんなに他人事なのか。
人には、平穏な日々を送る権利がある。
どんな人にだって等しくその権利はあるのだ。
自分にも。……あの中年男にも。
聡介は拳を握り締める。
見捨てるのか。あの人を。
赤の他人だ。自分の身を危険に曝してまで助ける義理はない。
だけど元々、ワニマッチョは聡介を追いかけていた。
巻き込まれたんだ、あの酔っ払いの中年男は。不運だと見て見ぬふりをするか。
ぽつりと頬に水滴を感じた。雨だ。
聡介は己の手を凝視する。ごく普通の……男にしては少し線の細い手だ。
戦う? あのワニマッチョと? そんなバカな。
この手はおいしい珈琲を淹れるためにあるんだ。じいちゃんの店を守るために。
「うわぁぁぁっ、たっ……助けてくれぇっ!」
誰にともなく男が助けを乞う。
我に返ったのと同時に、聡介は叫んでいた。
「ちくしょう! やれよ! もうどうなっても知るか!」
「オッケー! やっと決心したわね」
ヒトミは張り切った声で言い、銃を構える。オカリナのような流線型の、おもちゃのような銃。
それでも、この非現実的な状況下では恐怖を感じる。
「いや……ちょっと待っ……」
戸惑いの声は擦れる。
何が起こるんだ。撃たれて本当に平気なのか?
ヒトミは少し距離を取り、聡介の胸に照準を合わせた。
雨が強くなってきた。遠くにあったはずの稲妻が頭上の空を切り裂く。
何の合図もなく、ヒトミは発砲した。
胸を何かが突き抜けていったような衝撃がして、聡介の身体がくの字に折れる。
痛みはない。血も出ていない。自分の胸をさすり、ヒトミを見た。
「……? 何も起きねーじゃねぇか……」
そう言いかけた途端。突然、腹の奥から何か熱いものがこみ上げる。目眩がして、視界が赤く染まる。
錯覚かと思ったが、違う。頭上から、何か赤く光るものが迫ってくる。
「なん……だ?」
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