2−2
聡介が気づいた途端、それはスピードを増した。わけがわからず、聡介は反射的に走りだす、だが。
腕を強く掴まれたような感覚、もぎ取られるかと思うような痛みが走った。
同時に、焦げたようなにおいが鼻を突く。
「―――熱っ!」
赤く光る輪が聡介の腕を拘束した。シャツの袖は焼け、その下の肌には火傷のような痕があった。
光は徐々に聡介の全身を呑み込む。痛みと恐怖に喉からは叫び声が迸る。全身がヒリヒリと焼けつくようだ。
なんだ……何が起こっている? 意識の底に残った理性で考えようとする。
雨の粒が聡介の肩に落ちる。ジュッと音がして、すぐさま水滴は蒸気に変わる。それほど、身体が熱を持っているのだ。
手のひらを見ると肌の色は変色し、質感も硬く変化していた。恐ろしくなって、聡介は自分の顔に触れる。明らかに人ではない感触、硬い突起がいくつか頭部に並んでいた。
「うわっ……っ、わ」
上ずった声は確かに自分のものだ。驚愕と安堵がせめぎ合う。
これは何だ。何が起こっている。
それを問いたかったが、身体が独りでに動く。
雨に濡れたアスファルトを蹴り、敵と承認した者の元へ。
ワニマッチョは待ち構えるようにして短い腕をぐるぐると回している。
「お前、かぁ?」
「……誰を探している」
ふいに混乱が収まった。頭の中は妙に静かだ。自然に、聡介の視線は敵をロックしている。
大口を開けたままワニマッチョが首を傾げる。
「うーん、名前は知らない」
唸りながら首を傾げる様子は、頭が切れそうなタイプには見えない。
「探していたのは、お前」
威嚇なのか、敵はガチガチと歯を鳴らし、その大口をアピールしている。
噛みついてくるつもりなのか?
そう思い身構える、しかし。
ギュンッ! 降り注ぐ雨を切り裂くような音がして、鞭のように尻尾が飛んできた。躱した背後では、尻尾が激突した電柱が根元から折れる。命中していたら背骨など簡単に折れてしまいそうだ。
聡介はひどく動揺した。
恐怖するどころか昂揚している自分に。
敵だ、敵だ、敵……。
心の奥底がざわつく。
こんなのは自分じゃない。そう叫んでいる理性の声は小さく遠い。それよりも敵の動向を追うのに夢中だ。
楽しい……のか。
どうやら、そうみたいだ。
鼓動は早くなるけれど、それは攻撃の瞬間を待ちわびて高鳴るのだ。
上手く躱して、次は反撃する。頭の中でイメージを固めていく。
ワニマッチョはトロそうに見えたが、長く太い尾を振りその反動で仕掛けてくる攻撃はなかなか素早い。
弓なりになった尾が目の前を掠める、次の瞬間、視界いっぱいに洞窟が見えた。
ああ、ワニの口か。唾液まみれの舌と鋭い牙が迫る。
「聡介! 嚙まれる……!」
ヒトミの声が聞こえた。一応、心配そうな声だ。
自分で仕掛けておいてなんだよ。
そう、心の隅で毒づく。
「嚙まれなきゃいいんだろ」
噛みつきによほど自信があったののか、大口を開けていて聡介の動きを感知するのが遅れたのか。
聡介が躱したのにも気づかず、ワニは勇んだ目をして勢いよく噛みついた。何もない空間に。
左手に逃れた聡介はワニの鼻先を掴み、捻るように握る。意外なほど容易にぐにゃりとそれは変形した。
「あ、あが……」
鼻を掴まれたのが相当嫌だったらしい。ワニらしい短い手足と尻尾をじたばたさせるが、反撃には至らない。
離してやると、慌てて鼻をさすろうとするが、短い手では届かない。
その隙をつき、思いっ切りワニマッチョの横っ面を殴った。
想像していたよりも拳がめり込む。
強い弾力のあと、何かが砕ける音が骨を伝う。
ワニの巨体は一瞬宙に浮き、水しぶきを上げて倒れる。
血と唾液の交じった液体が散り、雨と混じった。
やってない。まだだ。身体がそう言っている。
聡介の思考は〝それ〟に押され霞む。
誰かに支配されているような気分だ。だけどわかる。これも自分自身なのだと。腹の底から湧き上がる欲望。
壊したい――粉々に砕いて、引き裂いて、原形もないくらい。
激しい衝動が身体を駆け抜ける。何か凶暴なものが体内で蠢いているような感じ。
なんだ、これは。
ぞっとして我に返った。
よろけながらも体勢を立て直したワニマッチョは、腹ばいになると雨に濡れたアスファルトを滑り、聡介から距離を取った。
「……お前けっこう強い。出直す」
そう言ってワニマッチョは頬を押さえながら、蓋の空いたマンホールの中へと消えた。
続いて飛び込もうとする聡介を、鋭い声が制す。
「聡介! 深追いはするな!」
ヒトミの鋭い声に足を止める。
一先ず敵を撃退し、ほっとしていいところだ。
なのに聡介を支配しているのは未消化な気持ちだ。
やり足りない。身体中がざわめいているのがわかる。
それが不快で吐きそうだ。
「逃げられちゃったけど、まぁ、初戦にしては上出来じゃない?」
脳天気なヒトミの声に苛立ちながら、気を失っている中年男をブロック塀にもたせかけ、頬をそっと叩く。
「放っておいてもそのうち起きるわ」
「……こんな雨の中寝ていたら風邪を引く」
「風邪くらいかまわないじゃない。命拾いしたんだから。それに、そんな姿を見られていいの?」
言われてふと見上げると、カーブミラーに映る自分の姿があった。
闇夜に紛れるような漆黒のボディに、血脈のような赤いラインが走っている。
頭部や背中、肩には棘のような突起が幾つも並んでいる。双眸は大きく、つり上がり発光している。胸や腹にも発光する器官があった。
特殊なスーツを着ているようにも見えたが、質感は奇妙に生々しい。
これが、自分。変身した姿――。
元の自分とは似ても似つかない、異形の姿がそこにあった。
「聡介?」
「……気持ち悪い」
そう呟くと、急に身体中から力が抜けた。
黒い皮膚がひび割れ、卵の殻のように儚い音を立てながら剥がれ落ちていく。地面に落ちた殻はすぐさま砂のように粉々になっていった。
ひどくふらふらして、立っていられずに聡介は膝を突く。疲労感が全身にまとわりつく。
視界の隅に人影が見えた。見覚えのある小太りの若い男だ。雨傘に隠れて顔はよく見えないけれど、間違いない。
「……聡ちゃん?」
有馬……どうしてここに……。
問いかけようとしたけれど声が出なかった。次の瞬間、風景がぐるりと回る。
「聡ちゃん!」
有馬とヒトミの顔が見える。その向こうには土砂降りの空。そうか自分は倒れているのかと理解した瞬間、ブラックアウトした。
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